ベトナム駆け足の旅(2):2023/09/05〜2023/09/11
外国について、それぞれの国と人について、ボクらは多少なりの知識はあると思います。その知識は、実際にその国に行くことによって目で見て、接して、感じたりすればより具体的になります。
そういう事を経験して、日本とはどういう国なのか、日本人とは一体何なのか、こういった事を考えるのが実はボクの旅行の目的のひとつ、というか趣味のひとつなのです。

その国を知るには、やはりその国と人がどんな道を歩んできたか、これがポイントである、つまり歴史を知ること、ボクの持論です。
外国へのツアーの中身の大半は、その国の名所・旧跡の訪問で、これはその国の「歴史」を訪れている、と同義語です。今回のベトナムツアーも結局は、その中身の殆どは「ベトナムの歴史探訪」でした。

グループツアーはこれら歴史のスポットを実に効率よく回ってくれます。そしてその充実度は一緒に行ってくれるガイドによって大きく違ってきます。今回のツアーは北部・中部・南部で3人のガイドが入れ替わりました。ボクの過去の経験から3人とも○、又は◎でした。
これはかなりラッキーだったと言えます。

そんなベトナムの旅、後半のフエからサイゴン(ホーチミン)のスナップショットとボクの感想です。

ホイアンの朝
ホテルは郊外の住宅地の中にあり、窓を開けるときれいな家並み、そして遠くには山々が見えます。地方都市のこざっぱりした雰囲気を感じる事ができます。

遠くにはホテル、コンドミアム、一般の家々、手前の木の横では畑にホースで水を撒いている男性の姿が見えたりして、実に穏やかな風景です。

今回の旅はずっと天気が良く、スコールも一度しかありませんでした。これはラッキーでした。スコールになると1時間は、外なんか歩けなくなりますからね。

朝食
ホテルの朝食はどこも大体6時からですが、ここは6時半でした。ホテル出発が7時15分なので、スーツケースを持っての朝食でした。
朝食メニューはなかなか良かったのですが、慌てて食べたので味わうまでには至らず。でもコーヒーは旨かった。
食事を終える頃は他の宿泊客もかなり来ており、韓国人が目立ちました。

ホテルグレードアップ組は我々ともう一組の夫婦の計4人、この方たちは春日井からお見えで、ご主人は定年リタイア、マレーシア駐在の経験があると仰ってました。

フエに向かいます
バスは我々のホテルからもう一つのホテルを回って11名全員を乗せてフエに向かいます。

フエまでは160km、3時間半。トウポン川に沿って走っていくと朝市が見えます。
時間は8時前、朝市は3時前から始まるそうで、窓から見える朝市は殆ど店じまいでした。

観光ではあちこちの「市場」と称するところに行くわけですが、半分くらいは観光客目当ての市場、ボクはベトナム人の生活のための本当の市場に行きたい、、、。

お土産屋
ツアーによっては土産屋に毎日訪れる、というのもあるようですが、今回のツアーでは全部で2カ所、それぞれ40分程度でした。
いずれも店員の何人かは日本語がしゃべれ、店には日本人が好みそうな土産が並んでいます。

行くと結局は皆さん、何かしら買うのですね。ドライフルーツなどをどっさり買う人も何人かみえました。帰ったらみんなに配ってベトナムの話をするのでしょうね、きっと。

運転手と、補助員の2人も熱心にブレスレットなどを見ていました。1個で彼らの日当以上だと思います。

田舎風景
こざっぱりした家で、割と余裕のある家かな?BSアンテナもセットしてあるし、、、とか車窓から見える家々を見て想像をするのもボクの旅行の楽しみです。

学校も時々見え、一様に立派な建物です。この日は土曜日なので門は閉まって生徒の姿は見えませんでした。

一般の家は、国旗を掲げている家が結構あります。日本では今や正月でさえ、国旗を掲げる家は殆ど見ないですね。
日本では子どもの多くは、国旗はオリンピックで入賞した時に揚がる旗、という認識だそうです。日教組の成果です。

