旧満州の旅−3(瀋陽:旧奉天) : 2019/9/7〜2019/9/15
この旅は大連から哈爾浜(ハルビン)に行き、そこから一都市ごとに南下していくというコースです。前の夕方、長春から瀋陽(しんよう)に着きました。
瀋陽は旧満州の奉天で、現在の中国東北地方の最大級の都市、大陸鉄道の要所でもありました。

朝鮮半島・釜山からは京釜線・京義線で鴨緑江を渡って丹東(安東)経由で奉天まで、大連からは南満州鉄道が奉天まで、北へは旧東清鉄道が哈爾浜まで、そして西には京奉線が北京・天津まで、これらが旧満州国の当時から既に鉄道で結ばれていました。

またここからは石炭の露天掘りで有名な撫順までは1時間程度の距離です。

今回のツアーは歴史に興味を持つ者にとっては非常に興味深い場所を幾つも訪れました。

グループツアーというのはプロがいろいろ考えて日程を組み、それを販売する訳ですが、瀋陽ではホンタイジの陵墓、瀋陽故宮博物院、撫順戦犯管理所、石炭露天掘りの4カ所を訪れました。

特に”撫順戦犯管理所”は今の中国を理解する上で、また現在の中国観が形成される出発点とも言うべき非常に重要な施設で、ここを見学して今までモヤモヤしていた中国についての疑問の一部が解けました。

充実した1日でした。

いきなり日本レストラン
ホテルから出発したバスから見えました。かなり大きな日本レストランです。

瀋陽に住む日本人は800人程度で人口850万人からすると少ない感じがします。
東京は1200万人、中国人は違法滞在を含めると(こっちの方が多い?)20万人以上いるそうですから人口比率で言うと150倍以上です。

ですからレストランのターゲット客は日本人ではなく、中国人ですね。どんな料理を出すのか、興味ありですね。

北陵公園入り口
天気はちょっと悪く、雨の心配もありましたが先ず北陵公園からツアーのスタートです。

瀋陽は清朝の初代皇帝のヌルハチが、北京を模して作った都市です。
清は建国1616年、明を滅ぼ都を瀋陽から北京に移したのが1644年です

ですから満州族でできた清朝は瀋陽を副首都という位置付けにしていました。
つまり瀋陽は清朝の生まれ故郷です。

シャトルで移動です
入り口を入った所で待っていたシャトルに乗って移動です。.中は非常に広く、ここを全部歩いて見学するとなるとそれなりに健脚でないと大変そうです。

北陵公園の中に清の2代目皇帝太宗ホンタイジ(1592年〜1643年)と妻の孝端文皇后が祀られている昭陵(陵墓)があります。

陵墓はホンタイジ自らが着手、22年という歳月をかけて死後の1651年に完成したそうです。
清時代には毎年ここで祭祀が行われたそうです。

北陵公園紹介
面積は330万uですから、形からいくと1.5kmX2,2kmという感じでしょうか。
皇居は110万uですから、ちょうどその3倍です。

周囲をぐるっと走れば7km以上、こういう大公園が大都市のど真ん中に近いところにあるというのはスゴイですね。やはり満州はスケールがでかい。

北陵公園の中に昭陵(陵墓)があり、ここは市の北に位置するので単に北陵とも呼ばれます。
ややこしいので墓は”昭陵”とします。

北陵公園の池
地図にもあるように北領公園の南側には大きな池が作られています。池の水はドロンとしていますが、ゴミもなく、周囲もきれいに整備されています。

オハイオにいた時はステート・パーク(州立公園)によく行きましたが必ずBBQができるエリアがありました。中国もできるのでしょうね、きっと。

日本の公園は”BBQ禁止”が多いですね。何でなんですかね。マナー悪いから?

公園ダンス
ここでもやっていました。休憩時間のようでした。着飾っている人もいましたね、やっぱり。
<高齢化・肥満化する中国>⇒<ダンス>⇒<健康増進>⇒<幸せ、そして医療費節約>、こういう事ですかね。

中国人の肥満率は5%くらいで世界ランキングでは150位以下だそうでが、人口が多いから7000万人くらいはいますね。
私が行った国で肥満が多いな〜と思ったのはメキシコです。半分以上肥満、って感じでした。
アメリカも結構凄かったですけどね。

昭陵:牌楼
門の先から陵墓のエリアで、確か有料になっていたと思います。ツアーですからガイドさんが全部手配してくれますのでラクチンです。

真ん中の路を神道と言うそうで、左右に柵が作ってあり、歩く事はできません。
また同じく中央の門も使う事ができず、右側の門から入るようになっていました。

牌楼は強度に問題が出てきたのか、修復中なのか裏表を大きな水色の支柱で支えてありました。

昭陵:神功聖徳碑亭
長い道をトボトボと奥に向かって進みます。人はあまりいません。静かです。
建物などは非常にいい状態で保存されており、清朝初期の建築物の研究などに貴重だそうです。

