世界史を塗り替えた短波通信(2018年8月5日)
私は以前からスパイ・ゾルゲに興味があり、ここ数ヶ月間いろいろと調べてみました。
用いた中心的な資料は、”みすず書房”の現代史資料(1〜3)、合計1900ページにはゾルゲ事件に関する、警察訊問調書、検事尋問調書、予審判事尋問調書、内務省資料、特高警察資料、そして逮捕者の手記など膨大な資料が収められており、4分の3くらいは目を通しました。

スパイ・ゾルゲとは昭和8年(1933年)から昭和16年(1941年)まで東京で日本政府、日本陸海軍、ドイツ大使館に対して諜報活動を行い、日本の外交・軍事情報をソ連に送り、歴史を塗り替えたと言われる20世紀最大のスパイです。

ゾルゲはソ連生まれのドイツ国籍を持ち、当時東京に記者として滞在、多くの日本人を巻き込むスパイ網を組織し、主として日本人(共産主義者)協力者を使って得た情報をソ連に送りました。

協力者の筆頭は当時の内閣府の嘱託でもあった尾崎秀美で、彼によって日本政府の情報は筒抜けでした。

ゾルゲは昭和16年(1941年)に特高(特別高等警察)によって検挙、昭和19年(1944年)に他の日本人スパイと共に死刑になっています。

ゾルゲが検挙されたきっかけは、ゾルゲが本国(ソ連)に向けて発信していた無線が当局によって摘発されたからです。

逓信局は昭和13年頃から不法電波の発信を探知していましたが、技術的な問題で場所を特定できず、最終的には陸軍技術本部の”無線の野”こと、俊才野技術少佐が開発した探知機によって摘発されたのでした。

探知機は戦後昭和25年の朝鮮戦争勃発後にアメリカ軍が野少佐に接触をして、その技術の提供を要求したしたというほど優れた性能の探知機でした。
但し野少佐はアメリカとの係わりを一切断っており、技術の提供はされませんでした。

今もゾルゲの墓は多磨霊園にあり、日本に赴任するロシア大使(ソ連大使)が真っ先に墓参りをする、1965年にソ連の"英雄"称号をもらっている人物です。

ゾルゲは8年間のスパイ活動で約400の情報をソ連に送りました。その中で世界史を塗り替えた最重要情報は、「日本はシベリア侵攻の意図はなく、南方の英米蘭の植民地を占領する戦略である」、というものでした。

これは尾崎秀美の日本政府への工作によってもたらされた戦略であったとなっていますが、尾崎がどこまでの発言力があったのか、少々疑問でもあります。

いずれにせよ、この情報により、ソ連は昭和16年から17年にかけて極東にあった対日戦兵力を対ドイツ戦に投入。
この兵力によってドイツのモスクワ占領を食い止め、ドイツ軍兵士50万人を捕虜にしたのでした。

つまりソ連は東から挟み撃ちを受ける憂いなく、対独戦に専念できました。
この結果、ソ連はその後のドイツとの戦いを有利に進めることができ、最後にはドイツを降伏に追い込みました。

後の歴史研究では、ソ連のシベリア軍団の対独戦への投入がなければモスクワはおろか、ウラル山脈から西は全部ドイツに占領されていた可能性が否定できないとなっています。

そしてその場合、その後の戦いはドイツに有利な形で進められ、結果的にアメリカの支援を得られず、第二次大戦は連合国の完全勝利で終わっていなかった可能性があるというのです。
つまり世界地図は今とは違った形になっていたのではないか、と言われています。

私はゾルゲのスパイ活動の中で興味を持ったのは、やはりゾルゲがどのように日本人協力者を作って情報を入手していったのか、どんな情報をどこから得たのかというスパイ活動そのもの、もう一つは得た情報の殆どが手作りの無線機によってソ連に送られていた無線通信に関する部分でした。

今の日本にも尾崎秀美と同じような国を売る日本人は、政治家・官僚・学者・ジャーナリスト・一般会社員など全ての職業階層にいると思っています。国を売るとは簡単に言えば同胞を裏切る、という事です。
それはゾルゲの活動に関する研究結果を見ればよくわかります。

それはともかく、ゾルゲは本国への情報伝達に短波通信を使っていました。
実務を担当していたのはマックス・クラウゼンというやはりドイツ人で、送受信機の製作、モールスによる暗号通信など全てを担当していました。

そして使われた送受信機は殆どが当時の東京で市販されていた部品等を使い、1人の男によって手作りされたというところに大きく興味を持ちました。

これらの無線機については特高の訊問調書などにかなり詳しく記載されており、また回路図、そして不鮮明ではありますが写真もあります。

無線機の回路、写真を見て最初に思ったのは、私が想像していたより格段にシンプルであったという点でした。
昭和16年の太平洋戦争勃発まではごく少数でしたが、日本にも素人無線局(アマチュア無線局)が厳しい制限の中で許可されていました。
ところがスパイ通信に使われていた無線機は、アマチュア無線局が使用していた送受信機より遙かにシンプルなのです。

