旧満州の旅ー6(大連・旅順) : 2019/9/7〜2019/9/15
哈爾浜から始まった旧満州の旅もとうとう大連まで戻ってきました。大連は昭和20年までは日本人には非常に馴染みの深いところです。
大連は冬はそれほど寒くもなく、夏は酷暑でもなく、四季のはっきりした住みやすいところだそうです。地図で見ると三重県から大連までの直線距離は沖縄本島と同じで、大変近いところにあります。

最後の1日は大連と旅順の観光です。本当はそれぞれ1日は欲しいところで、サーッとしか見学はできませんでしたが、大連も旅順もどういうところなのか、その匂いだけは辛うじて嗅ぐことができました。

大連は日清戦争後の三国干渉で、清国に有利な条件を日本に飲ませたロシアが、清国からのご褒美として租借をしたところです。そして10年後の日露戦争でロシアに勝利した日本がポーツマス条約により、ロシアから租借権を取り上げ統治した、、、これが大連で、旧満州国経営の拠点として重要な都市でした。

中山広場:旧大連市役所
中山広場はロシア統治時代にパリをモデルに放射状の道筋を作った中心部です。
広場は直径200m以上ある大きなもので、これを囲むように幾つもの日本統治時代に建てられた建物が当時のままの姿で残っており、今もそれぞれ使われています。

広場は当時を偲ぶ場所として非常に有名で、非常にエキゾチックでキレイな景観です。

旧大連市役所は1919年に建てられ、現在はは中国の銀行(中国工商銀行)が使っています。

中山広場:旧横浜正金銀行
旧横浜正金銀行大連支店の建物です。
後ろのガラス張りの巨大なビルの中国銀行が、この歴史的な建物を所有しています。

中山広場からは10本の道路が放射状に延びており、広場には10棟の建物が建てられています。
大連は空襲もなく、また市街戦にも巻き込まれていませんのでこうのよな建物が残っています。

上海のバンドも近代建築群の美しい街並みですが、大連の中山広場も負けず劣らずです。

中山広場:旧大連警察署
1908年ですから日露戦争が終わって3年目に建てられたもので最も古い建物のひとつです。
現在は銀行(遼陽銀行)が使っています。

大連は1898年にロシアが租借するまではほんの小さな寒村だったそうです。
ロシアは大連を貿易港、この南西にある旅順を軍港にして開発を行い、街は急速に大きくなりました。

そして1905年から1945年までの40年間、日本によって街づくりが行われたのでした。

中山広場:旧大連ヤマトホテル
大連ヤマトホテルはヤマトホテルの旗艦店です。
大連は日本から満州への玄関口であり、満鉄の本社もあり、威信をかけた世界一流ホテルとしてロシアのダーリニーホテルを改装して1907年(明治40年)に開業しました。

開業時は客室数が13室と小規模であったため、1914年に現在の位置に客室数115室で、当時としては巨大なホテルとして作られたものです。

今回の旅行では中の見学ができませんでした。1年ほど前までは営業していたホテルで改装か何かで閉鎖中だとガイドが言っておりました。

中山広場:中心方向
この日は生憎小雨模様、しかし雨の大連中山広場というのもいいもんだ、と言い聞かせてしばし風景を満喫。
しかし当時の日本国の一等国への主張の面影を残すこれだけの規模の建物が日本に残っているでしょうか、、、。
どこにもありません。
大連の1940年(昭和15年)における人口は60万人、日本人は20万人いました。

中山広場の周りの高層ビルを見ると中国の経済の発展ぶりを実感します。
現在の市区における人口は450万人だそうです。

中山広場:ホテル・ニッコー
円筒形の建物です。何だか周りを他のビルで取り囲まれて景観は悪そうですが、近くに日本食レストラン街もあり、人気のホテルのようです。

サンフランシスコ、メキシコシティー、香港、台北、日本国内、などのホテル・ニッコーに泊まった事がありますが、サービスとか部屋などは非常によかったです
もし今度大連に個人旅行で来るならここにするのも悪くはなさそうです。
場所も便利で、お値段もリーズナブルとか。

中山広場:観光客?
一生懸命に写真を撮っているので観光客かと思いましたが、どうも違うみたいです。
黄色い帽子をかぶっているのは白人のようで、女の子の髪の毛とか服装を直したりしています。

