ラジオと魚善の若大将(2018年4月16日)
私がラジオに興味を持った事を知った父はある日、”子供の科学”という雑誌を買ってきてくれました。それは今でも思い出すことができる、昭和35年(1960年)8月号でした。
この雑誌を朝から晩まで、隅から隅まで何回読んだことか。できる事ならもう一度見たいものです。

放送をきちんと受信するためにはバリコンとコイルが必要な事、それと検波は鉱石ではなく、ゲルマダイオード(ゲルマニューム・ダイオード)がいい事などをその後知り、再度部品を集めて今度は本格的な(?)ゲルマ・ラジオを作りました。

ところがこれがウンともスンとも聞こえない。
これを毎日いじくり回している姿を見た母親が”先生”を探してきました。
その先生とは”魚善(うおぜん)”という魚屋の若大将でした。この若大将がラジオ作りをやっているという話を母親は近所の人から聞いてきたのでした。
魚善は母親の実家の斜め向かいでした。

若大将は私の家に来て私の作ったゲルマラジオをあれこれ1時間もいじっていたでしょうか。
でもイヤホーンからは何も聞こえませんでした。
若大将はギブアップし、不具合を発見できなかった事に恐縮して、私の父母に謝って帰っていきました。

ゲルマラジオは非常に簡単なものでした。何故、”魚善”の若大将は直せなかったのか?原因は1年以上経ってから私に知識がついてからわかりました。
ゲルマラジオに使ったアルプスのバリコン、これは友人のA君のお兄さんからもらったものでしたが、ローターとステーターが完全に接触していて、機能を全く果たしていないバリコンだったのでした。

魚善の若大将、その後も時々顔を会わせていましたが、私も若大将もゲルマラジオの話しは何もしませんでした。

彫刻の板の上に作ったゲルマラジオを諦めた私は今度はプラスティックのケースに組み込んだゲルマラジオを作りました。
小学校5年生になったばかりの頃だったと思います。
この頃になると雑誌も”子供の科学”だけでなく、”模型とラジオ”、それに”初歩のラジオ”などを読むようになっていたと記憶しています。
こういう雑誌は全て古本屋で、10円とか15円で手に入れていました。

ブラスティックのケースに組み込んだゲルマラジオはコンパクトでなかなか格好はよかったのですが、レシーバーからは蚊の鳴くような音しか聞こえませんでした。

何とかもっと大きな音で聞こえないものか、日夜あれこれやってみたのですがダメでした。
三重県津市から名古屋の放送局までは約50km、ゲルマラジオで十分に聞こえる電界強度でした。

後でアンテナがいい加減だったのが原因であったとわかりました。使っていたのは長さ4〜5mの鴨居に引っかけたビニール線で、ゲルマラジオにはあまりにも貧弱なアンテナでした。

このゲルマラジオは直ぐに使えなくなりました。
それは私がゲルマニューム・ダイオードを分解したからでした。

ゲルマニューム・ダイオードが不思議でたまりませんでした。何でこんな小さなものでラジオが聞こえるのだろう、、、。
ゲルマニュームダイオードの塗料を剥がし、小さな小さなガラスの中に入っている不思議なものを虫メガネで観察し、最後にはこれを割って中を調べたのを覚えています。

数年前、魚善の若大将に見てもらったゲルマラジオをもう一度作ろうと思い、部品を集めました。当時用いた部品は現在は生産はされておりません。
しかし全て簡単に集まりました。ネット・オークションです。
ダイオードは当時使ったNEC製の”SD46”はその時は手に入れる事ができず、ナショナル製の”IN60”をネット・オークションで見つけました。

SD46は昭和35〜6年頃(1960年〜61年)、1個100円くらいだったと記憶しています。
今の物価感覚でいくと1000円以上です。現在、IN60は1個50円で買えました。20分の1です。当時の価格に置き換えると5円くらいです。
(その後SD46は手に入る事がわかりましたが)

バリコンとコイルも新品(長期保管品)をネット・オークションで手に入れました。当時のゲルマラジオの再現に必要な部品は手に入ったので、そのうち作ってもみようと思います。
ただ木版彫刻用の板、今でも売っているのでしょうか。

それにしても魚善の若大将、今はどうしてみえるのでしょうか。この人は私より10才〜15才くらい年長の方でしたから今は70代〜80才ちょっとです。
魚善は現在弁当屋になり、”うおぜん”という名前で残っています。若大将はまだここに住んでみえるのか、一度顔を見てみたいものです。

ゲルマラジオにはそんな思い出があります。