このような送受信機を使って、何千万もの人間の命をかけた戦争の決定的な情報を送っていたのかと思うと、誤解を与える事を恐れずに言えば何か「ロマン」のようなものさえ感じざるを得ません。
特高警察によって押収された無線装置
そこでゾルゲ事件の中の無線通信の部分について、自分なりに簡単な考察をしてみました。
検挙後に撮られた不鮮明な写真、検事の訊問調書、獄中で記録されたクラウゼンの手記などを元に送受信機のイメージスケッチも作成してみました。、

記録によるとスパイ活動の8年間の間に送受信機とも何度も壊れ、その都度製作されています。
理由は頻繁な移動、部品の酷使による破損、消耗によるものです。
送受信機は分解(真空管、コイル等を取り外す)してトランクに入れて持ち運びができるようになっていました。

写真を見ると持ち運びを考慮してあるのは、特に送信機において顕著です。
月に数回の送信を行うためにクラウゼンがいて、シンプルな回路と構造の無線機ではありましたが、常時非常に注意深いメンテナンスがされていました。

部品の中で送信用の真空管(UY210)は日本で調達していません。これはクラウゼンがアメリカに行ったときに持ってきた、とあります。
また通信頻度は月1〜3回程度、1回が20分以内でかつ場所をその都度変えて被探知の対策をしていました。

(受信機について)

当時市販されていた家庭用の並3ラジオの改造です。この改造のベースになったラジオは今も少数ですが残っています。
製造メーカはシャープです。
主な改造はコイルの交換で、あとはスピーカーの代わりにマグネチックレシーバーで聞くようしていました。
改造前のオリジナルの回路図はあります。ただ公開されている特高の資料には、改造後の回路図がありません。
クラウゼンが使用した受信機のイメージ図
オリジナルの並3ラジオの再生方式は「電磁結合容量再生方式」という中波用ラジオでは一般的な方法ですが、このラジオ受信機は再生用のバリコンの位置がコイルから離れすぎており、短波では使えないレイアウトです。

当時は容量再生は短波でも一般的で、再生用のバリコンが使えないとなるとどういう方法で再生を調整していたのか、大きな疑問です。
この構成の受信機は再生検波をやらないと実用にならないため、どういう再生制御だったのかというのがポイントです。
真空管の作動を制御するVRも写真を見るとありません。

受信機の大きな改造ポイントの一つは同調コイルを中波用から短波用に変えており、写真からではプラグインコイルを使用しています。
これらの事から考えられるのは、再生の調整は結合用のコンデンサーは固定容量とし、プラグインコイル上の再生コイルを物理的に動くようにして、同調回路との誘導結合を調整していたという方法が考えられます。

この方法の再現をしてみましたが、結合度の調整は十分可能でした。

総合的に考えると、この受信機の感度はそれ程高くはなかったと思われます。恐らく受信機全体の利得は、60〜70デシベル程度ではなかったでしょうか。

ソ連(ウラジオストック)からは一般の短波放送(AM)にカモフラージュした電波でゾルゲへの指示・命令が出されていました。放送電波は強力であり、並3ラジオ改造受信機でも問題はなかったのでしょう。

特高の調査結果(逓信局の専門家への委託調査結果)では、「本受信機の感度は良好」、と書かれています。ちょっと??な記述です。
放送に暗号を混ぜて特定の者に情報を送るのは、1980年代後半まで半島の某国がやっていました。

またこの受信機は電信の受信は不可能であったと思います。同調バリコンに減速機構がない、というのがその一番の理由です。
受信機の受信周波数は4.7MHZ〜9.6MHZで、AM信号の受信でさえも同調減速機構なしでは神業とまでは言いませんが非常にクリティカルで、熟練を要します。

ウラジオストックからの放送は6.2MHZ付近で行われ、クラウゼンは定時にこの放送を聞いて、本国(ソ連)からの指示を確認していました。
しかしその受信頻度、具体的な方法などについては公開資料の中での記述は非常に曖昧です。(私の読み方が悪いのか?)

(送信機)

特高の記録には、菊判書(150X220)大の木箱の一面にベーク版を張り、ここに真空管2本とコイルを組み立てた構造、とありますのでかなり小型の送信機です。
回路はアームストロング式、使用真空管はUX210が2本のハートレー自励発振でした。

この回路は第二次大戦時のアメリカ空軍の中型機以上に搭載されていたARC5シリーズ送信機にも使われていました。自励発振回路ですから送信周波数の精度・安定度は水晶発振とは比較になりませんが、送信周波数を自在に変化できるという長所は見逃せません。
送信機の回路図、非常にシンプル
ARC5では堅牢な構造と良質の部品の使用により、周波数の安定度は0.03%程度だったという測定結果もあります。
しかしクラウゼンの送信機は写真を見る限り、コイルもVCもむき出しであり、送信周波数の変動はかなりというか、非常に大きかったと思われます。

問題は送信周波数の校正(キャリブレーションで、これをどのようにやっていたか、非常に興味がありますが特高の資料にはクラウゼンの"経験により"、という記述があるのみです。
手記にも書いてありません。