遠くてよくは見えませんが、女の子はべっぴんさんです。
それと左側で写真を撮られている男性は観光客とは思えないピシッとした服を着ています。

雑誌のスチール写真か何かでしょうか。でも小雨が降っている中で何をしている連中なのか、不思議でした。

中山広場:旧満鉄本社跡(1)
満鉄は鉄道事業だけではなく農産物支配、炭鉱開発、製鉄所、港湾、電力、牧畜、ホテル業、航空会社などを多くの事業、それに土木、衛星、教育事業などを行ったいわゆる、コングロマリットです。
満鉄調査部というのは当時最高のシンクタンクで、これの活動は実に興味深い。

満鉄は満洲国ができるまでは最大の権力組織でした。
日本がどうやって生きていこうとしていたのか、満鉄を知るのが一番手っ取り早いとある先輩から言われていますので、そのうち詳しく調べてみようと思います。

中山広場:旧満鉄本社跡(2)
本社の中の見学をしましたが、中は写真撮影が禁止とかで、従って写真はなし。内装などは非常に立派でした。

説明員は非常にい日本語の達者な40才くらいの男性でしたが、最後に旧満鉄所有の様々な美術品、陶磁器などを我々に売りつけようとしたのです。
理由はこの建物を維持するためにお金が必要で協力をして欲しいという。

グループの1名が10万円だったかを払って美術品を買っていました。私はこの”商売”に強い憤りを感じました

中山広場:旧満鉄本社跡(3)
日本の持ち物であったものを平気で”日本人に売りつける”、この日本と日本人を嘗め切った商売は一体何なんだ、私は最初信じられませんでした。

「共産党が中国を支配できたのは日本軍のお陰」、と日中国交正常化の時に毛沢東が田中角栄に言いました。
毛沢東の言った日本軍とは、日本が中国に残した膨大な武器の事を言ったのですが、ここでは日本が残した美術品を日本人に売って小遣い稼ぎをやっている、、、。

何か共通したものを感じるのは私だけなのか、、、。

大連から旅順へ
海岸線を横切る道路を西に向かいます。この風景の手前で中国海軍の空母”遼寧”が係留されているのを一瞬見掛けました。バスの中では何人かの人が「オオ〜」、とうなり声を上げていました。
例のスキージャンプ型の飛行甲板を持つ巨大な艦で、”遼寧”に間違いないと思います。艦首の錨鎖からは大量の赤錆が流れていましたので、長期間航海をしていないようです。

遼寧はマカオがカジノにするという触れ込みで買い付け、日本のマスコミはこのミエミエのウソを「空母ではなく、カジノ船」と中国の代弁をしていたのを思いだします。

通りの風景(1)
今回の旅のコースは大都市近辺の有名どころをばかりを回るコースで一般の街並みを目にする機会が非常に限られていました。
大連から旅順へまでの1時間半が一般道路を走るため、僅かですが普通の街並みを車窓から見る事ができました。

まず中国の一般の家(と思います)は一部の新築の家以外、廃屋なのか、使っているのか一目で見分けができないことです。
そこでバスの中から無作為で写真を撮り、あとで拡大して判別してみました。右の2軒は使用中と判断しました。

通りの風景(2)
ガソリンスタンドも何件か見ましたが、この写真はスタンドエリアの天井の工事中で給油機には全部ビニールが被せてあります。営業はやっていないかと思いきや、電光掲示板が点灯していますので、建物の中のモノ売りはやっている感じです。

左端にかなりキレイな乗用車が停車してあり、従業員は仲にいるのは間違いなさそう、、、。
しかし中は真っ暗、、、。

大体のガソリンスタンドは店内が明るいのですが、これは例外みたいです。

通りの風景(3)
川縁のコンドミアムは拡大していろいろ見てみたのですが、窓のカーテンとかタンスのようなものが確認できるのは1軒のみです。
外観はそれ程痛みもなく新しいのですが、住んでいる人は少ないようです。

もう一つの中層マンションは入居率が高そう、というか100%近くじゃないかと思われます。
写真をちょっと拡大しただけで生活の香りがドッと伝わってきます
屋根にはたくさんのソーラパネルが乗っかっています。

通りの風景(4)
この長屋風の住宅は前に車も停まっているし、窓の下では鎖につながれた犬が仰向けに寝ていますので、住人はいるようです。
問題は2階ですが渡り廊下があって小さな部屋が並んでいます。
使われているようでもあり、空き部屋にも見えます。
判別不可能です。