またここは2004年に世界遺産にも登録されてます。理由はガイドさんの話を聞くと納得です。

ユネスコの”世界遺産”は二流・三流の観光地が人を呼び込むために使うもの、と各国から言われていますが、昭陵はそういう揶揄の対象ではなさそうです。

昭陵:隆恩門
やっとここまできました。
昭陵は前円後方墳(前方後円墳という言い方はは間違いだそうです)でつまり鍵穴の形です。

この向こうが四角の部分で、要するに方墳は城壁に囲まれていて、その南側の入り口がこれ、という事です。

3ヶ月前に行った中欧のツアーは同じ旅行会社で1日当たりの歩く時間がガイドブックにありましたが、今回のツアーはありませんでした。
この日は結構歩きました。

昭陵:隆恩門の満州文字
入り口の上に大きく書かれていました。
満州文字は満洲語を表記する文字
です。満州文字はアラビア語の遠い親戚だそうで、なるほど横にすると似ていますね。

圧倒的少数民族である満州族が清朝として漢族を支配、これによって満州文化は中国文化と同化してしまった、その中で言葉も文字も滅んでしまった、ということなのですね。

今では満洲語を話す人はほぼ皆無であり、満洲語も満州文字も学問上の言語・文字になってしまいました。

昭陵:方城を見下ろす
方城は字の如く四角の城壁に囲まれて、四隅には角楼があります。
つまり前円後方墳の”後方”に当たる部分で、その四角は平地で建物が建っている、ということですね。

城壁の中には様々な建物がありましたが、ツアーではここに降りての建物の見学はありませんでした。

屋根は濃い橙色で時々は葺き替え、また建物もていねいに修理がされて原形を保つようにしているものと思われます。

昭陵:お守り
中国の宮殿・寺院の屋根には魔除けの神獣などが乗っています。手前には霊鳥に乗った仙人、一番後ろはヒゲの龍、その間に建物の格によって神獣が1、3、5匹乗るそうです。

が、例外を発見。方城の角楼の屋根を見ると確かに神獣は3匹乗っかっていますが先頭の仙人がいません。後ろのヒゲ龍はいます。ここは0+3+1です。さて、どうして?

後で行った瀋陽故宮博物院の建物の屋根にはちゃんと1+5+1でフルメンバーが鎮座してました。
昭陵の仙人は落っこちたのですかね。

昭陵:宝頂
方城の外ある宝頂です。つまり鍵穴の穴に相当する部分で、直系が36mあるそうです。
この中にはホンタイジと妻の孝端文皇后が入っています。

手前の木で少し隠れていますが、宝頂の上には大きな木が1本飢えられていました。

ホンタイジは戦にも強く、策略家でもあり、頭もよかったようですが51才で亡くなっています。
漢人の文化は取り入れるが、満人の血は引き継ぎたいと強く思っていたそうです。

昭陵:月牙城
この壁は湾曲しており、床の形が三日月に似ているところから月牙城と言います。
この向こうに宝頂があります。この墓は一度も開かれたことがないそうです。

ホンタイジには孝端文皇后以外に記録として14人の側室がおり、50人以上の子がいたそうです。
墓に一緒に入れるのは正妻だけです。

ホンタイジ自身は太祖ヌルハチの第八子、正妻の子なのか側室の子なのか。

昭陵:何かな?
ガイドの周さんがいろいろ説明してくれたのですが、良く覚えていません。
この獅子の口の中に手を入れると、何とかで、、、という説明だったと思うのですが、、、。

以前はこういツアーの時はキーワードをメモしておき、その後バスに乗った時などにさっと整理をしておく、という方法をとっていましたが、最近はヌケ漏れがあります。

まだまだ旅はしたいと思っているので、こういうのをうまくやる何か良い方法はないのですかね〜。

瀋陽故宮博物院前
北陵公園、昭陵はそれほどの観光客はいなかったのですが、瀋陽故宮博物院は人気の観光地、たくさんの人がいます。

瀋陽の街の中心から5〜6km東にあり、北陵公園からはバスで15分くらいでした。
周りには土産物屋、ちょっとした軽食レストランなどが建ち並んでおり、覗いてみたかったのですがグループ・ツアーなのでダメでした。

