MSCベリッシマのクルーズ10日間(1):2023/10/17〜10/26
クルーズの後半は釜山、鹿児島、高知、そして横浜帰港まで。
クルーズも5日目くらいからは船内の様子も大体わかり、レストランなどではちょっとした会話をする顔見知りもできたりして、「クルーズを愉しむ」、という感覚も自然と出て来ました。

寄港先の釜山、高知は私にとっては初めてのところで、天気にも恵まれそれなりに愉しめました。
ベリッシマは朝入港、夕方には割と早く出港するというスケジュールが殆どなので寄港先では結構忙しく、寄港地のメジャーなところを少しでも多く訪れたいという場合は、ガイド付きバス観光を申し込むのが良いと思いました。

釜山入港(1)
天気は曇り。予報では雨は降らないようです。

私は仕事、プライベートであちこち行きましたが、韓国は初めての国です。仕事で全く縁がなかった、それと特に興味の湧く国でもなかった、というのが理由です。

以前下関に行った時に、関釜フェリーのターミナルを見に行きましたが、釜山は夜出港して朝には着くという、大変近いところなんですね。
遠くから見る釜山は山が海まで迫っており、平地が少ないように見えました。

釜山入港(2)
今まで気が付かなかったのですが、入港すると先ず真っ先に車椅子の乗客を下船させるのですね。しばらく見ていましたが、15名以上みえたようでした。

乗船客は3700名、の90%は60代〜80代のシルバー・ジェネレーションなので、船内でも杖を使ってみえる方をちょくちょく見掛けました。

ベリッシマが接岸したのは巡視船も使っているバースで、釜山の巨大な港から少し離れたところにありました。

寄港地での観光チバス
寄港地では何種類もの観光バスが準備されており、事前に申し込んでおくわけですが、乗船後も空きのあるコースについては案内があります。

クルーズは入港時間が短いのと、入出港時間が厳密に決められているため、初めてのところはこういう観光バスを使った方がいいと思います。

釜山でも無料の循環シャトルバスが運行されますので、これを使って自力で廻る、と言う方法も勿論あります。

甘川文化村(1)
何とも独特の景観で、東洋の香りが全くしません。
ここは朝鮮戦争で北から避難してきた人たちが、山肌に建てたバラック群が始まりだそうです。

この独特の景観が芸術家達の目にとまり、2009年頃から町おこしの材料の一つになり、今のような観光地になった、という事でした。

このようなカラフルな屋根と壁は、その町おこしの目玉商品だった、とガイドは言っておりました。

甘川文化村(2)
バスを降りて土産物屋などが並ぶ道を歩いて行きます。
バスの乗客は40人くらいで、ガイドは1人。バスの中はマイクを使うのでよかったのですが、バスを降りるとガイドの説明はよく聞き取れませんでした。

この日は日曜でもあり、韓国人の若い連中の観光客も多く、そこにバス数台分のベリッシマの乗船客が押し寄せたので、大変な人混みでした。

土産物は若者向きのアクセサリーが主体でした。

甘川文化村(3)
甘川文化村では「星の王子様」が街のシンボルで、あちこちに壁画とか人形があるのですが、ご覧のとおりの人混みで何も見えず。

私は「星の王子様」の小説は、子ども向けの”おとぎ話”くらいに思っていたので読んでいませんが、どうもそうではないらしい。
韓国の芸術家が、街おこしのメッセージに使いたいと思った、という事なので、何かありそう。今度読んでみます。

本当は行く前に読んでおくべきでしたね。

甘川文化村(4)
着替えの様子を覗き見したのではありません。道路から見えるところの貸衣装屋の様子です。

一緒に来たと思われるカップルの相棒は、携帯いじくって興味なし、というのから、自分の彼女が変身していくのを見守っているのとか、様々だったのでシャッターを切った次第です。

韓国の伝統的なデザインを取り入れた衣装を着た女の子(たまに男も)を、あちこちで見掛けました。

甘川文化村(5)
ちょっと喉が渇いたので道路並びの店に入り、ジュースを一杯頂きました。
最初、「Shaved ice」はあるかと聞いたら「?」、で通じなかったので、「Snow cone.」と再度聞いたらやはり「?」、通じませんでした。