港?養殖場?
川の河口付近で見掛けた港(?)です。バスの窓からの風景なので、詳しい事がすぐにはわかりません。

このような時、ボクは
写真を撮って拡大してサッと眺める事にしているのですが、船には動力(エンジンなど)がありません。それに漁具も見当たりません。
漁をする船には見えません。

ところが船の横には生け簀のようなものが見えます。養殖場なのか?すると船に動力がないのも納得、、、、。
こんな具合です。

フエ(グエン朝王宮:1)
ベトナム最後の王朝、グエン朝(1802年〜1945年)の都がおかれたところがフエです。
大東亜戦争では、大陸の蒋介石へのアメリカからの軍事物資支援ルートとして、フランスは植民地であったベトナムルートを使わせていました。
日本は再三フランスにこれの廃止について話し合いを申し込んだのですが、フランスは話し合いを拒否、日本はついにフランス現地軍を武力制圧。

そこで時のグエン王朝13代目皇帝がフランスからの独立を宣言。これが1945年3月。

フエ(グエン朝王宮:2)
ところがその半年後に日本は連合国に降伏、直ちにベトナムは地下に潜っていた社会主義勢力によって革命、13代目は退位させられ、グエン王朝は終わってしまった、、、。

フランスは一応戦勝国で、再度ベトナムを植民地化するために戻ってきたのですが、ベトナムは戦いでフランス軍を破って1953年に独立を勝ち取った、、、。

これらの中心人物が筋金入りの共産主義・革命家のホーチミン。従ってこの人はベトナム建国の父で、神様みたいなもの、いやそれ以上かも、この国では。

フエ(グエン朝王宮:3)
王宮入り口の王宮門の前で、王宮衣装を着たべっぴんさんからカミさんが声を掛けられました。

「日本人ですか?」
「はいそうです。ところで、日本語が上手ですね。」
「私は日本の愛知県と三重県で6年間働いていました。」
「エーッ!私たちは三重県から。三重県のどこで?」
「鈴鹿市の介護施設です。」
「エーッ!!私たちは鈴鹿から来ました。」


ビックリなんてものじゃありませんでした。

フエ(グエン朝王宮:4)
王宮は一辺が約600m、高さ約6mの矩形の城壁に囲まれており、その外側には壕があります。

壕を渡って王宮門を抜けると大きな池があります。
池の中には立派な鯉が泳いでいます。水温は恐らく30℃以上、鯉は半分煮えているんじゃないか、と可愛そうに思えるくらいなのですが、皆さん元気に動き回っています。

王宮門は紫禁城の午門を模しているそうです。午門、つまり南門、そのとおり王宮の南に位置しています。

フエ(グエン朝王宮:5)
ここの各種の建物などは、殆ど中国の紫禁城を模して作られているそうです。ボクは紫禁城には少しだけ入った事があるのですが、殆ど忘れてしまいましたので「そうですか。」で終わってしまいました。

各建物などは回廊で結ばれています。こういう廊下を見るとボクはナゼか映画「砲艦サンパブロ」の最後のシーンで、スティーブ・マックイーンが殺されるところを思い出してしまいます。
王宮内は人影も少なく静かでした。ブラリゆっくりと回るには、確実に半日以上は必要なところですね、ここも。

フエ(グエン朝王宮:6)
太平楼、皇帝が休憩や読書をするところだったそうです。
1919年〜1921年に建てられたと言いますから、それほど古い建物ではなさそうです。