よく見掛けるのはこういう家の前に結構新しい車が駐めてあることです。何だか家の感じと不釣り合いなのですが、見た限りこの地方では普通みたいです。

通りの風景(5)
バスの中からは人の姿というのを殆ど見掛けないのですが、やっとひとり発見、カメラに収める事に成功。

家の煙突からは煙が上がっており、窓を拡大すると様々な生活の香りが伝わってきます。
なかり大きな家です。周りは廃材のようなものが山積みされており、他の家でもよく見る風景です。

家の外には日焼けしたオジサンが腰を掛けて物思いに耽っています。タバコを吸っているようにも見えます。
どんな仕事している人なのか、、、、。

通りの風景(6)
相変わららずの高層マンション建築ラッシュです。
もう完成間近か、と思いきや各部屋は部屋の枠だけで窓枠も何もありません。

つまり蜂の巣状態の建物が建っているだけなのです。部屋にする予定の箱だけ作ってある、という状態です。
目に入っただけで全部で7〜8棟ありましたが、全部この状態なので、工事はストップしていると見てよさそうです。

大連から旅順に行く間の1時間半のバスの右側だけでこういう工事現場をいくつ見たことでしょう。

東鶏冠山北堡塁(1)
”とうけいかんざんきたほるい”と読み、ロシアが日本からの攻撃防御のために建設した堡塁で、日露戦争の大激戦地です。

日清戦争で日本は勝利し下関条約で遼東半島は日本に割譲されたのですが三国干渉で返還、代わりに清からその見返りにロシアが遼東半島を租借して旅順をロシア艦隊の基地として使用しました。
その時にロシアによって強化された陣地のひとつが東鶏冠山北堡塁です。
つまりロシアが築いた旅順要塞陣地のひとつです。

東鶏冠山北堡塁(2)
日露戦争後は日本も旅順を海軍基地として使いました。このため要塞は引き続き旅順防備要塞として1945年(昭和20年)まで使われ、砲兵部隊も配置されていましたが終戦まで戦闘が行われる事はありませんでした。

その後日本人は入場はできませんでしたが(ソ連人などはOK)、1990年頃から観光地として広く解放されるようになったところです。

ここからは203高知、旅順港も見えるそうですが、天気が悪く何も見えませんでした。

東鶏冠山北堡塁(3)
東鶏冠山北堡塁は約10000uでつまり簡単に言うと100m四方の大きさです。(実際は変則五角形)
堡塁の攻撃は1904年(明治37年)8月21日に開始され、12月18日に占領するまでの4ヶ月間に8000人の日本兵戦死者があったとなっています。

この陣地には何人のロシア兵が守備をしていたのかかわかりませんが、これほどの犠牲者があったとは信じられませんでした。
陣地の東側はなだらかな斜面になっており、日本軍はここを上がって攻撃をした、という事です。

東鶏冠山北堡塁(4)
日露戦争がナゼ起きたのか、1800年頃からのロシア、清(支那)、朝鮮の動きについて調べるとよくわかります。

ロシアの南下政策と日本の国益の衝突、とか訳のわからない説明を学校では習いますが、それはともかく日露戦争後から満州事変、その後日本の敗戦で太平洋戦争が終わります。

問題は日本人は1945年(昭和20年)で世界はリセットされたと思っている点です。リセット・スイッチを入れた(入れられた)のは日本だけ、というのを理解しなくてはなりません。

東鶏冠山北堡塁(5)
東鶏冠山北堡塁攻略の決め手になったのが陣地の爆破です。
それまでも坑道を掘って陣地の爆破を試みていますが、効果は少なく逆に何百人もの日本人が生き埋めになって死んでしまったりしています。
ここの爆破口は2トンの爆薬を仕掛け陣地を吹き飛ばし突入、これが勝利の糸口になったそうです。

説明は中国語、ロシア語、ハングルそれと日本語らしき漢字で書いているつもりなんでしょうが”日軍”という日本語はありませんので、やはり違うのでしょう。

東鶏冠山北堡塁(6)
日露戦争ではロシア軍は機関銃を装備しており、これが日本の戦死傷者を増やした理由だと言われています。
日本も装備はしていましたが、当時の機関銃は攻撃用ではなく陣地防御用の兵器でした。

日露戦争には17カ国から70名以上の観戦武官が来ており、旅順要塞攻撃における機関銃の威力について報告をしましたが母国は信用せず、10年後の第一次世界大戦でその威力を自らが経験する事になりました。
ロシア軍の機関銃はイギリスの”マキシム”製、日本軍はフランスの”ホチキス”製でした。