奥に見える門が大清門といい、大臣達が参上する際に必ず経由する瀋陽故宮の正門です。

瀋陽故宮
北京の故宮を模して作られたそうで、面積は北京の故宮(紫禁城)の12分の1、6万uですからざっと250m四方という感じですね。

ここは初代皇帝のヌルハチが創建、1636年の清朝2代目ホンタイジの時に完成しました。
という事は日本の江戸時代初期の頃です。

清朝3代目の皇帝・順治帝はここで即位、以降は北京で行われていますが、ずっと北京・紫禁城(故宮)の離宮として使われていたそうです。

大政殿
皇帝が式典を行う場所です。瀋陽故宮の中で最も古い建物で、別名八角堂と言います。
形は移動式テント、ゲルを真似ています。

清時代の満州は皇帝の故郷として、漢族は移住を禁止されていたのですが、末期にはそれも許され、漢族が増えてしまったそうです。

映画で見る辮髪(髪の毛を伸ばして後ろで三つ編みにする)、チャイナドレスは元は満州族のものであり、清朝がこれを奨励したので中国に広まった、という事だそうです。

写真は左側の4棟だけ写っている 十王亭
大政殿の前には大きな広場があり、その左右に5棟の建物、計10棟が並んでいます。
右翼王亭(右大臣)、左大臣(左翼王亭)、それに八旗(八旗亭)でつまり10棟になります。

八旗というのは清時代の支配層である全ての満州人が所属した社会組織・軍事組織で、八旗制ともいうそうです。
八旗にはそれぞれ名前がついており、鮮やかな色の旗があります。
後には漢人も八旗を組織するようになり漢人八旗という事で区別をしたそうです。

宝物
博物院の中にこれらは展示されていました。

駆け足で見て回ったので、よく覚えていませんが、花瓶の色彩が見事だったのは印象に残っています。

武具もかなりありましたが、展示されているものは保存状態が悪く、殆どが錆びていて形状だけが確認できる、というレベルでした。

とにかく時間がなく、駆け足の見学でしたのでメモをとる暇もなく、写真を撮るのに精一杯でした。

玉座
崇政殿の中にある、ホンタイジが要人などと接見した時に使った玉座です。
非常に精緻に作ってあり、もし当時と同じ色彩を施せば、更に見事に見えると思います。

崇政殿はホンタイジが日常の政務・軍務を行った場所でもあり、普段はここにいる事が多かったと思われます。
ホンタイジの愛読書は三国志で、これを軍事・政治の参考にしたとあります。
三国志って小説ですよね。ホンタイジの父のヌルハチも愛読したという記録があるそうです。

3カ国語表示
日本では随分前から観光地だけではなく、あちこちの公共の案内が5カ国語表示というのが増えています。
日本語、英語、中国語繁体字、中国語簡体字、ハングル字が書いてあるのは珍しくありません。

中国はどこに行ってもほとんど中国語と英語だけです。日本も日本語と英語だけでいいと思います。
それはどこの国の人も”ウエルカム”を表す唯一の方法だからです。
今回の旅で英語以外の案内・説明書きは殆どありませんでした。

清寧宮
皇帝と皇后の寝室、それに側室4人の(妾)の棟が並んでいる、いわばホンタイジの家族の生活空間です。

瀋陽故宮はヌルハチ時代に建てられた建物とその息子のホンタイジ時代に建てられた建物があり、このエリアはホンタイジ時代に建てられた建物があるエリアです。

ホンタイジは清の2代目皇帝で、それを引き継ぎ清のゆるぎなき基盤を作った3代皇帝の順治帝はここで生まれています
母親はここにいた4人の妾の中のひとり、孝荘文皇后(ブムブタイ)で彼女の棟もありました。

ブムブタイ(孝荘文皇后)
ホンタイジの側室であったブムブタイの鮮やかな肖像画がありました。
生んだ子が第3代皇帝になったので有名なのかと思い、いろいろ調べると壮大な話がある事がわかりました。

ブムブタイという皇后は第2代皇帝ホンタイジの側室、第3代皇帝順治帝の母親、そして第4代皇帝康熙帝の祖母として75才で亡くなっています。

つまり3人の皇帝を支えてきた重要な人物で、満州族の清朝が漢民族を支配するにあたり、数々の重要な助言(策略も含む)を行った、ということです。

自分の子である第3代皇帝の順治帝の側室に自分の一族から何人も出したりもしています。
ブムブタイは清末期の西太后と比較する歴史学者もいるそうです。

4人の側室の棟は中庭を中心に正妻の家を中庭をはさんで作られていました。
側室達はそれぞれの棟に、世話をする女官と住んでいたそうです。

建物の中(1)
各部屋はオープンで大きな土間を囲んで四方にあります。ですから各部屋から向かいの部屋、隣の部屋は丸見えです。

瀋陽の冬は北海道並みの寒さですから、暖房の関係からこういう構造になっているのか、一般の家も同じなのか大いに知りたいところです。
ここでどうやって実際の生活をしていたのか、部屋を見れば見るほど疑問が湧いてきます。