この王宮はベトナム戦争の1968年1月の北ベトナム軍とベトコンによるテト攻勢で大きく破壊され、その後再建されたものが多くあります。

どれがオリジナルで、どれが再建なのかよくわからないのですが、この太平楼は2015年に再建されたとガイドのアンさんは言ってました。

フエ(グエン朝王宮:7)
太平楼に行く途中の回廊の横に、巨大な盆栽が幾鉢もありました。
日本の盆栽は平安時代に唐から入ってきたそうで、盆栽がここにあっても不思議ではないですね。盆栽は鉢の上に草木を栽培してその景観を再現する、という趣ですね。

アメリカにいたとき職場で社員の一人が、盆栽を自分のデスクの上に置いていたので、「これって日本では老人の趣味だよ。」と言ったら翌日にはデスク上から消えていました。
今でも、余計な事言ったな〜、と反省しています。

フエ(グエン朝王宮:8)
王宮内は大変広く、歩くだけでも大変です。また説明書きは英語が少なく、外国人にはちょっと辛いところです。

ここに皇帝がいたのは日本の江戸時代後期から明治、大正、昭和という時代です。
ここは皇帝の住まいで、あとは各種儀式のみが行われただけではないかと思います。

皇帝で実際の権力を握ったのは一代だけで、あとは貴族と官僚が実権を握っており、フランスの植民地になってからは当然、フランス植民地政府のロボットでした。

宮廷音楽で昼食(1)
今回のツアーでは宮廷音楽を聴きながら宮廷料理を頂く、というのが組み込まれていました。

4人の演者が宮廷音楽なるものを演奏してくれましたが、特に目を引いたのがダンバイという弦が一本の楽器、微妙なビブラートの入ったエレキのような音を奏でてくれました。
もう一つの弦楽器は二弦のダン・グエットという楽器。それに横笛と打楽器。
ベトナム音楽のリズムというのは多くの人に馴染みが少ないと思いますが、ボクは短波でVoive of Vietnum(ベトナムの声)の日本語放送を時々聞くので、少しわかります。

宮廷音楽で昼食(2)
料理は”宮廷料理超簡易・超廉価バージョン”といったところでしょうが、ボクは食べ物ではあまり文句は言いません。ただ食器には少しだけこだわりがありますけど。

本格的な宮廷料理を頂くには、それなりのお金を出す必要がありそうです。
観光案内によるとフエには宮廷料理を食べさせるレストランが幾つもありました。

食事の前に皇帝、皇后の服を着ての写真撮影があったのですが、ナゼかううまく撮れてませんでした。ザンネン!

ティエンムー寺(1)
1601年に建てられた、フエで最も古い寺です。
ティエンとは「天」、ムーとは「姥」の意味だそうで、ある老婆の伝説がこの地にあり、それに由来して名付けた寺、という説明でした。

この八角形七層の塔は佛教の悟りを意味する「蓮」を象っており、塔の正式な名前はトウニャン(慈仁)塔と言います。高さは21m、1845年に建てられた、とありました。

ベトナム戦争当時(1963年)、アメリカ大使館の前で焼身自殺をした僧がおり、この人はティエンムー寺の僧で、当時の南ベトナム政府の佛教弾圧に抗議しての事でした。

その僧がサイゴンまで行った車(オースチン)が境内の車庫に展示されていたのにはビックリ。
僧の名前はティック・クアン・ドック、身体が燃え尽きるまで姿勢を崩さず、心臓だけが残り、それがこの寺には展示されているそうです。
今回は残念ながら、心臓は見ることはできませんでした。

この僧侶の焼身自殺は有名で、ボクはその写真を今でも良く覚えています。

ティエンムー寺(2)
ティエンムー寺はフォン川を一望できる丘の上にあり、大変景色のいいところです。

ベトナム戦争では、グエン朝王宮のように破壊されず、そのままの形です、とガイドのアンさんは言ってました。
寺の境内はよく手入れがされていると思いました。

本堂でお参りをします。ベトナムの寺院はお賽銭箱が見つけるのが難しく、(見つけられなかっただけかも)、とうとう一度もお賽銭を投げることなく帰国しました。

ティエンムー寺(3)
境内のあるところに来た時、ガイドのアンさんはこの木を示して「これは沙羅の木です、花が咲いて直ぐに地面に落ちてしまいます。」という説明をしました。

