初めての船旅(2) : 2018/03/20〜2018/03/25
船内の生活は朝から夜寝るまで様々なイベントが開かれます。その日のイベントス・ケジュールは前日の夜に各部屋に配布されるので、それを見てどの時間帯に何をするか決めます。ライブとか、ヨガとかその他の大きなイベントは別紙で詳しく書かれているので中身の確認も容易です。
イベントは船長の講演とかは150人くらい集まったり、ウノのプレイ教室では10名くらいの参加だったり様々です。

クルージングというのはレストラン、バー、劇場、フィットネス、寝床、くつろぐ部屋などがコンパクトに集められて、それが移動してあちこちに連れて行ってくれる、そんな感じです。
マカオあたりの高級カジノホテルがそのまま海の上を走っている、というイメージかも知れません。

このページでは写真の一部をロールオーバーしてありますので写真にマウスのポインターを置いて下さい。

ビール
食事は3食はダイニングサロンで頂きます。
私は朝はビールは飲みませんが、昼からは飲みます。私と同じくビールを頼んだご主人に、「昼間からおビールですか?」、という奥さんの声が向こうのテーブルから聞こえてきました。

「ベルギーに行ったらビールは水より安かったよ。アメリカでも単身赴任の間は水を買うのを忘れた時は代わりにビール飲んでたな〜。
カナダではビールは2本くらいまでは飲酒運転にならなかった。ま、ビールは水の親戚かな?、、、。」

私の場合、こういうアホみたいな煙幕を準備しております。

ショー(7Fメインラウンジ)
ひとつのショーは1時間程度で、夜に行われるショーは2回行われるのが普通です。これはメインダイニングルームが2回に分けて食事をするようになっている関係だと思います。

海外に行く長い航海ではエンタテイナーが寄港地先で入れ替わるという方法もとられるようです。
そりゃそうだろうな〜、落語家でジャズバンドもできて歌も歌える、なんて芸人はいないからな〜、、、いくらマルチタレントの時代とは言うものの。

ショーは全て写真撮影禁止でした。

一服(7Fオープンバー)
ここではほぼ常時お菓子、ケーキ、サンドイッチなどを無料で提供しておりますので小腹が空いたときは便利です。
でも船の上では朝昼晩の食事をキチンと食べているので、滅多に小腹は空きません。
私も航海中ここではサンドイッチを2〜3回食べただけです。
乗船客の平均年齢は60才を軽く超えていますから、客も疎らです。
飲み物は液体燃料系は有料で、ソフトドリンクは無料です。

席はいつもガラガラ状態なので、ここでコーヒー飲みながら読書などには案外穴場かも。

ある日の昼食
豪華客船とはいうものの、昼食は簡単です。
もしダイニングサロンで食べるのがイヤとか面倒くさいとかの場合はルームサービスも可能でした。
殆どの食事を奥さんひとりで食べている夫婦がいましたので、きっとご主人はルームサービスで食べてたのかな〜、、、、。

ウエイターが私が麦ジュースを昼食時は飲むのを知ってからは、「何かお飲み物は?」、ではなく「麦ジュースお持ちしましょうか?」、になりました。

あっ、”麦ジュース”の事、”ビール”って言う人もいるそうですね。。

いいお天気になりました
出向した日、翌日は天気が悪く、3日目にやっと晴れになりました。
水平線がよく見えます。ここまで来ると支那からの黄砂もなく、もちろん花粉もなく実にきれいな空気です。
でもしっかりマスクをしている人を何人か見ました。何で?

マスクで一番の思い出はアメリカでグランドキャニオンに行った時もマスクをつけていた若いの(30才くらい)、別に風邪をひいてるわけでもなさそうで、理由は今でも謎であります。
想像して下さい、これ以上きれいな空気のところはない、というアメリカの大自然の中で白いマスクをした日本人が猫背で歩く、、、ファッションの一つなのかな〜、、、。

硫黄島(1)
今回のクルージングでは硫黄島をぐるっと周遊するというのもウリのひとつになっており、硫黄島にはかなり接近しました。
この島は太平洋戦争の激戦地で日本軍2万3千人のうち2万1千人が戦死、アメリカ軍は7千人が戦死、1万9千人が負傷という犠牲を出しています。

