ベトナム駆け足の旅(1):2023/09/05〜2023/09/11
ベトナムは過去にホーチミン(サイゴン)に行った事があります。
活気に溢れた街、昼も夜も歩いてブラブラ回れる街、暖かい感じのする人達etcで何となく親しみが記憶にあり、また行ってみたい国の一つでした。
今回は南北5つの都市を6日間で駆け抜けるという少々無理に思えるスケジュールのグループツアー、これに参加してみました。

知人からは、それぞれの所はじっくり味わって訪れるのがいいのではないか、というアドバイスが多くありました。
しかし知らないところは最初から長期で行くのではなく、「まずは大まかに見て回って、気に入ったと感じたなら再度行ってみる」、というのがボクのやり方です。

ツアーはさすが旅行会社のプロが練って考えた中身、結構中身の濃いツアーを楽しむことができました。
そんなツアーについて、感想を簡単なコメントで記録に残します。

セントレア空港
出発当日の朝に自宅を出ても間に合う集合時間ですが、朝からバタバタするのはイヤなので、空港ホテルに前泊です。今回はロビーから出発カウンターまで2〜3分の便利なホテルを予約しました。

夕食は空港レストラン街にある、”まるは食堂”でエビの天ぷらと刺身のコンビネーションの定食。
ボクは明日からの旅の安全を祈願して、麦ジュース( ビール)と米の汁(日本酒)を少々頂きました。

空港は閑散としていました。

ベトナム航空
セントレアからハノイまで、ベトナム航空で約6時間、ビジネス・シートで行ったのですが、ズバリ3世代前のタイプ。(機材はA321)
今回はベトナムの国内線にも2回乗ったのですが、これと同じシートでした。

ベトナム航空の以前のPRでは、セントレア・ベトナム各都市間は最新機材を導入となっているのですが、コロナ下で機材のグレードダウンをしたのでしょうか。

食事は普通のレベルでした。

ハノイ着陸前
ハノイ空港着陸のために機は高度を下げていきます。窓からは農地、家々、それに大きな工場群が見えます。

大工業団地が見えたので、その中からいくつかの工場を機内から撮影、写真を拡大してみるといずれも未稼働の様子。新設の工場のようです。

ベトナムは人材の確保、部品調達、政府のいい加減さ、その他で各国(台湾・韓国・日本)とも進出した会社の幾つかは苦戦中と聞いています。

ベトナム入国
入国審査も荷物受け取りもスムーズに終わり、到着ロビーでツアーガイドのフイさんと落ち合います。

ベトナム通貨は1ドン=0.006円という事で計算に戸惑うのですが、1円=160ドン、500円=8万ドンを頭にたたき込んでの旅行です。

空港には何と”POPEYES LOUISIANA KITCHEN”の店、ヘーッ、という感じです。
日本ではあまり知られていませんが、アメリカではKFCより人気がある感じでした。

何でカーテン閉めるの?
今回のツアーメンバーは11名(男5名、女6名)で私たち以外は全員名古屋とその近郊の方々。

メンバーが集まったところで専用バスに乗り込み、約3時間半をかけてハロン湾に向かいます。
日本人はバスに乗るとカーテンを閉め切り、日差しを避けようとします。そして寝ます。

私はこれが非常に不満で、私の席だけはカーテン全開です。バスで移動の醍醐味は、車窓から様々な風景を見ることですからね。

ハノイ近郊の商店街
ボクは外国に行くとその国の人がどんな暮らしをしているのか、可能な限りこの目で見ようとします。

またツアーのガイドも、
生活とか日本との違いなどについてについていろいろと話をしてくれます。
でも興味を示す人はあまりいません。

ベトナムの家は
間口が狭く、奥行きが非常に長く3階建て以上が多い、というのが特徴だと聞いていたのですが、都市部はそのとおりでした。

集合住宅
空港を出て2〜30分もすると、集合住宅がチラホラ見られます。これらはちょっとした勤め人の年収の20倍から30倍くらいだそうです。

年収80万円と言えば、かなりいい職業(特に公務員)とポジションに就いている人と言えるそうで、つまり2000万円程度、という価格です。
ただ最近は高値を掴まされて購入、その後暴落で泣いている人が多いとガイドは言ってました。

