ボクにとっての終戦記念日(2020年8月15日)
ボクはこの4月から"CQ"というアマチュア無線の雑誌に連載記事を書いている。この雑誌は本屋ではオーディオとか無線の棚に並んでおり、かつては月間15万部売れていたそうだが最近は3万部弱程度らしい。

それはともかく、どんな記事を書いているかというと、”WW2(第2次世界大戦)と無線技術"、という少々小難しい、と言うかオタクっぽい題名である。こういうのは今までは専門家が書いているテーマで、ボクのようなアマチュアが書いたものは見た事がない。

まあ雑誌そのものが”アマチュア”無線家用なのでボクが書いてもいいんじゃないかと思い、アイデアをT編集部員に持ちかけたところ、「是非お願いします!スキに書いて下さい!」、とか言われたので無謀とは知りつつ、6回シリーズで記事を書くことになった。

昨年は"ゾルゲスパイ事件”を5回シリーズで初めて書き、様々な面で大変勉強になった。
当たり前の事であるが原稿は毎月締め切りがあるので、仕事を辞めたボクには生活のメリハリがつくという効果もある。

今年の連載タイトルの”WW2と無線技術”は、これではあまりにも範囲が広くて書きにくいため、実際は戦闘機の無線電話通信とレーダー開発(主として日本海軍の艦艇搭載用)の2つに絞って書くことにした。

ページ数の割り当ては毎回6ページ、文字数制限(7000文字程度以下)に少し苦労する。原稿はWORD,表はEXCEL,図はPPTで作成して写真と一緒に送る。しばらくすると細かい部分が校正され、プロがレイアウトしたドラフトが送られてくるので、2度ほどやりとりして完成。最近は大分慣れてきた。

■1回目(5月号) ヨーロッパでの無線通信

昭和15年(1940年)7月からドイツはイギリス本土上陸を意図し、大航空兵力でイギリスを攻撃、これをイギリスが守り抜いたBOB(Battle of Britain: バトルオブブリテン)というのがあった。BOBでイギリスはレーダー、無線電話による戦闘機誘導、それに総合的な指揮システムを駆使し、ドイツの攻撃からイギリスを守った。

やり方はまずレーダー又は目視でドイツ軍機を見つけ、司令部はこの情報を味方の戦闘機に無線電話で連絡、有利な位置からの攻撃を行うというのを大々的にシステマチックにやった。これに対し日本は終戦直前まで、戦闘機というものは”パイロットの判断で敵機と一騎討ち”、という考えが支配的でレーダー、無線、地上管制を使っての戦い方ではなかった。
従って戦闘機用の無線電話の必要性は低く、開発が遅れた。

5月号ではもうひとつWW2時のドイツ占領下での各国で後方攪乱作戦などをやったレジスタンス活動について書いた。
これもイギリスのSOE(Special Operation Agency )という組織が中心となってレジスタンス活動要員の教育などを行い、それぞれの国の要員と通信には小型の小さなカバンサイズの無線機を使った。

SOEは爆破・誘拐・殺害その他何でもやった組織で、「敵に反撃する手段を持たない時は、こういう手段は正当化される」、と言っているが何のことはない、今世界中で起きているテロの見本を作ったのはイギリスであるという人がおり、ボクもそれには反対しない。

■2回目(6月号) ミッドウエー海戦と無線電話

ミッドウエー海戦とは太平洋戦争で日本が敗戦への第一歩を踏み出す事になった戦いで、これ以降日本は昭和20年8月15日に向かってまっしぐらとなる。
この海戦は日本の戦力がアメリカより勝っていた戦いであった。しかし海戦は日本が空母4隻他を失い、3000名が戦死という日本惨敗の結果となった。

海戦は調べれば調べるほど5月号紹介のイギリスの本土防衛作戦との違いが際立つ。日本は艦隊防空をイギリスのようにシステム的に研究をしていなかった。

当時はまだ日本の戦闘機の性能、パイロットの技量とも一流、その他何をとっても日本はアメリカより勝っていた。
しかし結果的に戦闘機パイロットの個人技による艦隊防空ではどうしてもスキができ、そのスキから突っ込んできた爆撃機に航空母艦は全部やられたのである。