ボクが認識している沙羅の花は白色です。でもこれは赤い。さて?
日本でも夏椿を沙羅の花とか言ってるので、これって本当の沙羅なのかな〜、よくわかりません。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらはす。」平家物語より。

アンさん、ありがとう
ガイドのアンさんには2日間お世話になりました。日本語も問題なく、ボクの質問が一番多かったと思いますが、これにも丁寧に答えてくれました。

またベトナム中部に来る事があれば、その時はガイドをお願いできるように、名刺をもらっておきました。
運転手、同行した雑用係り(特に大した仕事はなさそうでしたが)も感じが良い人達でした。雑用係りにチップを渡したら、目を丸くしていたとカミさんが言っておりました。

ダナン、ホイアン、フエと中身の濃いツアーを十分に楽しむ事ができました。

ダナンからホーチミン(サイゴン)へ
1時間40分の国内線ですが、軽食というか、少しお腹に入れるものが出ます。
ホーチミン到着後、夕食になるのでボクはビールと前菜のみを頂きました。

昔、ベルギーを拠点に近隣諸国を飛行機で飛び回った事があるのですが、フライト時間が1時間ちょっとなのにそこそこの食事が出ました。
飛行機が着陸態勢に入っているのに「コーヒー!」とか頼んでいる客がいたりして、斜めになっている機内で踏ん張ってたCA、可愛そうだったな〜。

見よ、あれがサイゴンの灯だ
高度を落とした飛行機から見える夜のサイゴンは、やはり大都会です。サイゴンはこれで3回目で、エネルギッシュな街であるのは、ネオンを見ただけでわかるというものです。

ベトナムの首都はハノイですが、最大の都市はホーチミンです。ホーチミンは経済の中心都市でもあります。
背景はフランス植民地時代に資本が投下されたこと、ベトナム戦争当時はアメリカが資本を投下したこと、などで商業・経済基盤が発達したからです。

そんな訳でサイゴンを中心とする南部は、ベトナムのGDPの半分近くを占めるそうです。

ホテルニッコー・サイゴン
以前に来たときと全く同じレイアウト、雰囲気です。
このホテルは大変快適で、ホテル内にいいレストランなどもあります。
ただサイゴンの中心から少し離れているので、出掛ける時はタクシーになります。
(無料のシャトルがあるそうですが。)

ボクは現金の両替はホテルではやらない主義ですが、ここで両替やった方の話ではレートは悪くなかったそうです。

朝食
朝食は日本国内のホテルと全く同じです。種類も味付けも全く問題ありません。
ココナッツがあったので、ジュース代わりに飲んでみましたが美味しかったです。

ただウエイトレスなどの愛想は悪く、気配りもあまりしません。ナゼかわかりませんが、以前も同じでした。
レストランの客数、ロビーの状態からから見て、宿泊客はうんと少ない感じでした。
ここは日本人客が多いホテルなので、ベトナムに来る日本人自体の数が減っているのでしょう。

鉄の三角地帯・クチ(1)
サイゴンから北西に70km、クチにあったベトナム戦争時の、地下壕を中心としたVC(ベトコン)の拠点です。
サイゴンに行ってここに行ってないと言うと、「エーッ!」となる、超有名観光名所です。

何を見せているかと言うと、VCがどんな風にベトナム戦争で戦ったかの紹介、とでも言っておきましょうか。

ボクはここは2回目ですが、1回目はの時は半日かけてじっくりと見学をしており、今回の1時間ちょっとの「ショートバージョン」、かなり無理を感じました。

鉄の三角地帯・クチ(2)
どの観光案内、見学記にも必ず出てくる、地下壕への出入り口の体験で、見学コースの最初にあります。

入り口は50cm四方もなく、出入りは白人の場合、普通サイズでもギリギリ、又は無理という事になります。ベトナム人の体格は一般的に小柄でスリム、華奢で地下壕を使った戦闘・生活に向いていた、と言えます。

