旧満州の旅−2 : 2019/9/7〜2019/9/15
満州国とは昭和7年(1932年)から昭和20年(1945年)まで満洲に存在した独立国です。
大正元年(1912年)に清朝滅亡後は中華民国(北京政府)が清朝領土の継承を主張したのですが、中国自体が内乱状態になり満洲での権力は殆どなく、実効支配していたのは張作霖でした。

その後北京政府も崩壊、台頭してきた南京政府(国民党)も満洲は実効支配はできていませんでした。
今の中国支配の中国共産党は1921年にソ連の後押しで結成されて、江西省で”中華ソビエト共和国臨時政府”を宣言したのが昭和6年(1931年)です。

中国という国は我々が考えるような統一された国ではなく、内乱状態の中で日本が欧米の権益を押し切って作った国が満洲国です。
その満州国の首都が新京(今の長春)です。

今の中国共産党は今でも満州国を歴史的な独立国と認めず”偽満洲国”という表記をしています。というか、満洲という文字を使いたがらず、この地域を”中国東北部”、という言い方をしています。

ホテルの部屋から
中国は全土でゴーストタウンが拡がっています。
広大な土地に、明らかに人が住んでいないのがわかるマンション群があちこちあります。

中国のマンションは日本以外の多くの国と同じく、買うときは内装などはやってありません。
買ってから壁、床、トイレ、台所などは自分でオーダーして行うのが普通です。

つまり買うのはむき出しの”部屋”でそれを買った人がカスタマイズする訳です。

ホテルの外を散歩してみました(1)
長春はブランドショップとか百貨店の数が中国国内大都市の中でも多い方らしく、ホテルの周りを少し歩いただけでもそのオシャレぶりが伝わってきます。

この日は月曜日、とにかく人通りが少ない。既に8時を過ぎていますが中国の朝の始まりは遅いのでしょうか。

後で調べてわかったのですが、始業時間は普通9時〜9時30分のようです。
労働条件は規則では週40時間、残業は1日1時間以上は不可となっていますが、実態は違うようです。

ホテルの外を散歩してみました(2)
散歩をしていて気が付いたのは、このような歩道の修理が目立った事です。
ブロックが剥がしてあるので、基礎工事が丸見えなんですが、何もやってない。

剥がしていないブロックを見ると隙間は不均等水平レベルも凸凹で、やはり割れたりしています。
普通に見てもかなりの手抜き工事に見えます。

中国ではビルの工事から鉄道、何でも手抜き工事はごく普通に行われているのは中国人が認めています。

ホテルの外を散歩してみました(3)
中国には日本の警察と類似する組織(司法警察:公安)が150万人くらい、それ以外に国内の治安維持を主目的とする強力な警察軍があり、これは準軍隊です。こういう組織は西欧先進国では一部を除きありません。

武装警察は150万人くらいの兵力で治安維持、海上警備、戦時における人民解放軍の支援だそうですが、役割は”中国共産党体制安定化”です。香港の周りで待機しているのがこれです。

通りで見掛けた車は公安ですが”武装巡邏”と書いてあり、これはどういう意味なんでしょうか。

通勤風景
市内観光の途中ですれ違った路線バスです。車内は満員状態でしたがすし詰めギュウギュウという感じではありませんでした。

長春の地下鉄は原罪4路線が開通済みで、更に4路線が計画中(工事中?)だそうです。
長春は市区人口が450万人で面積が3600Kuですから、約60km四方に450万人が住んでいる事になります。

道路は広いのですが、市の発展と共に地下鉄のような交通機関の整備が急務なんでしょうね。

旧関東軍司令部(1)
日露戦争、満州事変、満洲国建国の中で重要な役割を担ってきた関東軍、当初司令部は大連にありましたが、昭和8年(1934年)に新京(長春)に移転、となっています。

長春にある風情のある建物の殆どは満洲国の時代に実質的に日本によって建てられたものです。
この天守閣のデザインは名古屋城からとったものだそうで、建物の中央、そして左右の2つの合計3つの天守閣(状)の櫓があります。