昔の生活空間を見学する時、私は暖房を考え、風呂とトイレを探す事にしています。

建物の中(2)
ここで料理をしたのでしょう、竈の上に大きな鍋がありました。いわゆる中華鍋です。

正妻と側室5人の食事は一カ所で作り、それを食べていたのか、皇帝の料理はどこで作り、誰と食べていたのか、疑問は一杯あったのですが、答えは全部持ち越しでした。

石臼などもあり、その横には料理の写真と説明がありましたが、ゆっくり見る時間がありませんでした。
非常に残念でした。

鳳凰楼の階段から
この写真の背中側が3階建ての鳳凰楼で、残念ながら写真を撮るのを忘れました。1635年に建った時は瀋陽で一番高い建物だったそうです。

ここの見学で再度反省したのは事前の勉強不足でした。何を見ておいた方がいいのか、どこの写真を撮っておけばいいのか、きちんと調べておかないと見学しても猫に小判、SHINに瀋陽故宮になってしまいました。

清朝成立の頃の歴史をそのうちきっちり調べてみたいと思いました。

撫順の街並み
瀋陽故宮博物院の見学を終え、バスに乗って撫順に向かいました。撫順までは1時間ちょっと、すぐに到着でした。

撫順は瀋陽のような大都市ではない、という認識でしたが聞くと人口は200万人!
何だ大都市じゃないか、と思ったのですが総面積は11000kuだそうで、これもデカいのですね。

旧満州の中国東北部でもこの地域は満州族が多く住む地域だそうです。

撫順戦犯管理所
撫順戦犯管理所、これを何人の日本人が知っているでしょうか。
先ず、ここは何をするところだったか、という事になりますが、結論から言うと、主として旧満洲国に関連する要人(大半は日本人の軍人と官僚)の思想改造・洗脳施設であった、という言い方が正しいと思っています。

では何のためにこれらの人を改造したか、中国共産党によると”鬼を人間に変える”のが目的だったそうです。

ナルホド、、、です。

誰がどこから連れてこられたのか
1945年8月8日、ソ連は”日ソ不可侵条約”を破棄、日本に宣戦布告をし、満州国に一気に攻め込みました。
弱体化していた関東軍はソ連の敵ではなく敗走します。

ソ連は日本がポツダム宣言を受諾した8月15日、ミズーリ−号で降伏調印をした9月2日以降も満州全域、朝鮮半島北部、南樺太、千島他を占領した後、9月5日まで戦闘を続けました。
これが今も日本政府が問題にしているソ連の行動です。

そしてソ連はこれらの国・地域・島で降伏した日本軍将兵約60万人を抑留しました。

終戦後の日本軍
日本がポツダム宣言を受諾し、中華民国(蒋介石)は戦勝国となりました。この時中国には120万人(ソ連への抑留者60万人を覗く)の日本軍が駐屯していました。

日本軍の武装解除は中華民国によって行われましたが、共産軍(八路軍)は日本軍の兵器・物資を狙っており、これを大量に手に入れます。
中国全土で武装解除された日本軍は、それぞれ日本に帰りました。
中華民国も共産党も日本軍兵士は基本的に抑留していません。紳士的?内戦で忙しかったのでした。

誰が日本人を送りこんだのか 日本人が収容された施設と日課表
中華民国(蒋介石)も共産党(毛沢東)も共通の敵である日本軍ガいなくなったものの、どちらも国内を統一できる訳がなく日本降伏後直ぐに内戦が始まります。

共産軍は弱体だったのですが、日本軍から得た最新兵器とソ連からの援助により、国民党軍を破り、国民党は台湾に脱出したのでした。
この内戦を”国共内戦”と言いますが、今の中国共産党は”人民解放戦争”と言っています。

戦後日中国交回復の時、毛沢東は田中角栄に”国共内戦で勝てたのは日本軍のおかげと言ってます。多分本当でしょう。

昭和25年、国共内戦で勝利した中国共産党はソ連が抑留した日本人捕虜の引き渡しを交渉、軍人・軍属800名、旧満州国の官僚200名の合計969人を昭和25年に受け取ります。注目すべきは時期で、ソ連は既に抑留者の90%は日本に返していました。
これはできてホヤホヤの中華人民共和国(中国共産党)の威力を世界に示すために行ったと言われています。

つまり中国の共産国化成功に対するスターリンから毛沢東へのプレゼントと言えるかも知れません。

これでもか、という程の鬼日本人の説明から始まりました 何を説明したか
着くと、30〜35才くらいのやせ形の蝋人形みたいな女の説明員が出てきて、かなり流ちょうな日本語で説明を始めました。
説明の内容は、ここでは日本人を温かく迎え、そして間違った考え、間違った思想による間違った行動を、自らが進んで直そうとする事ができるよう、あらゆる支援を惜しまなかった、から始まります。
つまり脅したり、強制して”人間改造”をやったのではない、という事です。