原因は財閥による土地転しだ!と言ってました。

ハロン湾のホテル
夕方遅くハロン湾に着き、食事。
夕食はフォー、という事で簡単かと思っていたら、フォーは一部で、”フォー”のフルコースでした。

ホテルは”サイゴン・ハロン・ホテル”というなかなか良いホテル、部屋は広く清潔で、文句なしでした。

今回のツアーではオプションで、ホテルを5泊分で2万5千円でグレードアップしてあり、これは正解でした。
他のメンバーからは「やっておけばよかった〜。」、という声がしきりでした。

ホテルからの眺め
バスからの風景でホテル周囲の雰囲気は何となくわかったのですが、部屋からの眺めで少々びっくり。思ったより広い地域に多くの施設。
湾の方はベトナム最大と言われるテーマパークもあり、そこのライトが空を照らしています。

朝起きて外を見て再度びっくり。ホテルなどの建物が延々と連なっています。
しかし車や人影が殆ど見えません。観光客はコロナ前の20%くらいしか戻っていないそうです。

ハロン湾クルーズ(1)
翌朝は早速ハロン湾クルーズ。クルーズ船乗り場の「ハロン国際港」までバスで5分。

ここには大小500隻のクルーズ船があるそうで、出港時も帰港時も港は船で埋まっており、やはり稼働している船は非常に少ない感じです。

観光客の3分の1が白人、3分の2がアジア系といった感じでしょうか。
日本人は、10人程の同年代のグループをひとつ見掛けたのみでした。

ハロン湾クルーズ(2)
クルーズ船は貸し切りなのでゆったりとしています。
コースは3時間と5時間があるようで、我々は鍾乳洞の見学、船内での食事も含めて3時間弱のコース。

出港するとすぐに例の有名な”奇岩”が見えます。空に雲はないのですが、霞がかかったような天気。

ガイドはさかんに「今日は天気が良くて、よかったです!」と言います。これは前日までは”時々小雨”、という予報だったので、それに対しての事を言っていたのでしょう。

ハロン湾クルーズ(3)
波止場を出て20分くらいでティエンクン洞窟(”天空”の意味)に到着です。
ここはクルーズで立ち寄る、一番ポピュラーな鍾乳洞です。

規模は大きくありませんので、秋芳洞とかと比較してはいけません。
この日はよかったのですが、中はうんと狭いので観光客が増えたらどうなるんだろう?という感じです。

しかし素人の鍾乳洞写真は、後で見ると典型的”ガッカリ写真”なんですね。

ハロン湾クルーズ(4)
ハロン湾の奇岩はどうやってできたのか、海中にあった石灰岩の台地が隆起して風雨・海水によって削られて残ったもの、という事らしいです。

ボクはそれまではハロン湾の奇岩も、アメリカ西部にあるあの巨大な奇岩(モニュメントバレーのような)と同じように溶岩(マグマ)が地下から上がってきて、周りの岩石が風雨で削られて塔になった、と思っていました。

今回、近くで岩肌を見ると、無数の縦縞が見えたので、これってやっぱり溶岩じゃないの、とか思って再度調べたら、何を読んでも「泥岩、石灰岩である」とあります。

最後にはムキになってChatGPTに聞いてみたら、見事な説明でボクの思い込みの溶岩説を粉砕
「石灰岩の隆起」です、と。

おまけにモニュメントバレーも溶岩ではなく「砂岩」が風食と水食であのような形になった、という事まで教えてくれ、ボクの持っていた知識は全て「完璧な間違い」であった、という事も判明した次第でした。