”関東軍”の名前の由来は当初の警備区である”関東州”に由来し、日本の”関東”とは関係ありません。

旧関東軍司令部(2)
関東軍は最大時で80万人の大兵力を有していましたが、太平洋戦争後半で多くの優良な部隊が南方戦線に抜かれ、その後員数合わせに現地召集したものの、終戦当時は装備もガタ落ちで見る影もなかったそうです。

この巨大な建物を今は”中国共産党吉林省委員会”が使っています。
長春の旧満州国の建物などを”日本侵略の象徴”として扱い、今の現在の共産中国政府は日本人に懺悔を要求していますが、満洲国について調べれば調べるほど彼等の言う事がウソだらけに気が付きます。

長春駅
現在のこの駅舎は1995年に建てられたもので、駅前は大きな広場になっています。
広場の下は商店街になっており、個人観光で来た人には人気の場所だそうです。

中国の経済発展によって古い建物はどんどん壊され、新しくなっているそうで大同学院(旧満州国官吏養成学校)は既に取り壊され、満洲国時代の民家も殆どなくなったそうです。

満洲国がなくなって75年、もう当時を知る日本人、それに中国人は殆どいません。

旧ヤマトホテル(1)
入り口に検問所があり、観光客などは勝手に入れないようになっていました。

明治42年(1909年)に建てられ、満洲国がなくなってからもホテルとして使われ、2011年に大改装されました。しかし当時の雰囲気は十分に残っているそうです
中に入って見学したかったですね〜。

他のヤマトホテルと同じく予約宿泊ができ、料金は他より少し安めのようです。
場所は駅のほんの近くでした。

旧ヤマトホテル(2)
ホテル前の通りです。
奥の左右の建物はマンションで、各階の部屋から箱のように飛び出しているのはサンルームで、これは古いタイプのマンションでよく見掛けます。
電話線なのか、それとも電力線なのか、何百本ものケーブルが左右の建物の道路上を渡っています。
これは地下配電設備のないタイとかフィリピンでもよく見る風景です。
新しいマンションではこういうのはありません。

道路はみんなが勝手に横切るので、車はなかなか進むことができません。

偽満皇宮博物館:入り口
満州国皇帝愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の皇宮で今は博物館として誰でも入る事ができます。満洲国とは1932年〜1945年に存在した独立国で、日本が作った傀儡国です。

溥儀は清国最後の皇帝であり、映画”ラストエンペラー”でその生涯が描かれています。
波瀾万丈の人生が描かれた映画です。

溥儀は2才10ヶ月で清国の皇帝になりますが、その3年後の辛亥革命(1912年)で250年間続いた清国は滅亡します。
その後は簡単に言うと、あちこちに政府(と主張する軍閥)ができ、最後に中国を支配したのがソ連の支援を受けた中国共産党で、1948年、つまり清国が滅亡して36年間は内乱状態にあったという訳でここが重要です。

日清戦争、日露戦争に勝利していた日本は大陸進出新興国としてアメリカ、イギリス、フランス、それにソ連などの中国に権益を持つ国々と対立をします。

その中で満洲国を作り、そしてその後”やってはならなかった”、日中戦争に発展していったという歴史です。

偽満皇宮博物館;満洲国国章
博物館の入り口には大きな”満洲国国章”が門扉の上にあります。これはフジバカマを図案化したものです。

満洲国は”王道楽土”、”五族協和”が理念として掲げられ、国章の五個の葉は”五族協和”をイメージしています。
五族とは満洲族、日本人、蒙古族、漢族、朝鮮族の事で、これらが協和して国を作っていく、というものです。

満洲国にはナチスドイツの迫害から逃げてきたユダヤ人(ハルピンに最大2万人以上)、ウイグル人などのイスラム教徒、ロシア革命で逃げてきた八景ロシア人なども多く移住していました。