それらが1時間近く続き、最後にまっとう”になった日本人は”全員釈放、日本に返しましたで終わりました。

鬼日本人とは
日本のある先生が”撫順の奇跡”、という論文で元憲兵の土屋さんという人をインタビューした内容を引用しています。

(1/3)
憲兵のとき私は、中国民衆を『虫けら』だと思い、何の罪もない人をかたっぱしから捕まえた。
そして拷問を加え取り調べ、虐殺したり、投獄したりした。無実だと分かっても助けなかった。

中国民衆の誰一人をも人間として扱ったことは一度もない。そんな私だから、中国から捕まってしまったのでは、日本に生きて帰ることはもうできないだろうと思っていた。

鬼に易しかった収容所
(2/3)
ところが、中国の戦犯管理所の人たちは、私たちにとても人間的なあたたかい扱いをしてくれる。
殺人鬼だった私たちに、食事から健康管理から親身になってお世話してくれるのだ。

こんなに親身になってくれる中国の人たちに、は何をやってきたのだろう。
私は、自分が中国民衆に犯してしまった罪行を振り返らざるを得なくなった。
ふり返るたびに、何てひどいことをしてしまったと、その悔悟の苦しさから気を失いかけることも何度かあった。

鬼が人間になった瞬間

(3/3)
私がやってきたひとつひとつのことが、どんなに反省してもあやまっても、とても許されるようなことではない。

死刑にされても当然の罪行だった。ところが、中国政府と中国民衆は、1956(昭和31)年、私たち戦犯の大半を『起訴猶予』にしてくださったのである。

そして、が捕らえた1千人以上の日本人戦犯を、たった一人の死刑者もなく、全員を生かして日本に帰して下さったのだ。

こんな例は世界のどこにもないすからね。

収容所で病死した第63師団師団長岸川健一中将 夜の繁華街
ここで行われた大々的な思想改造は見事成功、彼等の言う”鬼から人間”に変わった戦犯達は何名かの病死者を除き、昭和31年に帰国する事ができました。

ソ連抑留時代を含めて実に11年間、来る日も来る日も帝国主義者社としての反省、勉強会、自白、指導を受け洗脳・改造された彼等は中国共産党の目論み以上の大活躍を日本で行ったのでした。
収監者の仲には陸軍の将官が4名、1名は病死しましたが3名は帰国、最後に亡くなる時に、収容所で着ていた人民服を着せてくれと嘆願、それを着て亡くなった将官がいたそうです。

収監者の娯楽
厳しく自白・反省を要求する中、食事、医療、生活環境などは至れり尽くせり、行動の自由を奪った人間に対する巧妙な手法は見事としか言いようがありません。

娯楽にも十分な配慮がされコーラスとかギターまで支給された、というような宣伝の展示がこれでもか、と続きます。
もちろん全て中国共産党の濃い味付けです。

あんなに悪いことをした自分をここまで大きく包み込んでくれる中国共産党、、、。

これが繰り返されるとどうなるか、、、。

2つの態度と2つの道
罪を認めれば寛大な措置が受けられる、罪を認めなければ厳しい処置を受けなければならない、これが絶えず強調されました。
「罪の大小が処分を決めるのではなく、罪行は重くても完全に共産主義者になったものは許す。」
「罪行は軽微でも思想を改造できない者は重く罰する。」


怖ろしい論法です。
死刑になるかも知れないという恐怖、故国に帰りたいという熱望、その前に2つの態度と2つの道がある事を告げられる。
これが繰り返されるとどうなるか、、、。

取り調べ
取り調べは自白中心です。検察側が何かの犯罪事実を提示するのではなく、自白をするのです。

日本人の中には、「調べはついているんだろうからそれを示してくれ。そうすれば私も思い出せる事もあるだろう。」、という事を言った人がいたそうです。

すると、「お前が自らの記憶に基づいて罪行を述べる事を要求する。誠実な態度であれば思い出せるはずだ。」、という言い方を繰り返したそうです。

これが繰り返されるとどうなるか、、、、。


帰国後の活動
帰国した人たちは中帰連(中国帰国者連絡会)というのを組織し、かつての日本が中国でやった悪行、殆どは彼等が作らされたお話、を自らの体験として語る事に邁進します。

本の出版を始め、雑誌、週刊誌、講演会、新聞、特定の左翼ジャーナリスト、などを使って日本中で活動を行いました。
現在の”日中戦争の日本軍”とか”南京事件”とかのイメージは結局は彼等の活動の成果と考えていいと思います。

この収容所の管理は周恩来自らが行い、ここは中国共産党の最重要施策施設のひとつでした。

曾孫に伝わる体験
この生徒の話は朝日新聞、毎日新聞で大々的に取り上げられ、その話がここにも展示されていました。
生徒の曾祖父は様々な罪行を曾孫の前で告白をしたようです。それを聞いて、何を感じて何を思ったかという作文です。
中1の子は純粋です。