当時のセロ戦にはどんな無線機が搭載されていたか、また実際に防空に当たっていた生き残りの戦闘機パイロットの証言などを集めて紹介した。

日本が、「戦闘機にも"使える無線機"が必要」、というムードになったのは日本の敗戦が濃厚になってきた昭和18年以降である。

ちなみにこの要求によって開発された完成度の高い無線機は5年くらい前の技術で作ってあった。
つまり高性能無線機がなかったのは技術の問題ではなく、使う側の要求がなかったからであった。ここもポイントとして記事を書いた。

■3回目(7月号) レーダー開発の黎明期

日本海軍がレーダー開発に着手したのは意外と早く昭和10年頃からである。イギリスとかアメリカに比べて決して遅かったという訳ではなかった。調べたボクもこれは意外だった。
日本海軍には伊藤中佐という工学博士の技術士官がおり、レーダー開発を小規模で開始していたのであった。

問題はズバリ、レーダーを使う側(作戦を立てて、戦術を行使する側)にレーダーを使って戦を有利に進めようというアイデアがなかった点で、これは致命的であった。
このため開発は一貫性に欠け、GO/STOPを繰り返し技術サイドは混乱、大きく遅れてしまった。

一方、既にヨーロッパで始まっていたWW2に於けるレーダーに関する情報が、各国大使館の駐在武官などから日本には入っていた。

ドイツ戦艦ビスマルクがイギリスのレーダーで追い詰められて撃沈された、イギリスのレーダー網がドイツ空軍から本土を守った、イタリア海軍がイギリスのレーダー射撃で手も足も出なかったetc。

「やっぱりレーダーは大事らしい、ちょっと試作してみろ」、という大臣訓令が出たのが太平洋戦争の始まる4ヶ月前。
日本は、他人(国)の成功事例がないと動かない、これは昔も今も同じで”人マネ”と言われる所以である。

海軍は科学を重視する組織だったというが、ボクに言わせるとそれはちょっと違うような気がする。
海軍は精神的な部分を優先せざるを得ない宿命的事情があり、新しい科学的な合理性を受け入れる素地が弱かったという感触が強い。これは調べるとそういう事を裏付ける記録・資料がいくつも出てきたのだ。
「こりゃイカン!何とかしろ!」、となったのが昭和18年。遅すぎた。

■4回目(8月号) 日本海軍のレーダー開発スタート

大臣から「試作着手せよ」という訓令が出た1ヶ月後(前から自主的にやっていたとは思うが)には150MHZのメートル波レーダーが完成、その6ヶ月後にはマイクロ波レーダーも完成(いずれもプロトタイプの更にプロトタイプレベルと思われる)。
予算を注ぎ込んで人を集め、体制を固めれば物事は転がり始める、という典型である。

海軍上層部は戦艦から敵艦をキャッチ・砲撃照準を行う”対水上監視・射撃管制レーダー”を最優先し、その後の戦いに最も必要であった対空監視レーダーは2番目の位置付けだった。

対水上レーダーはマイクロ波を用いる必要から技術的に難しく、結局終戦1年前に使えるものがやっと完成、「さあ装備するぞ!」、となったが載せるべき軍艦は既に殆どが海の底。

最初からある程度使い物になっていた対空監視用メートル波レーダーは小型化が遅れ、当初戦艦・巡洋艦などの大型艦しか装備できなかった。

全艦艇に装備が開始されたのは昭和18年の末頃からで、その後各艦は敵機を見つける目は持ったが、見つけた敵機を迎え撃つ戦闘機が既になくなっていた。

つまり開戦前の開発の遅れが大きく影響して、何とか出来上がった時は載せる軍艦も、敵機を迎え撃つ飛行機もなかった、、、完成したレーダーは倉庫に山積み、そして終戦、、、ズバリ、これがレーダー開発の顛末である。
この山積みになっていたレーダー(数百セット以上あったと言われる)はどうなったのか? これらは戦後の日本の食糧難を救うために南氷洋に行った捕鯨船団に搭載され、航海用レーダーとして活躍した。

■5回目(9月号)

日本海軍がなぜレーダー開発でアメリカに遅れを取ったのか、遅れは部分的に見ても3〜4年、全体としては10年以上あったという人が多い。そこでボクは遅れの原因は次の3つにあると考えた。