偽満皇宮博物館:石ころ
入り口を入ると”偽満洲国皇宮”と書かれた大きな石が置いてあります。

満洲国は内乱が続く中華民国(今の万里の長城より南の中国)から逃れてきた漢人、満洲国政府・日本政府の政策により日本人の満蒙開拓団などの入植により昭和12年(1937年)頃には急速に人口が増えていきました。

日本からは零細農家の次男・三男など、また大陸で一旗上げようという”大陸浪人”なども集まり、大陸に憧れる風潮も生まれたりしました。

偽満皇宮博物館:緝煕楼(1)
皇宮は満洲国皇帝の宮殿であり宮内府とも呼ばれ、外廷(溥儀がせいじ活動を行う)と内廷(溥儀とその一族が日常生活を過ごす)の2つのエリアに分けられています。

内廷は更に東院と西院があり、写真は西院である”緝煕楼”で、ここで溥儀と皇后婉容が日常生活を送ったところです。

私達が入ったのは時間の都合で、この西院だけでした。
ガイドの説明は結構いい加減で、ちょっとした質問にもあまり答えてくれませんでした。

偽満皇宮博物館:緝煕楼(2)
ここは居住区ですから公ではない形での人との面会などに使った部屋ではないかと思われます。
テーブルの上には茶の道具、机の後ろの棚にはウイスキーとかブランデーが入ってました。

溥儀は18才まで北京の紫禁城から出て生活をしたことがなく、その後満州国皇帝になり、この部屋に入り始めた時は26才でした。
清朝が滅び、皇帝でなくなった溥儀は6才、その時から18才まで紫禁城にいる事が許されたのは中華民国建国を宣言した袁世凱が”皇帝”の称号だけは残したからでした。

偽満皇宮博物館:緝煕楼(3)
建物中は無数の部屋があり、散髪だけをする部屋とかもありました。トイレを探してみたのですが、見学コースにはありませんでした。
寝室は公開されているだけでも3つありました。
一つはもっと狭いベッドで、多分溥儀の仮眠用のもの、あとの2つはこういうベッドでしたから夫婦用だと思います。

皇宮は終戦後ソ連が接収、荒れ放題になっていたのを共産中国が引き受け、手入れをしたそうです。
全部の部屋にはスチームが通っていました。でも冬は寒かったでしょうね。

偽満皇宮博物館:勤民楼(1)
ここは外廷の一部”勤民楼”で、溥儀が公務を行った建物の一部です。ここでは各種の礼典が行われました。

溥儀が満州国皇帝を請われて引き受けた理由は二つ、一つは清朝をいつか復興させたいという野望、もう一つは張学良・蒋介石の中華民国に対する失望でした。

当時の中国は我々の感覚ではなかなか想像できない内乱状態であった、というのを知っておかねばなりません。
要するに蒋介石率いる中華民国からの独立・分離宣言であったという事です。

偽満皇宮博物館:勤民楼(2)
”勤民楼”の中は立派です。皇帝の玉座も昔の写真と殆ど変わらない状態で保存されています。

満洲国の憲法で皇帝は国務院総理、各大臣を任命できるとなっていましたが次官以下の官僚は関東軍が日本人を満洲国の官吏に任命していました。

また国政の重要な事項の決定には皇帝だけではなく関東軍の認証が必用で、関東軍の御用掛(高級将校)が溥儀と共に行動をして”助言”をしていました。
満洲国は関東軍の傀儡政治であった、という所以です。

偽満皇宮博物館:勤民楼(3)
鄭孝胥(ていこうしょう)は府議と行動を共にしていた清国の官僚で満洲国初代国務院総理(総理大臣)に任命されました。
1935年(昭和10年)後に「我が国はいつまでも子供ではない」、と発言、関東軍によって辞任に追い込まれました。