中国共産党にしてみれば躍り上がって喜ぶような成果でしょう。展示物の中にデカデカとありました。

説明の女性は、「こんな立派な中学生もいるのです!」、と叫んでいました。

改造された人間の結果
「中国人民は君たちのような帝国主義思想は絶対に許さない。中国人民は君たちを招待したのではない。勝手に中国に乱入したのだ。」

「そして我々同胞を殺し、極悪非道の犯行をおこなってきた。その重大な犯罪を中国人民は許すと思うか。」

「お前達を生かすも殺すも中国人民の権利であり、自由意思である。」


これを外に整列させて所長が演説をしたあと、”認罪運動”をするための学習に拍車がかかったそうです。

収容所内の理髪所
認罪運動とは、見た事、見た事のないものも含めて全部の「事実の晒しあい」です。

”学習、討論、認罪”、これを来る日も来る日もやった、そして最後には”殺し、焼き、犯す、中国人を虫けら以下に扱った”、という山のような供述書が出来上がったそうです。
「殺した、というのを見た、聞いた」、はダメなのです。
「見たのに何もしなかったのは君も同罪だ」

ですから、供述書には、「私が殺した」、になるのです。
これが次のステップの出発点になります。

学習の結果人間に戻る
告白に次ぐ告白。それを先導する何名かのパルピンなどで教育を受けてきた元将校のアクチーブ。

「まだ隠している」、「殺される被害者の気持ちが分かってない」、などの声が上がり、食事が喉も通らなくなる。

「この深刻な、命がけの自己批判と相互批判が数ヶ月続いた。」、そして最後に検察側の”情”が認めてくれてパス。

この命がけの”学習”を経て”鬼から人間に戻った”、が大事なのです。

全て君たちが決めることだ
”認罪”とは率直に自分の罪を認め、重大犯行を具体的に書き出す事でした。
その大きな流れを作ったのが宮崎弘元中尉と言われています。もちろんアクチーブのひとりです。

皆を前に、自分がやった銃剣による妊婦の殺戮(将校が銃剣持っていたのですかね)など、身をもって説く典型的な発言は他の者に強烈な影響力がありました。

そして所長は「私がエンマ様に見えるか、仏様に見えるか、君たち自身が決めることだ」と付け加えたそうです。

収監された溥儀
溥儀もここに収監されていました。罪状は以下のように書いてありました。

愛新覚羅・溥儀は三たび皇帝の夢ー末代皇帝、復位皇帝、傀儡皇帝ーを見た。
三たび皇帝になり、三たび退位させられて、近現代中国社会の巨大な変革期の異なった時期に身をおいたのである。

とりわけ偽満洲国の傀儡皇帝になった時期、溥儀は日本帝国主義が行った東北での血なまぐさいファシスト的植民地統治に手を貸し、東北人民に14年間もの長きにわたり重大な災厄をもたらし、中華民族の歴史的犯罪人になった。


溥儀は日本に2回来ており、日本の皇室には親しみを持っていたようです。
溥儀は終戦の4日後、日本政府の亡命の打診により奉天の飛行場から日本へ脱出する予定でしたが、その寸前に奉天まで来たソ連兵に捕まり、連行されました。

溥儀はハバロフスクの収容所に入れられたのですが、中国への引き渡しを恐れてソ連への亡命とソ連共産党への入党を希望したが拒否されています。

戦後の溥儀
溥儀は昭和21年に東京裁判にも出廷しています。
「満州国皇帝は日本軍に請われ、断ると命の保障はないと言われた。」、「日本は満洲を植民地化し、神道による宗教侵略を行おうとした。」、「満洲問題に関する責任は全て日本にある」、自らの皇帝への野心については述べていません。

後に認めた自叙伝『わが半生』では「私は非常に残念に思う。私は、当時自分が将来祖国の処罰を受ける事を恐れ」、「自分の罪業を隠蔽し、同時に自分の罪業と関係のある歴史の真相について隠蔽した」
と書いています。いろいろ解釈できます。

ホテルの部屋です
溥儀は昭和35年に、当時の国家主席劉少奇の出した特赦令によって釈放されています。溥儀はハバロフスクを含めて15年間の収容所生活を送った事になります。

写真は、溥儀が政治犯収容所に収監されている際も何かと便宜を図っていた毛沢東と中南海で会った時のものです。

溥儀は一般人として昭和37年に5人目の妻と結婚して、その後周恩来の計らいで国会議員相当の職務を与えられ、昭和42年に61才で亡なりました。(溥儀の晩年の好物は日清のチキンラーメンだったそうです。)