ハロン湾クルーズ(5)
クルーズ船は何隻も見えます。洞窟見学以外の奇岩への上陸地点もあるようで、簡単な艀が設置されているのも見えました。

それぞれのクルーズ船には多くても12〜3人くらいしか乗っていません。
料金体系をチケット売り場で見たら、小さな船だと8人分で3時間貸し切りができる金額でした。

また観光客の払うクルーズ船料金の60%は、ハロン湾エリア入場料金(政府が召し上げるお金)でした。

ハロン湾クルーズ(6)
視界もよくなって湾内も本当にきれいに見えます。
モノ売りの小さな船が寄せてきて、南国のフルーツを売りにきました。

傘(ノンラーと言うそうです)を被っているのは老人で、その横に子どもがいます。船の屋根の下にはもう一人、船頭がいるのでしょうが見えませんでした。

日本人観光客の特徴として、こういう物売りからフルーツなどを買うことはあまりしないですね。何でですかね。

ハロン湾クルーズ(7)
コースの折り返し地点辺りから船内で食事を頂きます。
普通のベトナム料理で、食べやすかったです。
ベトナム料理は北部・中部・南部で調理方法、味付けが違うそうです。

「南の料理は甘い、だからデブが多い。」、ガイドのフイさんに言わせるとこうなります。
フイさんはなかなか愛嬌のあるガイドで、日本語はベトナムの大学で覚えたそうです。
この前ベトナム人旅行者の添乗員で東京に行った、と言ってました。

ハロン湾クルーズ(8)
ハロン湾はこんなに多くのホテルなどが立ち並ぶ観光地だとは思いませんでした。
せいぜい鄙びた漁村程度、、、大間違いでした。

すれ違った白人の観光客にどこから来たのか聞いたところ「オランダから」という返事でした。
しかしこのホテル群、客で一杯になる事はあるのか?他人事ながらちょっと心配になったり、、、。

ハロン湾、噂どおり、来る価値はあるところです。

ハロン湾からハノイへ、3時間半のバスの車窓
昨日と同じ道を使ってハノイに戻ります。
途中はのどかな田舎風景が続きます。水田あり、バナナ畑あり、時々水牛が見えたりします。

「米はいくらでも獲れます、安くて農民はずっ〜と豊作貧乏です。」とフイさんは言ってました。北部は2期作で、南部に行くとこれが3期作です。
米は連作ができる唯一と言っていい穀物で、小麦、とうもろこし、ジャガイモなどは基本的に連作不適です。(最近ボクは気候・食糧問題の書籍を漁り、俄知識が豊富です。)

タンロン遺跡(1)
11世紀から19世紀初頭までベトナムの諸王朝がここに都を置き、最近公開された史跡です。ハノイのど真ん中にあります。
各時代の異なる建築物などが三次元で入り交じっています。
これは時代で支配民族が大きく変わっているという、日本などとは違う、ベトナムの歴史を知る必要があります。

受付から端門までの間は上に提灯があり、左右の庭は西洋風のいわゆる”ガーデン”の造りになっており、これは最後にデザインされた(フランス支配下によって)様式の復元と思われます。

タンロン遺跡(2)
遺跡発掘は2002年頃から始まり、2010年にユネスコ世界遺産になったそうです。
発掘の難しさはやはり各王朝、時代の異なる建造物などが折り重なっている点で、一番深いところには中国支配時代の遺跡があったりしたそうです。

遺跡の発掘には奈良女子大の上野邦一先生という人が多大な貢献をしています。
この方は古代寺院・建造物の発掘調査・研究の世界的に有名な方との事です。

タンロン遺跡(3)
1880年代(明治初期)にベトナムはフランスに侵略され、植民地になったわけですが、それまでの古い時代の各王朝時代の生活・文化などの資料、説明展示が多くあります。

ツアーで時間が取れないのと、こういう所は予備知識がある程度ないと、やはり「猫に小判」状態になってしまいます。
この城にフランス軍は容赦なく砲撃をしており、その時に破壊された城壁はそのまま残されています。

