オーバーシーQSOの世界(2020年6月15日)
中学3年生で開局した私は無事高校入試にもパス、当時の高校生の標準的な無線設備で本格的にアマチュア無線を始めました。
最初は3.5MHZで近所のハム仲間との電話によるおしゃべり、それと7MHZでは電信による全国のハムとの交信でした。
全国とは電話で交信したかったのですが、7MHZの電話用のバンド幅は70KHZしかなく、QRMがひどく10Wの送信機と簡単なワイヤー・アンテナではゆっくり話をするのはなかなか難しかったのでした。

そこで21MHZバンドに出る準備をする事にしました。21MHZバンドは春から夏にかけてEスポ伝搬があり、北海道とか九州と簡単に混信なしで交信できる、というのが盛んに雑誌に載っていました。

私の送信機はキットを組み立てたオールバンド、送信は問題なしです。アンテナは7MHZのダイポールアンテナが21MHZにはそのまま4/3λのダイポールとして作動するという嬉しい理屈があるので、そのまま使えます。

準備すればいいのは受信機だけ、これはクリコン(水晶発振制御のコンバーター)を作って自慢の高1中2に付加すれば解決でした。

使った真空管は3本、全部近所の無線ショップで買ってきた1本100円の球です。ちなみに高校生の時に真空管を新品で買った記憶はありません。
真空管というのは1本100円の中古を使うか、誰かにもらってくるもの、という感覚でした。

問題は水晶です。水晶は高価(当時1個500円)で我々高校生には貴重品でした。これは通信販売で東京秋葉原からHC6Uタイプの中古を1個200円で買うことができました。
確か周波数は8.1MHZ付近だったと思います。これを使えば21MHZバンドは4.8MHZ、28MHZバンドは3.7MHZにコンバージョン、万々歳でした。

クリコンは数日で完成したと思います。とにかく当時は工作も配線もものすごく早かったのでした。配線が終わって初めて電源を入れるときのドキドキ感、これは今でも全く変わりません。
ヒューズが飛ぶ、煙が出る、配線の焼ける匂いがする、真空管が一瞬電球のように光ってあとは沈黙する、などがなければ先ずはOK,こんな感じでした。

クリコンは調整にちょっと手こずりましたが、何とかなだめて割と簡単に完成した記憶があります。これを使って受信した21MHZバンドはそれまでの7MHZバンドとは別世界でした。

東北、北海道、九州とか国内遠距離の局が59+で強力に入感、簡単に交信できました。
21MHZの最初の交信はJA7DXG(秋田県)でした。

夏休みが始まり8月になりました。するとあれ程毎日聞こえていた北海道とかの局があまり聞こえなくなってきました。その代わりにあまり強くないSSBが聞こえてきました。

その頃SSB送信機はAM送信機に比べて格段に複雑で技術的にも難しく、お金もかかるため高校生ハムが自作するにはハードルが高すぎました。

しかし受信は私の受信機でも十分可能でした。電波はアメリカからでした。

ローカルの仲間にその事を話すと、「相手がSSBでも呼んでみたら応答があるかも知れないよ」、という事でしたので翌日早速一番強い電波の局を呼んでみました。

呼んだ局はW5NMA,今でも覚えています、応答のあった時の感激を。
慎重に周波数を合わせコールした私に対して、その局はかなり戸惑ったような感じで応答してくれました。日本から10WのAMであまり英語もうまくない私から呼ばれたのですから。

W5NMAは1921年(大正10年)生まれで当時は45才、2001年に90才で亡くなっている有名なDx'erであった事が今回わかりました。

これが私が記念に残る10WのAMによるファースト・オーバーシーQSOでした。高校1年生の夏休み、1966年8月3日14:15でした。

自分の電波がアメリカまで飛んだ!よし、これからは外国と交信するぞ、そのために先ずやる事は21MHZ専用のアンテナを上げる事でした。
それまでの知識で、割と簡単に作れて3エレメントの八木アンテナに相当する性能があると言われる、2エレのCQ(キュビカルクワッド)アンテナを上げる事にしました。

私はW5NMAとのQSOの3週間後に、2エレCQを1日で作り上げたのでした。材料は全て竹と針金、これだけです。エレメントは銅線、給電は3C2Vでした。予算はたった1000円でした。

今考えてもよくやったものだとしか思えないのですが、同級生のY君とT君の協力で庭のど真ん中に巨大な凧のようなアンテナを上げたのでした。
やる気とは本当に怖ろしいものです。

アンテナが完成したその日に交信したのが何と9M2FX、ログには"マラヤ"と書いてあります。当時はマラヤ連邦がマレーシアになったばかりだったので、間違って書いたのだと思います。
1966年8月24日の事でした。

その5日後の8月29日、この日のことも忘れられません。夕食後の19:30頃だったと思います。受信機のスイッチを入れた私はびっくりした、というレベルを越えたショックに近いものを受けました。
受信機のダイアルのどこを回してもヨーロッパのAM局がびっしり、隙間なく並んで59で聞こえてきたのです。

スエーデン、ドイツ、ポーランド、ソ連、ブルガリア、イタリー、イギリス、、、今まで聞いたことのない国ばかりです。半分近くが"CQ JAPAN"を叫んでいました。
私は夢中で片っ端からコールをしましたが、ログには4局との交信しか残っていません。あとで解ったのですが、ヨーロッパは広い範囲でハムが多く、伝搬状況によってはヨーロッパ内の局同士の混信がひどく、極東との交信は結構難しい時があるとの事でした。

私の作ったクリコンはほんの少しの改造で28MHZに使えました。雑誌を見ると28MHZのコンディションが良く、多くのオーバーシーからの局が聞こえると書いてありました。
私は早速クリコンを改造、確か1〜2時間で仕上げたと思います。

28MHZを聞くとソ連の局が59++でたくさん聞こえ、コールすると殆ど応答がありました。
ソ連は10Wの送信機にGPアンテナ、受信機は8球のシングルスーパー
というレベルの設備の局も多く、それでもマイクの後ろから犬の鳴き声とか、台所からのカチャカチャという食器の音が聞こえてきたりしてびっくりしました。
でもウラル山脈の西との交信は難しかったのをよく覚えています。
ソ連の局は結構QRHがひどく、QSO中に5KHZも10KHZも動いていく、というのは普通でした。

冬になると3,5MHZとか7MHZでは電信による海外との交信に熱中しました。
3.5MHZでは3510〜3515付近を耳を澄まして聞くとソ連、それにアメリカの局がS3〜5くらいで聞こえるのです。

それまでは599の国内の局しか聞いていないので、随分弱いな〜、と思いつつコールをすると3局に1局くらいの割合で応答がありました。

びっくりしたのはミネソタの局と3.5MHZで割と簡単に交信できた事でした。レポートは459をもらいました。W0FLK,このカードは私の宝です。

私の送信機は改造して出力20Wくらい、アンテナは21MHZ用のCQ利用のロングワイヤーでした。

私の送受信機・アンテナは全部自作、当時の高校生ハムとしては平均的だったと思うのですが、電信による交信の腕には少々自信がありました。
電信は符号の送受信技術以外に、Q符号・略語の使い方、弱い信号を拾い出す受信テクニック、送受のタイミングなど、無線通信の基礎は電信によって身につきました。

全て半世紀以上昔の事です。全てが懐かしく、そして鮮明に記憶に残っています。