何が問題か
この収容所は”人間改造、洗脳施設”です。
ソ連は国連の常任理事国であり、その一員であった中華民国ではなく、中華人民共和国に違法抑留した日本人を引き渡した、これは注目すべき点です。
そして公式な裁判も実施されないまま、当時は存在しなかった国(中華人民共和国)の”戦犯”として長期間拘留、大々的な思想改造を執拗に行ったという違法性にも日本人は注目すべきだと思います。

1000名の日本人のとったその後の行動は、彼等に責任は一切ない、と断言できます。それは収容所を見学すれば一目瞭然でした。

ホテルの部屋です
洗脳された日本人(現在も)はここを”撫順の奇跡”と呼ぶようになっています。

では何が奇跡なのか、
それはここでやった人間改造が大成功し、彼等が”奇跡のような成果”を出してくれた、という事だと解釈しています。
現在の親中、護中、擁中の源、そしてその方法と思想の源は全てこの撫順戦犯管理所にある、と確信をしました。

人はひとりから何かを言われても、直ぐには信用しません。しかしふたりから言われると、多くの人はその考えを信用します。

3人から同じ事を言われると、先ず間違いなくその意見なり考えを信じるようになります。
そしてその人は次の誰かにその考えを伝えていくのです。

中国の事を批判なりをすると、どこからともなく現れる中国の擁護者、中国の批判をできないような雰囲気を何となく作る支援者、こういう経験をする事が時々あります。

どうしてか、これを繰り返すと全てはこの収容所に行き着く、今回の見学で間違いのない事を確認できました。

戦犯管理所横の幼稚園
戦犯管理所の見学を終え、外に出ると広場の横に幼稚園がありました。多くの子供が無邪気に遊んでいました。

撫順戦犯収容所、ここの見学は非常に重い内容でした。
見学をしたツアーの他のメンバーはどういう感想を持ったのか、「日本は本当に酷いことをやったんね〜、ここまでやったんじゃ言い訳も何もないね、、、」、という声が聞こえていました。

中国が作った”話”は既に事実になってしまったのか、何とも言えない悔しさというか、空しさで一杯になった見学でした。

撫順の露天掘り
日本は撫順の石炭を略奪するために1905年から1945年までの40年間、撫順を占領した。
その間に2億トンの石炭を略奪し、”帝国の宝庫”と称された。
またここには強制連行された中国人が多く働き、40年間で25万人が死亡した。

だそうです。

露天掘りは遠くが翳むほどの規模で、最深部450mだそうです。閉山をするという話もあるようで、このまま放置するとどうなるのですかね、、、、。

瀋陽の街に戻ってきました
なかった国(当時は中華民国はあっても中華人民共和国はなかった)の政府から”戦犯”にされた日本人が何をされたか、私にとっては非常に興味深い見学でした。自分の中にあった霧が少しだけ晴れたような気がしました。

瀋陽の街に戻ってきましたが、ちょうど夕方のラッシュ時間で道路は相当に混んでします。
しかし市内の道路は大変広く、渋滞で動けなくなるという程ではありません。
でも車はどんどん増えていくと思いますので10年後、15年後にはどうなっているのでしょうか。

旧ヤマトホテルです
瀋陽にも立派なヤマトホテルがありました。今もホテルとして使われています。

当時は最高級ホテルで、各都市のヤマトホテルは駅前などの一等地に建っていました。
一度は泊まってみたいホテルですが、今回のツアーでは残念ながら組み込まれていませんでした。

今夜はこの憧れのヤマトホテルで夕食です。
知る人ぞ知るヤマトホテルでの食事、まあ話のネタにはなりそうですね。

ロービー
ここもロビーは広くはありませんが、非常にシックな造りで落ち着いた雰囲気で、ヨーロッパのルネッサンス様式を取り入れたものだそうです。

李香蘭がデビューしたのはこのホテルだそうです。
満州というか、昔の中国を舞台にした映画というと李香蘭、というイメージはあるのですが、残念がら映画は観た事はありません。

今は李香蘭というより衆議院議員”山口淑子”、と言った方が解りやすいですかね。

レストラン
小さなテーブルが7卓、大きなテーブルが2卓ほどの大きくない部屋に通されました。
一番奥は暖炉だったようですが、閉じられていました。

レストランは幾つもあるのかも知れません。客ではなさそうな2人が食事をしているだけで、誰もいません。

当時はどういうメニューがあったのでしょうか。やっぱり和洋中全部あったのでしょうね。
そもそもどんな人がここには多かったのだろうか、満鉄社員とか軍の高級将校とかですかね。

部食です
出されるメニューは日本人の口に合うものばかりで、どれもおいしく頂けました。

私は好き嫌いは殆どありません。強いて言えば川魚は好きではありません。もちろん食べますけどね。
鶏肉はダメだとか、何とかはダメだとか、そういう人はグループ・ツアーはちょと辛いかも。自分でメニューを決めれませんからね。