フランスは幕末に徳川幕府に接近、イギリスと日本植民地化の駆け引きを行っていたのは知っておくべきでしょう。

タンロン遺跡(4)
地下にはベトナム戦争当時の、北ベトナム軍司令部の一部があり、その関係の展示が詳しくあります。

ベトナムは大東亜戦争後にフランスと戦い独立を得ますが、南部には別な勢力があって、今度は内戦。
そして北はソ連・中国の支援を受け、南はアメリカの支援を受け、大々的な戦争になったのがベトナム戦争です。

展示には、北ベトナム軍はいかに南ベトナム(アメリカ軍)と戦って勝利したか、延々と説明がありました。

タンロン遺跡(5)
地下には作戦会議室、北ベトナム軍の使った兵器・装備などが展示されています。
応急医療セットは中国製、通信機材はソ連製、北ベトナムが20年間も戦いを続けられたのは、2国からの強力な軍事援助によります。
この補給ルートを断ち切ろうとアメリカは空爆を続行しましたが、成功しませんでした。会議室には補給ルートを示す地図が貼ってありました。

尚、短波ラジオはオランダ製(フィリップス製)で、民生品も活用していた、という事ですね。

タンロン遺跡(6)
タンロン遺跡はハノイ観光の必須の場所と、あらゆる観光案内に書かれています。しかしベトナムの基本的な歴史の知識がないと建造物とか、偉人の説明を聞いたり見たりしても、殆ど意味をなしません。

15世紀の中国からの独立、19世紀後半のフランスによる植民地支配、1940年前後の日本との関係、1950年代のフランスからの独立、1970年代の南北統一という5つの節目と、流れの把握・理解が必要です。
日本はベトナムのフランスからの独立(戦争)、それにベトナム戦争後の経済的発展に大きく寄与しています。

タンロン遺跡(7)
ここの各種展示を見て思うのは改めて「ベトナムは完全な漢字文化圏」であったことです。

漢字はフランスの植民地化によって強制廃止(捨てさせられた)、ベトナム語をアルファベット表示した「クオック・グー」という文字を使わせ、これが今のベトナムの文字です。今では漢字を読める人は皆無だそうです。

日本で例えれば、漢字、仮名を全部捨てて、ローマ字の表音文字だけになった、という事です。これはその国の歴史・文化・技術・文明の分断・破壊です。

アオザイ
見学を終えてバスに乗ろうとしたら、アオザイの美女軍団、同じ色のアオザイなので何かの催しなのか、向こうでは盛んに写真などを撮影していました。

ちょと近寄って、「ところでユー達はどういうグループなのか?」とか聞きたかったのですが、グループツアーの悲しさ、1枚だけ写真を撮らせて頂いて、急いでバスに乗り込まざるを得ませんでした。

”元”乙女、という方達ではありましたが、やはりアオザイの女性はいいですね。

国会議事堂
ホーチミン廊と道路を挟んで建っています。
ホーチミン廊は中には入れず、高飛車な警備の兵隊が来ている観光客に対して、注意しまくっていました。
座って写真を撮るな!、やたらと水を飲むな!、ギャギャー騒ぐな!etc。

ホーチミン廊の中には、ホーチミンの遺体がそのままガラスケースに入っているそうです。
そう言えば北朝鮮の金正日も冷凍保存されており、維持費に年間1億円以上が必要と聞いています。

ハノイ市内(1)
ハノイは大都市で観光・名所も一杯あります。
その中でもホアンキエム湖の北にある旧市街は歩いていても楽しい雰囲気一杯です。
ここにいるとやはり「都会」を感じます。

こういう都市部の市民の平均的な年収は日本円で50万円〜80万円相当(地方の2〜3倍)一般的な物価は日本の7分の1以下、というのが目安です。

そんな中でホンダのバイクは日本円で1台25万円程度なので、どういう買い物か、わかるというものです。

ハノイ市内(2)
市の中心にあるホアンキエム湖です。
湖周辺は遊歩道になっており、外周は約2km、夕方という事もあって多くの観光客、市民を見掛けました。

「この湖の周辺はジョギングをする人も多いですよ〜。」、とガイドが言ったら、丁度女性のジョガーが走っていきました。

ハノイは人口900万人(ベトナムは人口1億人)、12月から2月頃は日中でも20℃ちょっとで雨も少なく、過ごしやすそうなところに思えました。

夕食(フランス料理)
ベトナムは元フランスの植民地、よってハノイには本格的ないいフランス料理のレストランがあります。マニラにいいスペイン料理のレストランがあるのと同じですね。