いずれにせよ満洲国は独立国には程遠い状態でした。当時東南アジアで独立国は日本、タイ国、満洲国だけでそれ以外は全部欧米の植民地でした。

中国は清朝までは独立国と言えたのですが、その後は内乱とイギリス、アメリカ、フランス、日本の干渉で半独立国状態であったと言える頃です。

偽満皇宮博物館:勤民楼(4)
”勤民楼”の中にある立派な会食のための部屋です。

満洲国は日本の傀儡国ではあるのですが、欧米各国はアジアはおろか世界中に植民地を持ち、これを”経営”していたのですが日本が作った満洲国は許さない、となった訳です。
満洲を日本は植民地ではなく、表面的ではありましたが独立国とした、これは意味が全く違います。

満洲から南は欧米各国と利害が対立(特にアメリカ・イギリス)するため、彼等は満洲国より南の中国への日本の影響を激しくけん制していました。

偽満皇宮博物館:パッカード
溥儀の”プライベート用の車”、と説明にはありました。

そうです!あのパッカードの車です。
タイプはよくわからないのですが1920年代後半のデザインに間違いはないです。

高級車と言えばパッカード、という事で日本でも皇室の公用車になっていたと聞いています。
恐らくロールスロイスよりも格は上だったと思います。

説明には”Park Automobile Co”となっていますが、そういう会社はありません。

偽満皇宮博物館:新京の様子
満州国建国直後の長春駅周辺の開発、建築状況の写真が多く展示されていました。
これを見ると極めて短期間に多くの建物の建造がされており、ものすごい予算を注ぎ込んだのがわかります。

日本の産業投資は重工業第一、少しの農業への投資という事で、アメリカなどの資本の呼び込みも提案され、関東軍の反対はあったものの実際はかなり行われたようです。

具体的な金額は把握していませんが、日本の国家予算の2分の1程度の規模の予算を注ぎ込んだという話を聞いています。

偽満皇宮博物館;同徳殿(1)
新宮殿の建築が1938年(昭和13年)に始まっています。そのため溥儀には”同徳殿”という仮宮殿が1938年(昭和13年)建てられたのですが、溥儀は常用はしなかったそうです。

理由としては関東軍の盗聴を恐れたという事です。ここは日本間なども作られています。
常用はこの日本間を接待などに限って使ったという記録がありますが、溥儀は正座ができたのか疑問が残ります。

同徳殿を実際に使ったのは側室の李玉琴で、この仮宮殿は我々が見ても使い勝手が良さそうに見えました。

偽満皇宮博物館;同徳殿(2)
同徳殿の中の映画鑑賞室です。

皇帝の椅子の前に映写機台があり、スクリーンを完全に遮っていましたので、実際はこういうレイアウトではなかったと思うのですが。
同徳殿の中には様々な部屋が一杯あり、説明を受けたのですがメモも取りきれず、記憶もできずで全くの時間不足でした。

新宮殿は結局は太平洋戦争が始まった後の1943年(昭和18年)に資材不足その他で建築は中止されています。

偽満皇宮博物館;同徳殿(3)
”東御花園”というのが同徳殿の横にあります。ここには庭園の他にプールとか、防空壕もありました。

溥儀は泳げなかったそうですが、プールサイドでゆったりするのは好きだったそうです。
中には建国神廟という日本式の神社もあったそうで、その礎が残っています。

庭園は同徳殿の和室から見えるところに作ってあり、日本風で池も灯籠も置いてありますが、正式な日本庭園には噴水ではなく滝だと思うのですが。

偽満皇宮博物館;同徳殿(4)
確か庭園を歩いていた時ですが小径に石で模様が作られていました。
説明も受けたと思うのですが、良く覚えていません。大した意味はないのか、それとも何か”ナルホド”、みたいな意味があるのか、全く覚えていないのです。

写真を撮っているので、何かの意味があったのだと思うのですが。
写真とメモとかを同期させる何かいい方法を考えないとこれからこういう事が増えそうな感じです。
記憶力も落ちていますしね。