飲み物はいつもビールでは飽きたので本当は老酒か何かを飲みたかったのですが、誰も言い出さないのでとうとう食事の時は飲みませんでした。

レストラン前の通路
この奥にトイレがあり使いましたが、清潔できれいでした。今回の旅では観光地での一部を除きびっくりするようなところはありませんでした。

でも中国旅行をして日本に戻ると駅のトイレ、デパートのトイレ、コンビニのトイレ、スーパーのトイレ、どこに行っても本当にキレイだとつくづく思います。

この2ヶ月前に横浜・東京方面の旅行をしたとき、浅草浅草寺のトイレに入ったと思ったカミさんが1.5秒で飛び出しってきましたが日本のトイレも場所によって酷くなりました。

宴会中です
何の宴会なのかちょっと想像もできませんが、Tシャツの人とかもいるし、男だけのグループのテーブルもあるし、一体何だろう、、、、。
ちょっと飲み物の観察をします。テーブルの上にはワインとかも1,2本見えましたが、飲んでいる人は少ない、、、。

日本でしたらこれくらいの宴会になればテーブルの上は液体燃料瓶が林立するのは珍しくないんですがね。

李香蘭がデビューしたのはこの右手の部屋のステージらしい、、、。

フロントデスク
ロビー横にあります。大きくはありません。
どこまでが昔のままなのかよくわかりませんが重厚だった面影は残しています。

このホテルには毛沢東も泊まった事があるそうで、どこかに過去の著名人の宿泊リストが掲示してあると聞いていたのですが、見つける事ができませんでした。

瀋陽ヤマトホテルは1927年にでき、1945年8月15日に中華民国に接収されています。

ロビーのピアノ
床は大理石、スタインウエイのピアノが置いてあり、1899年製でニューヨークの工場での生産とありました。

ロビーは昔の写真が結構残っており、ツアー前にWEBサイトで何度も見ておいたのですが、入った瞬間、「あ、写真のとおりだ!」、とちょっと嬉しくなっちゃいました。

印象としては哈爾浜のヤマトホテル、より手入れはうんと行き届いている感じがしました。
このままずっと使い続けて欲しいものです。

ホテルの部屋です
食事とホテル内の簡単な見学を終えて外に出ました。
ホテルは中山広場の前に立っており、広場の真ん中には毛沢東の巨大な像が立っていました。

かつてはここに”日露戦役記念塔”が立っており、昔の写真を見るとよくわかります。

夜だったのであまりはっきりとわかりませんでしたが、ここの広場には朝鮮銀行奉天支店、東洋拓殖銀行、満州鉄道奉天医院、横浜正金銀行奉天支店、奉天警察、関東軍司令部、など旧満州国当時の主な建物に囲まれているところです。

これらの建物は今でも全て中国が使っています。

今日は今日は朝から、いろんなところを見学しました。
グループツアーなので時間不足で消化不良ばかりでしたが、必死でメモを取り写真撮影をやり、私にとっては充実した1日でした。

天気は午前中に少し雨がパラついたものの、傘をさすまでもありませんでした。

夜の瀋陽市内
バスに乗ってホテルに向かいます。今夜は2連泊目のホテルなのでチェックインとかがなく楽です。

こういう都会だけを見ていると旧満州も大きく発展したのかな、と思ってしまいますが、やはりこれは都会だけの姿、まだまだ農村地帯との差は大きい、とガイドも言ってました。

東北三省の面積は日本の2倍強の79万Ku、人口は日本より少し少ない1億1000万人です。
どのように発達していくのでしょうね。

多くのオブジェ
ホテルは瀋陽市内から少し離れたところにあり、バスで30分程度走りました。
途中には明るく照明された巨大なオブジェが見えます。

何なのか聞き忘れましたが、派手な照明の割には周りの駐車場に車などはありません。一体何なのか。
ビルも一杯建ってはいるのですが、明かりが点いている部屋は少ない、マンションしかり。

どうも何もかも入居率というか、稼働率がかなり低いんじゃないか、そんな気がしてなりませんでした。

今回の旅は私なりの明確な目的を持って来たのですが、他の人はどういう目的でここに来たのか、聞くことはしませんでしたがツアーのお題が”旧満州の足跡をたどる、中国東北懐旧のいい旅”、となっていますのでそれなりに何かテーマを持って来ている方々だったと思います。

一番若手が40才の独身女性で、海外青年協力隊でインドネシアに3年行った事のある看護師でした。この人は両親のどちらかだったかが満州生まれだったので来てみたかった、と言っていました。生まれたと言っても終戦直前に生まれたので何も覚えていない、と言ってみえました。

さて、翌日は鞍山、北朝鮮との国境の町、丹東に向かいます。