島の面積は21平方キロメートルですから、日本軍守備隊とアメリカの上陸軍を併せて5万人、単純に計算しても1平方キロメートル当たり2千500人という密度の中での戦いで、それはどういう状態だったのかちょっと想像がつきません。
(日本軍は坑道を掘り、陣地間を移動したそうです。)

硫黄島(2)
米軍上陸海岸。自衛隊の施設がよく見えます。
島を周遊している間、何とか言う教授先生が硫黄島の地学的な解説を延々と船内放送でやっていましたが、そんな事興味を持つのはごく少数、ただうるさかっただけ。
こんなの最小限にして欲しい、下船時のアンケートに書きました。

「今我々が平和な日々を過ごせるのは、ここに眠る2万人のお陰でもあります。趣旨賛同頂ける方は黙祷をお願いします。」

船長主催の慰霊祭では船長は硫黄島戦の意義と様子の概要を延べ、最後にこう言い、長い汽笛を鳴らしました。

硫黄島(3)
ある硫黄島生き残りの方の手記の中に、栗林中将が最後の玉砕電報を発信した時点でも2万1万人のうち1万人弱は生き残っていたのではないか、というのがあります。これを読んだときはショックでした。
日本軍の人命軽視の考え方が、我々の父親の世代だった若者を無駄死にさせた、これ以外の何物でもないと思います。

硫黄島を一周して島から離れようとした瞬間、それまでよかった天気が急に悪くなりました。空には雲が広がり、太陽が陰りました。
実に不思議でした。
遺骨収集はまだ数千体が残されていると聞いています。

ディナー演奏
毎日のディナーでは専属のバンドが来て演奏をしてくれました。最後に必ず日本の懐かしい曲を演奏、歌ってくれました。
ホールでの演奏ではリクエストも受け付けてくれました。

ギターボーカルの人はちょっと年配で、どこから来たのか聞いたところマニラの北3時間の田舎出身です、と言ってました。

カジノのデーラーの子が乗船客の管理をやってたり、船では結構掛け持ちで仕事が普通のようですが、彼等も掛け持ちの仕事あるのかな〜。

ルームサービス
ルームサービスメニューにはこういうサンドイッチ、フルーツ、ソバ・うどん、雑炊などがあり、液体燃料系の飲み物は有料でした。(液体燃料系は冷蔵庫に入っており、毎日ちゃんと補充してくれます)
部屋にはロシア系のべっぴんさんウエイトレスが持ってきてくれます。

旅行会社のパンフレットには、”ぱしふぃっくびーなす”では1日8回の食事があります、と書いてありますがこれを読んだときは半分ブラックジョークか?と思いました。
高校の運動部の選手じゃあるまいし、8回は無理ですよね。

洋上の日没)
北緯26度、東経142度付近の日没は17:45分頃、静かに太陽が海の向こうに沈んでいきます。

島影も、他の船も何も見えません。甲板に出ると船体が切り分けていく波の音しか聞こえません。
雲も殆どないので、今夜はきれいな星空を見る事ができそうです。

甲板上にいるのは私ひとりだけ。皆さん、どうして出て来ないのか不思議です。船旅でしか見れなないこういう風景、空が暗くなるまでしばらくの間甲板に出ておりました。

メインラウンジ(7F)
船内の売店ではお土産、記念品などが売られています。日用品はありませんので忘れ物は上陸先で買う以外ありません。
クルージングの準備は普通に旅行する5泊6日の旅に持っていくものと同じものを持っていけばいいと思います。

クルージングでは外洋に出ると電話もWIFIも使えません。テレビも近海以外はNHKのワールドTVだけです。
ニュースは朝日新聞顔負けの左翼な共同通信のニュースが毎日部屋に届けられるので、これを読むしかありません。

父島入港
名古屋を出て4日目、今回のクルーズで唯一の上陸地である父島の二見港に入ります。遠くに大村の町並み、三日月山の尖りが見えます。
ここには44年前に来たことがあります。
記憶はぼんやりしか残っておりませんが、上陸して白いデッキのある喫茶店でコーヒーを飲んだ事、三日月山に登ったのを覚えています。