ベトナムはフランスの影響で、パンもおいしいとか言われますが、ボクは世界中のあちこちでパンを囓った経験から、日本のパンが一番旨いです。
日本以外の国でのパンは完全な食事の一部(主食)、日本のパンはスイーツのジャンルに入るモノが多い、ここを認識しないと比較は要注意ですね。

元ホテル・ニッコー・ハノイ
何年か前にホテル・デュパルク・ハノイに変わっています。
雰囲気とか客室はホテルニッコーのままです。

ホテルニッコーは今までメキシコシティー、サンフランシスコ、香港、台北、お台場、成田、サイゴンなどに泊まっていますが、さすが外れはありませんでした。

でもそれぞれ微妙な違いがあります。部屋の細かい部分の清掃状況とか、設備のメンテナンス状態とか、、、。

朝食レストラン
一般的なバフェ形式で、普通の和食メニューは全部揃ってました。大変美味しかったです。
宿泊客の多くは日本人の出張者と思われる人達で、一瞬ハノイにいるのを忘れるような、日本語の会話があちこちから聞こえていました。

ハノイ周辺には日系企業も多く、ボクのいた会社も巨大な工場が4つあり、部品メーカーも多く進出しているので、朝飯を食べてる連中の中に関係する人がいたかも、、、と思うくらい、日本人御用達のホテルでした。

ハノイからダナンまで
この日は朝一で空路ハノイからダナンです。お世話になったガイドのフイさんとも空港でお別れです。

アジアの空港ではボーディングブリッジを使って乗客が飛行機の乗り降りをするより、バスによってゲートと飛行機の駐機スポット間を往き来するのが多いです。

バスはビジネスクラスとそれ以外を分けて輸送します。
バンコックのスワンナプーム国際空港のような、入国も専用レーンがハノイにあるのかと思っていたのですが、これはありませんでした。

ダナン着
空港からダナンの市内に向かい、まずランチです。
この頃になるとメンバー間も打ち解けてそれぞれいろいろと話をするようになります。

今回は4名の方が名古屋市が主催する、「高齢者何とか大学」の級友4人組(男女2名ずつ)、夫婦2組、女性2人組、男性1人という11名。男性の1名は30代で残り全員60代〜70代。

級友4人組は毎日部屋で夜中まで酒盛りをしているとの事。とにかく皆さんお元気でした。

ダナンの路上のフルーツ売り
街中を歩いていると至る所でフルーツ売りに出会います。
マンゴスチン、ドラゴンフルーツ、ドリアン、マンゴー、ライチ、ココナッツジュース、どれも本当においしそうです。

東南アジアでは水などには細心の注意が必要なのですが、こういうフルーツも実は結構危険なのです。フルーツ自体は大丈夫なんですが、これを切るナイフとか包丁が問題。

これで切るったフルーツでお腹をやられた、という事例はボクはいくらでも知っています。
というかボクもフィリピンでやられました。

ダナン大聖堂
1924(大正13)年に完成したカトリック教会です。教会内部にはミサ以外は入れず、ミサで入っても観光は禁止だそうです。
ベトナムでも異教徒間の結婚はいろいろとあるようです。

ちなみにベトナムでは、ある条件下でベトナム人女性と韓国人男性との結婚は法律で禁じられています。
理由は韓国人男性のDVによって、多くのベトナム人女性が犠牲になっているからです。
フィリピン、カンボジアも韓国人男性との結婚は注意喚起の対象です。

ダナン大聖堂前の韓国人観光客
今回の旅行中どこに行っても多くの韓国人に出会いました。
現時点ではまだ中国大陸からの観光客がほとんどいないため、彼らが一番多いと思われます。