偽満皇宮博物館:見学終わり
満洲国皇帝溥儀、日本(関東軍と言うべきでしょうか)は彼を利用した、溥儀も日本を利用しようとした、というのは史実として残っています。

溥儀を皇帝にとして満洲に呼び寄せる話は土肥原という関東軍の将校がやっていますが、溥儀はしつこく土肥原に満洲国は帝政か共和制か聞き、共和制なら行かないと言ってます。

溥儀は皇帝になる、という事を土肥原から聞き満州国に行くことを承諾しています。
そして彼は皇帝になったのでした。

昼食(1)
偽満皇宮博物館は非常に興味深いところでした。
ここの見学を終えて、遅めの昼食です。
ここのレストランはなかなか人気のある店らしく、広い席は満員に近い状態でした。

日本料理は様々な食材を生食しますが、中華料理にそれはありません。肉は全部いわゆる”ウエルダン”です。
生食をするためにはキチンとした鮮度管理は必用で、これを中国人が行えるかは疑問です。
ですから中国で日本レストランに入るときは要注意です、とある武漢駐在経験者から聞いたことがあります。

昼食(2)
このレストランは壁にちょっと変わった絵(漫画)と文字が書いてありました。

絵は昔、と言っても共産中国になる直前くらいの学校の授業風景のようでした。
文字は今の簡体字ではなく、我々が何となく読める漢字(繁体字)ですが、漢文の素養なしの私には全く意味がわかりませんでした。
でも2カ所だけ意味がわかりました。左の女の子の教科書の表紙には”数学”、先生らしき人の横の教科書には”英語”、って書いてありました。

果物売り
レストランを出たところで果物売りがいました。桃、蜜柑、梨、等を売っていました。
値札を探したのですがありませんので、”変動売価制”なんでしょうね。

こういう物売りはやはり都会のど真ん中ではあまり見掛けませんでした。
庶民が行く市場なんかに行くときっと面白いと思うのですが、今回の旅ではそういうのは一切無し。
フィリピンにいた時は暇になると運転手に案内させてよくマーケット見物やったものですが、、、。

長春駅
長春から瀋陽(しんよう:旧満洲国の奉天)に向かいます。
待合室は人で一杯、でも椅子はゆったりしているし、列と列の間も広くとってあるので、息苦しさは感じません。

改札に並んだ時にガイドの周さん、40才くらいの日本人女性から声を掛けられました。
詳しいことは覚えていませんが何かトラブルがあったみたいで、どうすればいいのか聞いたみたいでした。

女性ひとり旅で、満洲初めて、中国初めて、高速鉄道初めて、とか言ってました。逞しいですね。

300KM/Hを超えました!
この列車は振動もなく、スムーズに走りました。車両によって随分コンディションが違うみたいでした。

速度表示が300km/hを超えました!330km/hくらいまで上がったと想います。
でも外の景色の流れを見るとそんな感じがしないのですね。
JR東海の新幹線にはよく乗りますが、最高速度は確か300km/h以下じゃなかったかな〜。
あれより遅いんじゃないかな、、、。
まあ”白髪三千丈”の国だから参考程度にすればいいのですね、きっと。

窓からの眺め
少し起伏があって遠くに山も見えます。家・建物は殆ど見えません。たまに集落のようなものが見えます。

南満洲と違って哈爾浜(ハルピン)から北西のハイラルとか斉斉哈爾(チチハル)とかに行けば”地平線”が見えるのでしょう。いつか機会があれば行ってみたいですね。

満洲の農作物は大豆、小麦、粟、高粱という理解ですが、これは今でも同じなんでしょうかね。トウモロコシが加わっているかも、ですね。
山が少なく平地ばかり、もちろん高速鉄道もトンネルなんて通りません。

瀋陽駅
手前の瀟洒な建物が瀋陽駅、つまり満洲国の奉天駅です。どこかの駅に似ている、、、、そうです東京駅を模して建てられました。
駅は日露戦争後の1910年に竣工。
これで3回中国の高速鉄道を利用しましたが、駅などの表示が殆ど中国語のみです。英語もありません。ましてや日本語なんて皆無です。
もう少し何とかなりませんかね〜、旅行客の事はハナから眼中にない、って感じですね。