東鶏冠山北堡塁(7)
東鶏冠山北堡塁記念碑で、大正5年に満州戦績保存会が建てたと書かれていました。

”明治37年8月以来、第11師団の諸隊及び後備歩兵第4旅団の一部隊之れを攻撃し、同年12月8日占領す。
陸軍大将男爵鮫島重雄、碑名を書く”


碑文です。
調べると11師団というのは四国善通寺で兵は四国4県から徴兵、この陣地の前の丘陵には8000人の四国人の命が眠っている事になります。

東鶏冠山北堡塁(8)
要塞の中は石造りの通路で繋がっています。地図を見ると陣地の外側の斜面には幾重にも塹壕が作られており、日本軍はまず塹壕を攻撃突破、徐々にこの要塞に攻め上っていった、という戦いでした。

要塞の中には仮包帯所(救急処置所)、電話室、士官宿舎などの表示がありました。

中国の観光地はどこに行っても説明文は中国語のみで英語の表示を見つけるのは至難の業ですが、ここには僅かですが日本語の説明がありました。

東鶏冠山北堡塁(9)
この陣地の右側がなだらかな斜面の林になっており、ずっと塹壕があったと思われます。

日露戦争というと遙か彼方の歴史の中、というイメージになりますが私が小学生の頃(1960年)、近所に住んでいたお爺さんから旅順の戦いの話しを聞いた事がありますので、そんな大昔の事という感じはありません。

あのお爺さんの親は幕末維新前の産まれ、という事はお爺さんのお爺さんは全くの江戸時代の人間だった、、、。
お爺さんのお爺さんの話は聞いた覚えはありません。

よく飲むな〜
東鶏冠山北堡塁の見学を終え、水師営に来て昼食でレストランに入りました。
隣のテーブルでは地元の7人衆がビールで宴会をっやっていました。
7人のうち飲んでいない人が2人、飲んでいるのは5人、我々が食事を終えてレストランを入った時は1ダースの箱が1個、出る時は3箱になっていました。

つまりその我々の食事時間30分〜40分くらいで1人5本くらい飲んじゃった計算になります。
イヤ〜、すごいピッチでびっくりしちゃいました。

水師営会見所(1)
明治38年1月5日に日本の乃木希典大将とロシアのアナトリー・ステッセル中将が旅順軍港攻防戦の停戦条約を結んだ場所です。
会見は普通の農家の家の中で行われ、今の建物は1996年に復元されたものです。
水師営の意味を調べました。水師とは水軍つまり海軍、営は駐屯地、要するに海軍水兵の兵営の事だそうです。

ここで珍しく日本人のツアーグループに会いました。ここに来るのは日本人だけでしょうね、ロシア人は来ないだろうし、中国人は興味ないだろうし、、、。

水師営会見所(2)
誰でも一度は観た事があるこれは有名な写真です。
日本側6名(事務官を入れると7名)、ロシア側は4名です。主要メンバーは日本側は第3軍司令官乃木大将、参謀長の伊地知少将、ロシア側はステッセル中将と参謀長のレイス少将という顔ぶれです。

参謀長の伊地知少将は日本軍に多大な損害を出した無能参謀であると司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」に書かれていますが、多くの歴史家によると事実は異なるという事です。
「坂の上の雲」を史実と捉える人が多いのですが、あれはあくまで史実に基づいた”小説”である事を肝に命ずべきです。

水師営会見所(3)
小屋の中には旅順攻撃時の写真が多く展示してあります。東鶏冠山北堡塁の攻撃で戦死した日本兵の写真も多くあり、この写真は立っているのが白人で兵隊ではありません。誰が撮ったのか、不明です。

戦死者見ると装備はなく、靴などは全部脱がされ、上着のボタンが外されています。100年前の写真とは言え、見るに忍びないものがあります。
東鶏冠山北堡塁の写真は航空写真なので、1920年以降に撮った思いますが、無数の砲弾の跡が鮮明に残っています。

水師営会見所(4)
日露両将軍が会見した部屋は写真撮影が禁止になっていましたが、誤ってシャッターを押してしまいました。
テーブル(長机)は本物なのか、誰が準備したものなのか疑問はいくつもありましたが、ガイドの説明もなく一切不明。