クチはサイゴンの喉元に作られたVCの基地で、アメリカは空爆・砲撃などで空地一体大作戦で何度も殲滅を試みましたが、最後まで攻略できませんでした。

鉄の三角地帯・クチ(3)
ボクは50m程の地下壕に入ってみましたが通路の天井は160cm、幅は100cm程度で、息が詰まりました。

ボクは白人・黒人と生活をした経験があるわけですが、彼らは膝を半折りにして、腰をかがめるという姿勢での移動(前進・後退)が殆どできない、という特徴があります。壕に入っての戦闘など到底不可能だったのは確かです。

我々の3人目のガイドのヒュー(HYU)さんは1977年生まれ、父親はVCの生き残りで、彼はこれを誇りにしているのが話の端々に出ていました。

鉄の三角地帯・クチ(4)
米軍の破壊されたM41軽戦車、鹵獲した砲などです。

クチの地下壕は総延長が何kmくらいあって、何人くらいのVCが潜んでいたのか、ここの具体的な規模・機能について、ベトナム政府は今でも一切の公表をしておらず、アメリカも推測データーさえ公表していません。
クチ自体は今でも秘密基地なのです。

現在のクチはVCのやった事の一部を見せる、VCのショールーム的なところで、ベトナム戦争の姿を教えてくれるところでは決してありません。

鉄の三角地帯・クチ(5)
「ブービートラップ」という地上を前進してきた兵士を殺傷する罠の数々です。針は長くて太く、これが一気に身体に突き刺さる構造で、先ず助かる事はないと思われます。

最大の効果は、串刺しになった味方の兵士を見た、他の将兵への心理的ダメージだったと考えます。
南ベトナム軍の兵士は捕虜にしたVCを先に進ませ、トラップを踏ませようとした、という事です

VCは一般市民偽装戦闘員なので、他の一般市民も「誰がVCなかわからなかった」、
これがベトナム戦争の問題を複雑にした、要因のひとつです。

鉄の三角地帯・クチ(6)
展示されているブービートラップは回転機構を持つものが殆どです。
しかし実際は小型の地雷・爆発装置、例えばロープを張ってそれに足を引っかけると手榴弾のピンが抜ける、とかのトラップが多かった、という記録を見たことがあります。

こういう事からもここで見せているトラップは、見世物的要素が大きいと言えます。

見学に来た全員がこれを見るわけですが、どんな感想を持ったのでしょうね。

鉄の三角地帯・クチ(7)
VCはこんな事もやってました、的な紹介も多くありました。タイヤを加工してゴム草履を作っていた、これは実演をやっていました。不発弾から炸薬を抜き取って地雷を作る、パラシュートから服を作る、etc。

AK47自動小銃を肩に、口を真一文字に結んで、キッと空を睨む2人のべっぴんさんVCの写真、、、典型的なプロパガンダのツールですね。

最後にVCが食べていた、タピオカの原料の芋(キャッサバ)とお茶をごちそうになる、という式次第でした。
ちなみにこの芋、ホクホクして大変美味しかったです。

鉄の三角地帯・クチ(8)
VCはどういう指揮系統だったのか、どれくらいの規模でどれだけの犠牲があったのか等、一切公表されていません。VCの犠牲者については20万人以上、という数字はアメリカが出しています。

VCは南北統一後、北ベトナムの勝利に大きく寄与したという事で、今でもベトナム社会主義共和国で大きな政治的影響力を持っているそうです。
ベトナム、特に南ベトナムでかつてVCはこんなに頑張ったのである、というショーケースを作っておくのは、彼らにとって大いに意味のある事だと感じた次第です。

