短波受信機の製作(2018年4月28日)
短波、それは短波受信機があれば世界中の放送を自分の机の上で聞く事ができる、、、。当時の私、いやその頃の小学生・中学生にとっては夢のような話でした。

昭和37年、小学校6年生になった私は中学校2年生のSさんと、どうすればもっとうまく短波放送とかハムの電波を受信できるようになるか、お互いに研究しました。
そして自分たちで何とか作れそうなのが真空管を数本使用した、”0−V−1”再生式受信機という事になりました。

製作にあたって最大の問題は予算。参考にした”初歩のラジオ”という雑誌によると、1500円〜2000円程度は必要とありました。今の価値で言うと10倍〜15倍くらいすればいいと思います。これは当時の私にとってはとてつもない大金でした。
部品をどうやって安く手に入れるか、これが一番の関心事項でした。

ある日Sさんと会った時の事です。
「N君、津城跡の横にクズ屋があって、そこには警察が使っていた無線機の廃品とか、ラジオの廃品が一杯あるそうだ。行ってみよう。」

私とSさんは津城跡の南西隣にある、大きなクズ屋(廃品回収業者)に行きました。
入り口にはクズ屋の親父さんらしい怖そうなオジさんがいて、私達はラジオ関係の廃品を見せて欲しいと頼みました。
オジさんの許可をもらった2人は、廃品の中のラジオを探しました。

ありました! 廃品の中に解体されたラジオ、大きなダイアルの付いたボロボロの無線機のようなものが転がっていました。

私とSさんはその中から使えそうな(と言うか、カラスが割れていない)真空管を何本か取り外し、それをクズ屋のお母さんに見せて、売ってくれるように頼みました。
その時私のポケットには10円だったか、20円が入っていたと思います。
真空管を手にしたお母さんは2人にこう言いました。

「あんた達、ラジオの勉強をしてるんやろ。この真空管タダであげる。持っていきな。」

このお母さんの顔は今では全く覚えていません。
しかし55年以上経った今でもこの言葉は忘れません。ボクとSさんはお母さんにお礼を言って帰りました。
確か真空管を5〜6本もらって帰ったと記憶しています。

クズ屋のお母さんは、ラジオ少年になろうとしていたボクとSさんを、やさしくサポートしてくれたのでした。

0−V−1は確か半年以上かけて作りました。小遣いが限られていたので、部品を買い集めるのに時間が必要でした。
製作上の問題の一つが工具でした。
ハンド・ドリル、それと真空管ソケットの穴を空けるシャーシー・パンチ、この2つは大変高価で買う事はできませんでした。

しかしハンド・ドリルはSさんのお父さんの仕事用のものを借りる事ができました。Sさんのお父さんは看板を作る職人で、お父さんの道具の中にあったのでした。
シャーシーパンチはいつも部品を買いに行く、F無線という店の親父さんが貸してくれました。

0−V−1は6C6で再生検波、同じく6C6で低周波増幅、12Fで整流という構成で、実体配線図と回路図を見ながら最終配線を行いました。
真空管の2本(6C6と12F)はクズ屋のオバさんにもらったもので、見事に役立ちました。

配線がやっと終わり、スイッチを入れると受信音が非常に小さく、うまく働きませんでした。
回路を何度も見直した結果、実体配線図に間違いがあるのを発見、これを直すと正常に受信できるようになりました。

この実体配線図を見て、何人もの全国のラジオ少年が受信機を作ったと思うのですが、みんな同じような苦労をしたのではないかと思っています。

完成は昭和37年11月だったと記憶しています。
夜は日本語のモスクワ放送、北京放送、それにアメリカのVOAがダイアルのあちこちで強力に受信できました。
当時は東西冷戦真っ盛りの頃でした。

0−V−1を製作した事によって、やっと”短波を受信している”、と言えるようになったと思いました。
それまでのミュー同調の1石ラジオでは、やはり”短波を聞いている”、とは言えませんでしたからね。

受信機は夜寝る時は枕元に置きました。
そして夜中に目を覚まして、3.5MCのハムを一生懸命受信していました。
長野県には上田とか飯田とか、友人と同じ名前の市があるのをハムの交信を聞いて知ったりしました。
今でも寒い冬の夜中に布団の中から、弱い電波に耳を傾けていたのを思い出します。

数年前に昔を振り返ろうと、同様の再生受信機を製作しました。受信感度がいいのにはびっくりしました。
しかし当時はこのような聞こえ方をした記憶がありません。イヤホーンからは、弱々しい受信音しか聞こえませんでした。
多分ラジオ作りの、技術らしい技術もない中で作ったので、完成度は低かったのでしょう。

この0−V−1の完成数ヶ月後に私は津市の小学校を卒業、熊野市の中学校に入学しました。
父親が熊野市に転勤になったので、家族全員が津の自宅から熊野市の官舎住まいになりました。

引っ越しは荷物をトラックで送り出し、私は母親と妹と3人で汽車に載って熊野市まで行きました。私は宝物の受信機だけは家財道具と一緒に送らず、風呂敷に包んで自分の手で持って行きました。

この受信機はその後もいろいろと実験を繰り返し、約1年後に知人に譲り、私の手元を離れていきました。

熊野市の官舎ですが、数年前に訪ねてみました。
取り壊し寸前でした。私達が住んだときに既に建って7〜8年と聞いていましたので、60年以上前の建物でした。
当時は鉄筋コンクリートでできたモダンな平屋の官舎だと思っていましたが、既にボロボロでした。

中に入って自分が机を置いていた場所、毎日の食事をしたダイニングキッチンなどを見る事ができました。
当時アンテナを建てるのに使った生け垣の珊瑚樹も残っていました。

作業員が来たので、話を聞くと2週間後から取り壊し作業をする、と言っていました。
本当にラッキーでした。

小学校6年生で作った短波受信機の0−V−1,これで受信した7MCと14MCの録音がまだ残っています。
中学校1年になった時に、父が英語の練習用にという事でソニーのテープレコーダーを買ってくれ、これに録音をしたのでした。

ところが録音は5インチのオープンリールに巻かれたテープで、今はテープレコーダーがないので聞く事ができません。
最後に聞いたのは20年くらい前だったと記憶しています。

テープがボロボロにならないうちに何とかPCに取り込みたいのですが、、、。