1.海軍にレーダーを理解してそれを応用するという科学的風土が弱かった。技術を理解して、レーダをどう使えばいいのか、という研究が不足していた。

2.日本の工業力そのものがお話にならないくらい遅れていた、特にモノ造り領域、日本の工場は基本的に職人の手造りが中心というレベルだった。

3.アルミ、鉄、銅、ニッケルなどの基幹材料のみならずモリブデン、クロムなどのレアメタル、その他物資という物資が全て不足していた。

雑誌には1.を2つに分け全体を4つにして、それぞれはどういう事なのか解説をした。
こういう事を誤解を生まないように解説するのはページの制約もあり、難しかった。
またCQというのはアマチュア無線の雑誌であり、読み手も様々な方がいるので、これの考慮も苦労した。

■6回目(10月号)

まだ最終原稿は出来上がっていないが、前月号に続き開発遅れの原因についてボクの気になっている部分の考察を書くつもりだ。
レーダーは実戦に間に合わず、その出来上がったレーダーもアメリカとは比較にならないレベルだった、、、。では日本は全くムダなことをなってやってきたのか。何か残さなかったのか?

日本経済連盟会(経団連の前身)が陸海軍の生産要求に応えるためにの、工業量産システムの構築についての施策提言を昭和18年頃に政府に提出している。
内容は部品の規格統一から始まって生産設備、品質管理、作業標準、更に人材としてミドルエンジニア(生産現場に直結した技術者)の養成なども含む、総合的な大提言である。
つまり日本の工業生産に関する”こうあるべし集”が生まれている。

これはレーダー開発を含む全ての工業製品の開発・製造の実態から日本の産業界の全知全能を結集分析して作られた。しかし実行は勿論間に合うはずはなく、これが生きるのは戦後になってからで政府、民間企業の施策の多くはここから出ているそうだ。

また戦時中の兵器開発技術者は、戦後の産業復興の原動力として活躍をした。
日本は繊維、家電、化学、造船、自動車の順番に復興していったが、その後がない。つまり、レーダーのような開発をやった技術者(経営者)が第一線を退くと同時に日本は成長が止まった、、、。
ナゼか?これを考察するのも面白そうだ。

ところでこういう内容、殆どアマチュア無線雑誌の記事じゃなくなってしまうのでちょっと心配になり、編集者のT氏に問い合わせたところ、「OK、OK、問題なし」、という返事だった。

あとは余興で日本海軍にアメリカと同等レベルのレーダーがあれば戦いはどうなっていたか、、、。アメリカのように優秀な無線電話装置が全ての艦艇、航空機に搭載されていたらどうなっていたか、、、。これをボク独特の観点でシュミレーションして書いてみようと思っている。

間もなく75年目の終戦記念日を迎える。ボクは今年の初めから相当な時間を割いてWW2当時の無線技術について調べると共に、太平洋戦争そのものについても調べた。
結果、それまでボクが持っていた知識がいかに断片的で、いい加減なモノだったかを痛感させられた。

日支事変〜太平洋戦争(15年戦争と言われる)で日本人は兵士として260万人、一般市民が80万人の合計340万人が亡くなっている。
注目したいのは終戦直前の1年間で犠牲者全体の270万人(80%)が亡くなっている点である。そして兵士260万人の60%にあたる160万人は餓死と栄養失調による病死であるという点もだ。
この数字を起点に太平洋戦争を捉えると、様々な領域の本質が見えてくると思う。

ボクは今回の連載記事のための調査を進める中で幾つもの許せない言葉に出会った。
開戦前後の総理大臣経験者(東条英機を除く)、陸海軍のトップに対して、終戦3ヶ月目にアメリカの調査団が行った面談記録を読んだ時は衝撃だった。

「対米戦で勝てるとは思っていなかった」、「開戦後半年、1年は何とかなるが、その後は負けるしかないと思っていた」、「終戦工作をするのであれば開戦後半年の頃だった」、と彼等は言っているのだ。
これ以上の無責任があるだろうか。ボクは激しい憤りを覚えた。

今年は終戦から75年目である。太平洋戦争の何を誰がどう反省すればいいのか、誰が何を忘れてはいけないのか、日本と日本人が75年前と同じ事を繰り返さないためにボクはどうすればいいのか。

ボクはマスコミに盛んに出てくるような平和主義・非戦主義、反戦主義者になればいいのか? しかし彼等は左翼・反体制・社会主義・反日・反米主義者達の香りが強い連中、又はそういう連中に知らずと操られて人が多く、全く別な下心が見え隠れする。ボクの信条に反する。
じゃどうすればいい?

普段はこうい事をあまり考えないボクに、年に1回だけ真剣に考える機会をくれるのが8月15日である。