今日のランチ
連日の昼夜のベトナム料理、やっぱり飽きてくると言うか「ウーン」となります。
美味しいのは間違いなく、日本人の口に合います。

ボクは50代くらいまでは日本食以外の連続は何でもOKでした。30代の時に、ヨーロッパで3ヶ月間日本食を食べなかった事もありました。

しかし、です。
そろそろ日本食が食べたいな〜、となる自分を発見。やっぱり年令を重ねるとこうなるのですかね〜、、、。

統一会堂:旧大統領官邸(1)
誰かが統一教会とか言ってましたが、一文字違います。

1975年4月30日に、解放軍の戦車が鉄柵を突破してベトナム戦争終結の象徴的シーンとなったところです。

現在は国賓を迎える時、何かの会議などの時以外は一般見学に開放されています。

ここは一般企業でも、お金を出せばレセプション・会議に使えるそうで、日系企業で時々使うところがある、とガイドのヒューさんが言っておりました

統一会堂:旧大統領官邸(2)
初代は1873年に建てられ、1945年までフランス総督の建物として使用されていました。
1955年にベトナム共和国として独立してからは独立宮殿として使用され、1962年にクーデターで爆撃され破壊、1966年に現在のものが建てられました。

そして1975年4月30日まではベトナム共和国(南ベトナム)の大統領官邸として使用され、現在はその時の状態が保存され一般公開されています。
内部は各種会議室、ダイニングルーム、その他映写室、図書室もあります。

統一会堂:旧大統領官邸(3)
本当は地下室も見学したかったのですが、工事中とかで見ることができませんでした。
前に来た時は地下室には軍の司令部機能一式が揃っており、作戦室、通信室などがありました。

地下以外の地上部分の各フロアーはいわゆる現役で使われている部屋が殆どなので、見学通路から見てもきれいに清掃が行き届いています。

ここを実質的に使用したのは完成時から終戦直前まで大統領であったグエン・バン・チュです。

統一会堂:旧大統領官邸(4)
ボクはグエン・バン・チュが2001年に亡命先のアメリカで死去した時、彼の下で副大統領であったグエン・カオ・キがテレビに出て、長いインタビューを受けていたのを思い出します。

グエン・カオ・キはカルフォルニア南部のリトル・サイゴンでビジネスマンとして大成功していたようでした。

統一会堂の庭にソ連製戦車T54が突入する写真は、一国が消滅する瞬間の写真として有名です。その戦車は裏庭に展示してありますが、今回は見れませんでした。
突入した場所は、今はきれいな芝生になっています。

サイゴン中央郵便局(1)
1891年に、当時のベトナム支配国であったフランスが建てた郵便・電信局で、今でも同じ業務で使われています。

建物の外観はなかなか美しく、これはパリのオルセー美術館をモデルにしたそうです。
付近は新しいビルが立ち並ぶサイゴンの中心地で、入り口前の広場に立って見渡すと、郵便局のデザインが近代建築の中に溶け込んで、違和感がありません。

ボクはこれまで郵便局の前は何度か通ったものの、中に入ったのは初めてでした。

サイゴン中央郵便局(2)
中はアーチ状の天井で、典型的なヨーロッパ風デザインです。一番奥にはホーチミンの肖像が掲げられています。

郵便窓口に行くと白人のカップルが何通かの絵はがきを出すところで、どこから来たのか聞くと「UK」でした。

窓口の奥の床には、書類とか段ボール箱が山積みされて雑然としており、とてもじゃないが郵便局とは思えず、内部の重厚さと対照的でした。
中には土産物屋もあったりするのですが、狭くて品定めもできず、買い物は諦めました。

土産物屋(1)
ベトナムの伝統工芸の漆絵エッグアートです。
職人と絵描きなど3人が店内で実演をやっており、どうやって仕上げるのか、全体工程の説明も詳しくありました。