ベトナム国内で観光ガイドをするには「ベトナム人国籍で、かつ政府の許可が必要」です。
しかし韓国人ツアーのガイドは韓国から来たガイドで、許可もクソもなく好き勝手にやっている、と私たちのガイドが憤慨していました。

彼らの大声とマナーには辟易とします。

ドラゴンブリッジ
ハン川に架かる長さ666mの橋です。6車線の橋で竜の頭は東を向いています。

橋の袂には「鯉が急流を登って龍に変身する」という中国の故事「登竜門」に由来した「鯉の登竜像」があります。
最初見た時、一瞬「あれ?シンガポールのマーライオンの弟か?」と思ったのですが、よく見ると龍ちゃんで、ライオンちゃんではありませんでした。

この龍もちゃんと水、そして何と火も吐くそうです。水を吐くところは翌日の帰りバスの中から見ました。

ホイアンに到着
ダナンから約1時間でホイアンに到着です。ここは2世紀の昔から栄えたところで、特に15世紀から19世紀にかけて(日本の戦国時代〜明治)はアジアとヨーロッパの交易の中心地として栄えたところです。

16世紀〜17世紀(安土桃山時代〜江戸初期)にはタイのアユタヤ、フィリピンのマニラとともに日本人町が造られており、最盛時には1000人の日本人がいたそうです。
御朱印船でかつて日本人がここまで来て、そして住んでいた、、、これを聞くと、ベトナムがエラく身近な国に思えてきたりします。

ホイアン旧市内観光開始
ダナンで今回2人目のガイドの”アン”さんと合流、まだ30代の若々しい方で、まずそれぞれのホテルに荷物を預け、観光開始です。

ホテルから旧市内まで歩いて20分ほど、結構な距離があります。気温は32〜3℃、湿気もあり全身汗だくです。
旧市内の観光エリアに入ると土産物屋などの店がずっと続きます。
日本人町がなくなった後には中国人が多く移り住んだため、建物や街並みは中国の色合いが濃く残っています。

ホイアン民族・文化博物館
"Folklore"、ボクの知らない単語です。慌ててスマホで調べると「民族、伝承」とあります。
「ホイアン民族、文化博物館」、くらいの意味ですかね。

ホイアンの昔の(と言うか伝統的な)暮らしについて様々な展示や説明があります。
こういうツアーではサーッと通り過ぎるだけなので、説明を読むヒマがないのは仕方ないのですが、ボクにとっては大いにストレスの溜まるところです。
農具、漁具などは万国共通な部分があるので、よくわかりますね。

路上の掛け軸絵売り
ベトナムの絵は中国の水墨画の血を強く引いています。
ボクはベトナムの僅かに色の入った水墨画が非常に気に入っていて、この日も路上でこれを見つけました。

1枚買おうかどうか立ち止まって迷っていると「早く早く、遅れますよ」という声で、結局買いそびれてしまいました。
こういう自由がきかないのがグループツアーの宿命、仕方ないですね。
ベトナムの伝統画には”漆絵”もあり、ある程度以上の大きさの絵は大変高価です。

日本人橋(来遠橋)
1693年に造られた屋根付きの橋で、2万ドン札にも印刷されている、ベトナムの観光名所のひとつです。

「当時ホイアンに住む日本人によって架けられた橋」という事で、非常に頑丈に造られています。
この橋の右側の街が日本人街、左側が中国人街で2つの街を橋は結んでいたと説明がありました。

残念ながら修復工事中で、ガラス越しにしか見ることができませんでした。
工事には日本人技術者が来て指導をしているそうです。

貿易陶磁博物館
ホイアンの観光エリアにはいくつもの博物館があり、これもその一つです。
栄えた頃の貿易船の模型、その他当時の様子を描いた絵巻、それに有田焼の陶磁器の展示がありました。

この「博物館の建物自体が、1995年に日本の手によって復元された」そうです。

建物の中の文字は当然の事ながら全て漢字で、いずれも立派な楷書でした。

通りはかなりの観光客
いくつもの博物館などを回ったのですが、あまりに多くてボクも記憶と記録と写真がイマイチ一致しません。
短い限られた時間内とは言え、これだけの場所を訪問するのがいいものなのか、ちょっと疑問。