こういう自励発振回路の送信機の場合、自分の送信する周波数の確認は受信機で行うのが不通ですが、クラウゼンが使っていた受信機では性能上不可能です。

送信周波数のキャリブレーションは、キャリブレーション用のパイロット電波が発振されており、これを使って行われたと思われます。
送信周波数の調整は送信機上部に取り付けられたVC(バリコン)で、このバリコンはラジオ用のものです。

送信機はなるべく高出力を得るために送信管のUX210には800V(交流)の高圧を印加し、15W程度の出力を得ていたと記録にあります。
従って送信電波形式としては50ヘルツで変調されたA2信号です。
50ヘルツのA2は当時でも既に古い電波形式で、アマチュアでも使われる事はありませんでした。

UX210のプレート電圧の定格は最大425Vなので800Vでは長時間送信は無理で、1回の送信時間は最大でも20分以内としていたようです。

送信周波数は7.7MHZ(39m)〜8.1MHZ(37m)で、この周波数は短波帯の中でも非常に使い勝手のいい周波数です。(電波が輻輳していない、1000km前後の通信に昼間/夜間とも適しているetc)
送信機のイメージ図
送信機・受信機の重量は3〜4kgでトランクで容易に持ち運びができるのですが、送信機の電源トランスは重量があるため持ち運びをやっていませんでした。
電源トランスは3カ所確保してあった送信に用いる家にそれぞれ隠して置いてありました

800Vは送信機上のむき出しのコイルにも掛かっており、容易に身体が触れる事ができる、非常に危険な構造であった事がわかります。
交流800Vは尖頭値電圧が1100V以上、触れればほぼ間違いなく感電死する電圧です。
写真を見ても考えられないほど危険な作り方、構造です。

クラウゼンはこの送信機の真空管UX210だけは日本で調達できず、アメリカで買って持ってきたと証言しています。
UX210は日本でも調達できる真空管でしたが、送信機に使える真空管であり、これを日本で購入すると怪しまれるのを恐れたからだと思います。

UX210は非常に高負荷で使われており、加えて頻繁な移動による破損などもあった筈で恐らくクラウゼンは予備を含めて、5セット(10本)以上のUX210をアメリカから持ってきたのではないかと推測します。

逮捕時(昭和16年10月)の記録では、「クラウゼンは送信機用真空管UX210を4本所持、うち1本はフィラメント切れであった」、となっています。

(アンテナ)

アンテナは屋外に張る事はできず、室内に約7mのワイヤー2本(1本はカウンターポイズ)を張りこれを用いていました。使用周波数から計算すると、あと1m程長いと効率がいいのですが、室内アンテナの制約からかの長さになったのでしょうか。
それぞれの隠れ家(3箇所あった)でどのようにアンテナを張ったか、これは詳しい記述と図があります。

送信出力15Wと木造家屋内に張った7mのワイヤーアンテナの組み合わせで果たして1000km先のウラジオストックまで電波は届くのか?
麻布の隠れ家の平面図と送信時の無線装置、アンテナのレイアウト
私はかつて木造平屋の屋根裏に張った、全長10mくらいのワイヤーアンテナと10Wの電信送信機で、日本国内全部と十分に交信できた経験があります。
東京とウラジオストックは北海道旭川とほぼ同距離です。

スパイ活動で得た情報の送信は送信場所に決めてあった家に行き、持ち込んだ送受信機を組立て、アンテナを張って10分程度で送信開始ができたそうです。

受信側(ウラジオストック)がゾルゲの電波を確認し、受信開始OKになるまでに更に10分が必要であったとあります。

この送信機は真空管への負荷が非常に大きい状態で使っていたため、実際の送信は20分以内で終了、そして5分でアンテナ、送受信機の撤収をしたと証言しています。

情報の送信は昭和10年(1935年)から昭和16年(1941年)の7年間に130回、6万6千字を送っています。これは1回当たりの送信が500字、送信速度を1分間80文字とした場合7分弱で送信完了となります。

実際は送信電文の訂正、受信側からの再送要求の対応などのロスがあり、これを最大5分とした場合合計で12分となり、1回の送信は送信真空管への負荷の限界範囲内(最大20分程度)で終えることができた計算になります。

クラウゼンは技術参考書としてARRL(アメリカのアマチュア無線連盟)発行のアマチュア無線ハンドブックを大変重宝したと供述しています。
私は昭和16年(1941年)度版のハンドブックを持っており、クラウゼンはもう少し古いものを使ったと思われます。
このハンドブックは理論、送受信機の製作例、アンテナの張り方、交信の方法、真空管の規格など極めて詳細な内容が数百ページにわたって記述されている、今見ても感心する実務教科書です。

クラウゼンはゾルゲと共に昭和16年10月に特高に逮捕されましたが、死刑にはならす終戦を迎えています
死刑にならなかったのは活動の後半から士気がかなり落ちており逮捕後の捜査協力に積極的だったこと、またスパイ活動そのものにはタッチせず、無線技士というテクノクラートであったことなどが理由として考えられます。

クラウゼンは終戦後ソ連経由で祖国の東ドイツに帰り、昭和54年(1979年)に80才で亡くなっています