漆絵の中に卵の殻が散りばめられて、それが磨かれ、キラキラと7色に光り、大変きれいです。絵柄は草花、動物、風景などがありますが、やはり一番多いのはノンラー(笠)を被ったアオザイの女性です。

店員の何人かは日本語を話し、営業を掛けてきます。お茶とか、お菓子まで出しての営業でした。

土産物屋(2)
かつてボクは旅行先では幾つもの記念品を買っていました。ところがこれが溜まって、結局多くはしまい込んだままになっています。そこである時から、旅行の記念品は1回につき1個、と決めています。

今回は行く前から漆絵と決めていたので、この店で1個だけ買いました。
ベトナムらしい、ノスタルジックな漆絵エッグアート。

散々迷った挙げ句買ったのがこれです。天秤を肩にしたノンラーの女性の後ろ姿、ほんのり薄く部分色付けされていて、ボクの好みぴったりです。

ベンタン市場(1)
ここも定番の観光場所です。
ヒューさん曰く、「ここで売っているものは全部偽物か品質の悪いモノばかりです。買わない方がいいですよ。」ここまではっきりとガイドさんが言ってくれると楽です。

客は白人が2割くらい、インド系が1割くらい、残りはアジア系で日本人は見掛けず。

ボクはコースターが気になったので手に持って眺めていると「2個で2万ドン、どや?」。
返事をしないでいると、最後は5千ドンになりました。

ベンタン市場(2)
ベンタン市場はズバリ、上野アメ横の規模を5分の1程度にして、巨大な体育館のような建物に押し込めたところ、と思えばいいかも知れません。
ただ食品関係はアメ横より少ない感じ。

白人の一部には、若い女の子の店員をモロに馬鹿にしたりするのがいて、女の子がベトナム語(多分)で罵り返したりしてました。
白人の中には露骨にベトナム人を見下しているのがちょくちょくいます。
ボクは彼らのそういう態度にかなり敏感なのでよくわかります。ナゼなら、ボクが米国でやられてきましたから。

ベンタン市場(3)
アメ横は昔はイミテーション山盛りだったようですが、今はどうなんですかね。
ここベンタン市場は堂々と陳列されています。

ベンタン市場は中央付近に飲食店がありますが、酒類は置いてない、というか飲んでる連中は見掛けませんでした。
麺類食べたり、串焼き囓ったり、、、。ボクは液体燃料なしで串焼きなんか食べれません。

アメ横では朝から、コップ酒で真っ赤になっているオヤジをたくさん見掛けますね。今度ボクもやってみるか〜。

出ました!
泣く子も黙る、そうです「丸亀うどん」です。
店の前はバイクで埋まってましたから、大繁盛しているのでしょうね、きっと。でも値段が気になります。

ボクはフィリピンではBGCに住んでいましたが、ここにもありました。肉うどんが200ペソ(当時で500円相当)で、普通の人は昼飯に60ペソ以上は出せないな〜、と言ってたので、食べれる人は限られていたと思います。

他に日本食レストランらしい看板をいくつか見ましたが、「なんちゃって日本食」を出す某国の連中がやっている可能性大ですね。

サイゴン・オペラハウス
フランスの植民地時代にフランスが建てた劇場です。
開業は1900年で、1955年からはベトナム共和国(南ベトナム)の下院議場で南北統一の1975年まで使われ、その後再び劇場になったそうです。
ボクは中に入ったことはありません。

東南アジアはタイを除き、全てヨーロッパの植民地になって、その時代に白人が建てた建築物などが結局は観光の大きな対象です。中南米も同じでした。
ベトナムは植民地前の、ベトナム独自の遺跡などが割と多く残っている国だと感じました。

ホーチミン人民委員会庁舎
フランスの植民地時代の1908年に、行政庁舎として建てられたそうです。
これもサイゴンの一番の中心地にあります。
内部は公開されていませんが、写真撮影するには絶好の建物です。