朝鮮戦争の休戦協定会談は最初は開城で行われ、その時北朝鮮・中国側の椅子は国連軍側より10cm以上高く作ってあり、見下ろすようになっていた、、、というのをナゼか思い出してしまいました。
別の部屋は土産物屋になっていましたが、特に買いたいと思うものはありませんでした。

旧旅順ヤマトホテル
水師営を出て旅順の市内に行き停車。
雨がかなり降っていましたが、旧旅順ヤマトホテルを外から見たのみで再びバスに乗りこみました。

これで今回ヤマトホテルを6カ所で見た事になります。旅順のヤマトホテルは閉鎖中で、一目で老朽化が進んでいるのがわかり、取り壊しの予定とか。
外観は昔の写真とはかなり違ってますので改装をやったのでしょう。共産中国になってからは軍の宿泊施設になっており、中は見る影もおなくなっていた、という記事を見た事があります。

旧旅順駅
ロシアが作った旅順駅で、言われればキノコ屋根はロシアの雰囲気です。日露戦争開戦1年前の1903年開業です

駅の周辺は歴史的な建物などがあるそうですが、軍港の正面なので観光できるのかどうかよくわかりません。

バスは駅と軍港の間を走って行きましたが、軍港には駆逐艦と思われる軍艦が多数停泊していました。
中国の軍艦は日本の海上自衛隊の護衛艦とは違い、明るい灰色で塗装されていました。
人の姿は見えませんでした。

土産屋
このツアーでは土産物屋に寄ったのは最後の大連のみで1回だけでした。ツアーによっては毎日土産物屋によるコースもあるようです。
皆さん買い物をする方は少なかったように思いました。

店員は巧みな日本語と中国人独特の押しの強さで売り込んできます。
私はどこかに行った時は思い出になる小物を1〜2点買う事にしており、今回は小さな猫目石を買って記念としました。
でもこれってホンモノかな〜、安すぎましたから。

旧日本人街(1)
きれいな通りをあるいて行く先が現在も少しだけ昔の建物が残る旧日本人街です。
大連はあちこちに”旧日本人街”というのがあるそうです。そりゃそうでしょう、大連の人口の何分の一かは日本人だったのですから

で、残念ながら我々の行った日本人街はどこにあった日本人街なのか、良く思い出せません。
ただ家並みを見ると恐らく満鉄の幹部社員とかそういう人達が住んでいたのではないかと思います。
ガイドは相変わらず、あまりよく説明をしてくれません。。

旧日本人街(2)
相変わらず中国人の住まいというのは使われているか使われていないのか判別が難しいのですが、殆どの家は現在も使われている感じです。
それなりに修理がされている家、殆ど昔のままではないかという家、様々です。

当時は超モダンな建物だったんだろうな〜、という感じを残している家も何軒か見掛けましたが、旧日本人街は現在急激に姿を消しているそうです。
既に80年とか90年が経った木造建築、無理もありません。

路面電車(3)
ここは数件の家を除いては新しく建てられた家のようでした。もう何年かすれば”日本人街があったところ”というかたちで紹介される場所になるのは確実です。

突如、日本人の女性放浪者が出現、みんなに話しかけてきてびっくり。
出身は埼玉とか言われてましたが、どういう考えで中国を放浪しているのか、そもそも中国で放浪の旅が可能なのか、いろいろ聞いてみたいと思いましたが、ちょっと異様だったので止めておきました。
(1番左は日本語のうまい若い中国人夫婦)

夕食レストラン
ツアー最後の夕食、大連ですから海鮮中華です。結構高級そうなレストランで、ここでもメンバー全員が入れる個室での食事となりました。
行く前にSさん、Tさんに大連の魚介類は”重金属の宝庫”とか中国の沿岸100kmは”死の海”、とか散々聞かされていましたが、ま、今回だけ、という事でツアーメンバー9人と一緒においしく頂きました。

今回のツアーの食事は、1回の日本食を除けば全てOKでした。ま、それも思い出、,,旅というのはしばらく経てば全てがいい思い出に変わっていくのです、、、。

今夜のおかず
レストランの1階はかなり大きな魚介類売り場になっていました。。
ここで自分の食べたいものを注文してそれをレストランの入り口に持っていくと料理をして出してくれる、例のやつです。