入港は08:00と計画されており、何隻もの作業船が近付いてきて予定時間ぴったりに巨大な船体はブイ係留されました。
残念ながら天気がイマイチ、空は灰色の雲に覆われています。

上陸開始
港の岸壁までは島の船が4隻、それに”ぱしふぃっくびーなす”もランチを下ろしてピストン輸送です。
乗船客の大半、恐らく300名以上は上陸したと思いますが、船から岸壁までは5分、09:00までには全員上陸させたようでした。

島では2時間観光(島内観光、ホエールウオッチングなどのオプショナル観光が準備されており、相当の人がこれに参加したようでした。

なお、ランチは”launch”つまり本船と岸壁を行き来する”通船”の事で、”lunch”(昼飯)ではありません。

大村銀座
港横にある街が父島で一番大きな街の”大村”。
よく整備されており、道路もきれいです。通りの雰囲気は43年前の記憶を呼び戻そうとしても出てきません。
後で聞いた話では当時は道路も舗装してなかったのではないか、という事でした。

小笠原がアメリカから返還されたのは昭和42年(1967)で、43年前の昭和50年(1975年)当時はアメリカ人とのハーフのような人も結構見掛けた記憶があります。地元の方の話ではそのようなハーフは確かにまだ少数います、という事でした。

三日月山目指して
父島に来て三日月山に登らなかったら来た意味がない、と言う事で登ることにしました。
大村の街の南端まで行き、先ずウエザーステーションを目指します。
ここまでは1.5kmくらい、しかし上り坂なので40分くらいかかります。かなり汗が出てきます。

三日月山まではウエザーステーションから更に1km、25分くらいかかります。ウエザーステーションから先は舗装もなしの山道になります。
何百人も上陸しているのに、誰も来ていません。
更に大汗をかきます。

三日月山頂上付近
三日月山は標高204m、かなり急な崖を登らなくてはなりませんので、ビジターは本当の頂上に行くことはできません。

しかし頂上より少し低い絶景ポイントが案内されており、大村の町と二見湾を見下ろす事ができます。
空には雲がかかっていますが真っ白な”ぱしふぃっくびーなす”が湾内にくっきり、町がジオラマのように見えます。

しばらくすると3名の方が登って来られ、帰ろうと下り始めた時に2名の方とすれ違いました。会ったのはこの5名だけでした。

ウエザーステーション展望台
地元で施設整備・管理をやっている北海道と静岡からの移住者の方2人からいろいろな話を聞く事ができました。
沖にはホエールウオッチングの客を乗せた船が何隻も鯨を求めて走り回っていました。後で聞いた話では鯨は見れなかったそうです。

私は「鯨は見るものじゃなくて食うもの」という意識なので、ウオッチングには殆ど興味がありません。(これを言うとものすごい目で睨む人がいますが)
捕鯨が禁止されてから太平洋は鯨だらけになって、逆に生態系を狂わせつつあると言うではありませんか、、、。

帰りのランチを待つ乗船客
最終のランチは16:15。これに乗り遅れると帰れなくなります。15:30からはピストン運航で帰る乗船客をさばきます。

15:00頃港に来ると20名くらいの乗船客がランチを待ってました。
みんなどこに行ってたのでしょうか。
自然観賞とかホエールウオッチングのツアーはいずれも2時間コースなので、終わるとさっさと船に帰ったのかも知れません。

丁度昼過ぎ、東京から来る小笠原丸が岸壁に横付けしました。この船は観光客と島の生活物資などを運ぶ大切な定期便です。

再び航海です
17:00に父島を出港、グンと天気がよくなってきました。
父島では大汗をかいたので、展望大浴場で汗を流しました。その後飲んだビールのうまかっとこと!