それに比べて日本はやり過ぎ、中国語、台湾語、韓国語、英語、日本語の5つ併記、私は日本語と英語だけでいいと想うのですがね。

レンタサイクル
携帯にアプリを入れて保証金を払って登録、あとは自由に空いている自転車をアプリで探して乗れるようです。

利用は30分単位で日本円で5円(!)相当、なかなかいいシステムだと想います。
しかしこういうシステムが中国でうまく継続的に機能しているのか、そういう意味で少々心配したくなります。

自転車のメンテナンス等がどういう仕組みで運用されているのか、ビジネスとして成立しているのか(採算無視事業なのか)、など、大いに興味あります。

夕食
”老辺餃子館”という結構老舗で人気のある、いいレストランだという事でした。
家族連れとかで賑わう横を通って固執に入りましたが、おいしかったです。

中国人のテーブルを見て思うのはビールとかを飲んでいる人が殆どいないことです。(中国の1人当たりのビール消費量は日本の半分以下です)
まあ我々は観光旅行で来ているので状況は違うとは言え、昼に1本、夜に1〜2本飲んでるのは異常かもですね。しかもいつも、「冷えたビール!」、とか叫んでますからね。

夜の繁華街
レストランを出てバスまで少し歩きます。なかなか賑やかです。ここが瀋陽の街のどの辺りなのかわかりませんが、都市部人口600万人の大きな市です。
あとで調べた事ですが日本人も800人くらい住んでいるそうです。
歩いている人を見ると圧倒的に若者が多い。いわゆる日本で言うところのサラリーマンのような感じの人は殆ど見掛けません。様々なショップとかがありますが、それほど買い物をしているという感じもしません。
どこかからどこかに移動している、という感じの人が殆どです。不思議です。

ホテル到着(1)
今日から2泊お世話になるホテル、”シェラトン・サウスシティー”です。
ロビーはびっくりするくらい広く、そして天井の高いホテルです。これくらいだとラスベガスでも大きなホテルでも負けないですね。
人の姿は殆ど見掛けません。ガランとしてる、という感じです。
バスで少し走りましたので、中心街からは少し離れたところです。

今回は時差がない旅なのでホテルに着いた、ヤレヤレという感じになりませんね。

ホテルの部屋です
部屋は清潔で問題なしです。
メールも使えないし、部屋に入ると結局はテレビを見る事になるのですが、コントローラーの文字が中国語だけです。ボタンの色とか位置で何とか判断して、使えましたが。

スポーツとか言葉に関係のない番組はなく、全部非常にかたい内容ばかりです。
日中戦争時代の日本との戦い、国民党と共産党の国共戦争など戦争の番組が多いのが特徴です。
もちろん日本軍は悪者、国民党軍はマヌケ、という感じで作られています。

部屋からの眺め
風呂は部屋から見えるようになっています。シャワールームは別にあり、使ってみましたが水はけが悪く床がビショビショになりました。
部屋からの外を見るとこのエリアはまだ開発途中というか、やはり何もないところでした。

道路は立派ですが車は殆ど走っていません。
近くにもう一つのホテルが見えますが、駐車場に車は数台しかありません。
光の多くは街灯で、遙か彼方にかなりの数の高層マンションが見えるのみでした。

ここまでの旅ですが、今の中国観光というのはどこに行っても暖かみを全く感じません。ちょっとした店に入っても、レストランに行っても冷たいというか、とにかく冷たい感じです。
中国人の一番旅行したい国は断トツで日本、その次がタイです。ナゼなのでしょうか。一つ言えるのは日本もタイも”おもてなしのココロ”が自然と備わっている国です。
何か関係があるのでしょうか。

それはともかく、ここまでの旅は非常に順調です。
ひとつだけ不満だったのはこのグループツアー、自由行動が殆どない点です。まあ仕方ありませんね。

満洲の旅、更に続きます。