サイゴンは東洋のパリ、と言われたそうですが、こうやってフランスが植民地時代に建てた建物を見ていると言い得て然り、という気になります。

正面には「我らの英雄ホーチミン」の象が立っています。

高層ビル群
中心街には高層ビル群があります。
ヒューさんの話では近辺のホテルなど多くのビルは、華僑系不動産のVPTグループが所有、これのオーナーの女性会長が詐欺行為で昨年10月警察に逮捕されたそうです。

この女性は多くの賄賂で政府の人間を抱き込み、不動産を取得、高値で売り抜けて巨額の利益を得た、とヒューさんが説明してくれました。

「彼女が逮捕された」、というあたりを言った時のヒューさん、ナゼかすごく嬉しそうな顔をしてましたっけ。

ドンコイ通り
華僑・華人の経済力は、ベトナムでも他の東南アジアの国々と同じで大きな影響力があるようです。

それはともかく、サイゴンもあちこちを見て回ったののですが、日本人の姿を殆ど見ません。
これについてヒューさんは「以前はドンコイ通りも日本人が一杯でしたが、コロナで激減。3年たって韓国人、西欧人はかなり戻ってきましたが、日本人は戻ってきません。」

前はドンコイ通りも日本語の看板があったりしたのですが、今はどうなんですかね〜、、、。

タンソンニャット空港
正式にはホーチミン・タンソンニャット空港と言います。帰国のフライトはここからセントレアまで。

ベトナム航空の国際線ラウンジは幾つかあるようで、私たちが入ったラウンジにやはり日本人はいませんでした。
代わりに中華系と思われる、20代くらいの若い連中が結構いたのには驚きました。
ラウンジの飲み物、食べ物は貧弱でした。

ベトナムのツアーもあっという間に終わって、ナイトフライトで帰国となりました。

夜明け
タンソンニャットを00:05、セントレア着は07:30、時差は2時間で5時間25分のフライトです。
離陸後3時間ちょっとすると日出です。高度3万フィートから見る日出は非常にきれいです。

しかしあっという間に太陽は昇り、眼下には雲海が広がります。今回のナイトフライトではナゼか殆ど眠ることができませんでした。
液体燃料の注入量が足りなかったかも知れません。
だってCAの注ぐワイン、グラスに2cmくらいしかなく、そのうち呼ぶの面倒になったものですから。。

着陸1時間半前
朝食という事で、出てきたのがこれです。
まあ食べれなくはないのですが、ボクが今まで乗ったフライトの中での評価からいくと10点満点の3点、いや2点を差し上げたい。
今度ベトナムに行く時はベトナム航空は遠慮します。

セントレア到着は予定どおり、ラウンジで一服して高速艇で津まで。
津の港からはタクシーで自宅に着いたのは午前11時前でした。無事事故も何もなく帰れました。

ベトナム旅行、いろいろと見ることができ、また考える事も多かったです。ツアーメンバーは11名+ガイド1名、これが大型バス1台でしたので1人2席以上(?)、ゆったりでした。
飛行機での移動も時間が遅れることもなく、スムーズでした。

毎日の歩行は最低で1万3千歩くらい、最高1万8千歩以上でしたから、割と歩行の多い方のツアーだったと思います。メンバーは1名を除き、ボクらと同年代又はそれ以上、皆さん本当にお元気でした。
ああいう元気があるからこそ、ツアーに出掛けてくるのでしょう、なければ行けませんからね。

ボクの夢はサイゴンのサービス・アパートメントに長期滞在して、ここを拠点にあちこちブラブラ、、、元気なウチにやりたいですね。

それと以前と比べて日本人を見掛ける事は希でした。デフレ・円安で、既に日本人からは海外に出掛ける経済力が失われ、逆に海外からは「何でも安い日本」という事で、旅行者を受ける国になった、という事なんでしょうか。

いずれにしましても、とにかくいい旅でした。