「フーフンの家」という200年前に漢方薬を扱った貿易商人の家も訪れたのですが、後で少し調べると見どころは一杯あったようでした。
でもあの短い時間じゃ無理、でしたね。
もう一度来るしかないですね、ここは。

ホイアン博物館
これも19世紀頃なのか、その頃の暮らしの様子を一部模型などで展示してありました。
算盤とか秤は当時の実物だと思いますが、日本に比べて造りは荒いと感じました。

食事は魚と野菜、それにエビがどっさり入った汁物があり、このレベルが常食だったとすれば栄養満点だったじゃないか〜、と妙に感心したり、、、。

貿易で栄えた街ホイアン、ここの人達は海の幸・山の幸にも恵まれていたようです、、、。

福建会館
会館というのは華僑・華人の集会所の事で、今も実際に使われているそうです。

福建会館ですから福建省出身の人達が集まるところで、様々な神様、そして17世紀に福建省からやってきた家族の家長の像などが祀ってありました。
言ってみれば、集会所兼寺院というところでしょうか。

ベトナムは昔から中国を宗主国とした多くの中国人が住み、それが現在も続き、ベトナムの経済を握っている、こういう事のようです。

灯籠流し
食事の後、旧市街を流れるトウボン川で全員で「灯籠流し」をしました。
灯籠流しは「死者を弔う」という意味で、死者とは誰かという事になるわけですが、ガイドのアンさんは「ベトナム戦争で多くの人が犠牲になりました。これらの人の死に対して、、、。」と言いました。

ボクはそこまで考える事ができず、「おお!キレイだね〜、幻想的で。」とか脳天気に言っていたのですが、アンさんの言葉を聞いて意味を再度考え直した次第でした。

ホイアン・ナイトマーケット(1)
提灯の迫力は、ベトナムも本場台湾などに、負けてはいません。「どや!」、というくらいにあちこち「提灯だらけ」であります。

この提灯ですが中国提灯と日本提灯の違いは何か?
提灯は中国から伝わってきましたが、中国提灯は縦に竹ひごが入っており折りたたみ不可、折りたたみができるのが日本提灯であります。

これから行くと、ホイアンの提灯は全部支那提灯でした。
当たり前か〜。

ホイアン・ナイトマーケット(2)
ナイトマーケットには様々なお土産、それにフルーツ、その他B級グルメが満載です。見ているだけでも楽しいです。

イカ焼きとか各種串焼きなども一杯あるのですが、肝心のビールが見当たりません。
ボクの場合、ビールなしでこういうものを頂くのは、逆にストレスが溜まるので、一瞬手が伸びたのですが、やめておきました。

通りの横には感じのいいオープン・レストランもありましたので、ここに入ればビールはありそうでした。

トウボン川の手こぎボート
ボートで川に出て、そこから夜景を眺めるのも人気があり、たくさんのボートが出ていました。

この日は朝から結構な歩行数で、ホテルに帰って見たら”1万8千歩”でした。
でもメンバーの誰も疲れた、、、とは言いません。

ただ4人組のオジサン・オバサンは今夜も早々から酒盛り開始なんでしょうか、先にホテルに帰ったようでした。

盛りだくさんの1日でした。

ここまでの観光で2人のベトナム人のガイドのお世話になったのですが、2人ともいろいろな説明の中で北と南の違いについての話が割と頻繁にありました。例えば;

・言葉:発音の違い、方言、言葉そのものの違い。
・料理の味付:北部は薄味、南部は甘味
・人の気質:北は真面目・クール・明日のことを考えて行動、南は大ざっぱ・明るい・今日のことだけを考えて行動
嫁:北の女は厳しい、南の女は優しい

ガイドさんはこれらについて、面白おかしく話をしてくれた訳ですが、南北間には結構わだかまりもある感じでした。
ベトナム旅行の後半は別ページで記録を残します。