翌朝は早起きして06:00から8Fの甲板をウオーキング1周が334m、6周したので丁度2kmでした。
ウオーキングは3回やりましたが、やっている人はいつも5〜6人。
今回はフィットネスはやりませんでしたが、長い航海になれはこういうのは必須でしょうね、きっと。

謎の岩、孀婦岩
太平洋のど真ん中に突如現れる岩、2500mの海底から隆起しており荒波にも崩壊していません。

左下に漁船がいました。双眼鏡で覗くと”JP-ME2−4335”という登録NOと”第十一勇喜丸”までは読めました。三重県の漁船です!
後で調べたところ三重県紀北町の”Tuna longliner”、つまりマグロハエナワ漁船でした。

こんなところで三重県の漁船に出会うとは、、、、。漁船の乗組員も三重県の人間が客船から見ているとは夢にも思っていないでしょうね、、、。

ブリッジ見学会
恒例のブリッジ見学です。
船長も来ており海図の事、その他航海一般についてわかりやすく説明してくれました

乗組員は年間100日程度の休みをとる事になっており、普通はまとめてとるそうです。
船は整備で1年に2〜3週間程度ドック入り、この時はドックで勤務をしなくてはならないそうです。
ブリッジには神棚があり、金比羅山が祭ってありました。
ブリッジ内の整頓状況はイマイチ、という感じがしないでもありませんでした。

鳥島
父島と八丈島の中間くらいにあり、現在は無人島です。アホウドリ(特別天然記念物)の繁殖島として有名で双眼鏡で見ると無数の白い点が蠢いているのが見えました。
かつては気象庁の観測所などがあり、多くの建物・施設の残骸がよく見えました。

この島は江戸末期に土佐の漁師、中浜万次郎(ジョン万次郎)が漂着した島でも有名です。
島の遊覧を終えて船は時速16ノット(約30km/h)で名古屋港に向かいます。名古屋入港は翌日(3月25日)の14:00です。

再度食事について
船上生活の中での大きな楽しみのひとつはやはり食事です。
”ぱしふぃっくびーなす”の食事はまあまあで、日本丸の方がいいという意見を複数の方から聞きました。

私達にとっては比較する対象がないので何とも言えませんでしたが、出される料理はいずれも非常に上品、味もよかったと思いました。

でも外国への長期間のクルーズ、例えば30日とか50日の場合、こういうのを毎日出されるとどうなるか、たまにはあっさりといきたいな〜、という時はどうするんだろ、、、。余計な事考えちゃいました。

最後のイベント
6日目の朝、最後のイベントのビンゴが開催されました。400人近く、殆どの乗船客が参加したのではないかと思います。
商品は70個準備したという事なので、かなりの確率でしたが、私達は2人とも”外れ”でした。

今回、逆ビンゴというのを始めて知りました。賞品は7月の”ぱしふぃっくびーなす”の乗船券でした。当たった人はいいな〜。

ビンゴの進行役のアシスタント2名は毎晩のステージで歌っていた”元”宝塚ジェンヌでした。

帰ってきました
日本沿岸に来ると往来の船が増えます。WIFIが使えるようになります。何よりもこの季節、支那からの黄砂まみれの日本ですから、空気が黄色くなって景色が霞みます。

遠くに陸地が見え、やがて伊勢湾に入り口です。漁船、釣り船、大型貨物船、タンカー、海の上は船だらけです。毎日鈴鹿のマンションから見ている神島の横を通過、灯台とか町並みがよく見えます。

名古屋港に接近、タグボートにゆっくりと押されて着岸しました。
これで5泊6日のクルージングは終わりました。

下船
船内のアナウンスで下船が始まります。10Fの乗船客から順番です。クルージングの中でいろいろとお話をする事ができたHさん、Tさんに挨拶をしてお別れです。

荷物は乗船時と同じく大きなスーツケースは宅急便で送り、小さいスーツケースは持って帰ります。Hさんは車での迎えがあり、一緒に行きませんかとお誘いをもらったのですが、バスが予約してあったのでお断りしました。

船のタラップを下りたところでは船長、機関長、ホテルマネージャの三役が立っていました。機関長とホテルマネージャの2人の顔がやっとここでわかりました。

あっという間の6日間、タラップを下りた瞬間、非日常の世界から日常の世界に戻りました。船の旅というのはやはり何とも贅沢な旅だと実感しました。
結婚記念、そして私の卒業記念(仕事納め)という意味もあったクルージングですが、これは他の旅と違って動き回る必要がない、部屋が目的地まで動いていく、という感覚がよくわかりました。
さて、、、次は日本丸か、それとも飛鳥Uか、もうそんな事を考えています。