材料だけ買って自宅で料理するより楽で、おいしく頂けるのでこのシステムはいいと思います。フィリピンのマニラにいたときもこのシステム、大いに利用させてもらいました。

魚介類は見ている限りは新鮮そうなんですがね、、、。

どうもありがとうございました
食事も終わりメンバー間でワイワイガヤガヤ、、、。添乗員さんもいろいろ気を使ってくれました。さすが日本人でした。
ガイドの周さん、言えばキリがないけど随分前のNYの1日ツアーのガイドに比べれて”花○”あげます。

大連は旅行ガイドなどを見ると見どころは一杯ありそうなので、個人旅行で来てもよさそうです。
時間的な制約が全くなくなった今、大いに旅をするぞ!と新たな決意をした次第でした。

このあとOPツアーで雑伎ショーに行った方もみえました。

日本に帰ります
朝のフライトがETD:0745と早いので、朝食はホテルに弁当を準備してもらってそれを頂きました。
こういうのも悪くはありません。
ホテル(シャングリラ大連)は言うことなし、満点でした。

イエローストーンのパック・ツアーでは昼食はスーパーで弁当・お総菜買ってそれをバスの中で食べる、というのがありましたが時間を有効に使えて非常によかったです。

05:00にバスに乗りこんで空港に向かいました。

大連国際空港
フライトは中国南方航空のCZ619、チェックインも出国手続きも問題なくスムーズでした。

大連国際空港はゆったりとしていて非常にきれいな空港でびっくりでした。これに比べると日本の空港はどこも見劣りしますね。羽田の混雑とあの狭さ、何とかならないんですかね。

中国南方航空はクチコミではどちらかというと良くない方が多いと思うのですが、とにかく安いらしいです。セントレア⇔大連の2時間ちょっと我慢できれば悪くはなさそうです。

空港免税店
いくら中国でもここで売っているブランド品はイミテーションという事はないと思うのですが、、、。
店には誰も入っていませんでした。
私は免税店では時々ウイスキーを買う程度で、あまり縁はありません。
でもウイスキーも大分前から普通の酒屋でも昔に比べるとかなり安くなりましたから、最近は買うことはありません。

いずれにせよ、ご婦人用の高級バッグとか高級化粧品以外は空港免税店の魅力はなくなったと感じるのですが、どうなんですかね。

中国南方航空
私は基本的に乗り物に乗るのが大好きです。
飛行機も離陸してから窓から見える空とか雲、それにたまに見える島とか陸地、これを眺めながらチビチビと液体燃料を頂く
バス旅行では窓の外に流れる風景をボーッと見る、、、、これも旅の楽しみだと思っています。バス旅行に行くと窓のカーテンを閉めて目をつむっている人が多いのですが、一体何のために旅行に来ているのだろうと不思議に思います。

大連からセントレアまでの2時間半、ズーッと空と雲を見てました。自分でも不思議ですね、この習性。

セントレアから自宅まで
11:00頃にセントレアに到着、軽く食事をしてバスで四日市駅に向かいます。バスはいつものとおりガラガラ状態です。このバスに乗るとヤレヤレ無事帰ってきた〜、と一安心です。

最近はスーツケースは他急便で自宅に送ってもらうようにしているので身軽です。
結局自宅に着いたのは15:00を過ぎていました。

満州から帰って思ったのは、亡くなった親父の古いアルバムを開いた時のような雰囲気を感じた事でした。
行ってみて本当によかったと思っています。

旅は終わると全てが思い出になります。旅では楽しかったこと、そうではなかった事、いろいろある訳ですが、しばらく経つと全部いい思い出になるのです。不思議です。

中国の旅の特徴はどこに行っても”暖か味”を殆ど感じない点です。みんな顔が引きつっている感じ、何かを頼んでもいわゆる”つっけんどん”、という感じがします。
もちろんもっともっと中国を訪れ、様々な経験をしないと断定するのは早いのはわかっていますが。


今回のツアーメンバーはそれぞれ目的というか、何かの背景というか、そういうものを持っていた引っ立ちばかりだったように思います。もっともどこかに旅をするというのは、多かれ少なかれそういうものがあるのかも知れませんが。

満州の旅は仕事を辞めてから歴史の研究を趣味にしている私にとっては大変刺激的で有意義でした。機会があれば今度はもっと奥の満州里、ハイラルなどの奥地に行ってみたいと思います。

今回の旧満州の旅、ダラダラとホームページ作ったら写真450枚、解説350になってしまいました。もうちょっと工夫しないと。ま、いい記録にはなりましたが、、、。