甘川文化村の通りはゴミ箱がなく、かつトイレも少なく女性用は長蛇の列でした。
ガイドも「トイレは少ないですよ〜」とか言ってくれました。何せトイレが近い世代のグループですからね〜。

甘川文化村(6)
「甘川文化村小さな博物館」というのが通りにあったので入ってみました。韓国の昔の生活、近代で使っていた様々な道具など、日本統治時代のものも展示してありました。

特に興味を持ったのは「Ancient book: Old book published in ancient time.」とだけ説明されている、漢文の古書。

韓国はずっと大昔から漢字文化圏でしたが、1970年頃に漢字を捨てたため歴史の断絶、文化の断絶、世代の断絶が起きたとある韓国人から聞いた事があります。

国際市場
戦後、統治国であった日本の残した物資の販売、朝鮮戦争でアメリカが持ち込んだ物資の販売などの歴史を経て、現在の形になった、とあります。
品物の多くはイミテーションだそうです。

日本のアメ横と同じような雰囲気を感じたのですが、今のアメ横はイミテーションがうんと減ったと聞いています。

ガイドに連れられて土産物屋へ。ここで化粧品を紹介され、皆さん結構な買い物をされていました。
韓国製の化粧品って人気があるみたいです。

チャガルチ市場
大きなビルの中にある市場です。夕方近くに行ったのですが、1Fの市場には大量の魚介類が並んでいましたが、客は殆ど見掛けませんでした。

2Fは港を眺めながら食事ができるようになっており、ここは多くの人がテーブルで美味しそうな料理をつついていました。
中をブラブラ歩いていると、メニューを見せながら日本語の呼び込みに出会いましたが、時間の都合で食べることができませんでした。値段は安いという訳ではなく、それなり、という感じでした。

釜山タワー
タワーは龍頭山公園という、地元でも人気のある公園の中に立ていました。

我々のバスが着いたときは客が少なく、すんなりとエレベーターで展望台まで。展望台から再びエレベータで降りると、入り口は人でごった返していました。
半分以上はベリッシマからの観光客でした。

120mの展望台からは韓国第二の都市である釜山の市街地夜景が一望、なかなかの景色でしたが、窓ガラスが汚れており、くっきり、という訳ではありませんでした。

この日は非常に短時間、かつ釜山の数カ所を訪れただけですが目に入る風景、人々の様子などから受けた印象は悪くはありませんでした。

ただ街全体、それに店の中のなどのゴミゴミ感は、日本とはちょっと違うな、という感じを持ちました。

もし再度釜山にくる機会があるなら、チャガルチ市場の2Fで何か鍋でもつついて一杯やりたいものです。

釜山の飲み屋街
チャガルチ市場から集合場所に向かう途中の路地、釜山には居酒屋、その他白粉の香りのする飲み屋などが無数にあるそうです。
時間があれば居酒屋にでも入ってみたかったのですが、余裕がなく、パス。

それと韓国は英語と同じくらい日本語が通じるそうで、片言でも英語が喋れれば、言葉の壁はそれほど高くはないという話でした。
もしそうだとすれば個人旅行でも、それ程心配ないという事になりますが、実際はどうなんてしょうかね〜。

釜山出航
バスは19:30頃に港に着き、港で出国審査をして乗船。ベッリシマは22:00に出港、釜山の港を離れました。

日本の船舶法は外国船による日本発着の旅客・貨物などの輸送を禁じています。
従ってベリッシマは横浜を出て、日本各地のみを廻って横浜に帰る、というクルーズはできないのです。

つまり航海中にどこか外国の港に寄る事によって、この法律に抵触しないようにしなければならないのです。

遅い夕食
釜山観光から帰って部屋に戻ったのが20:00ちょっと前、レストランのラストオーダーは20:30なので急いで入りました。

同時にレストランに飛び込んできたのが、観光バスで同じだったHさんご夫妻。せっかくだからという事で、4人で一緒に食事をする事にしました。

食事が終わる頃は、それまでいた2〜3組の夫婦もいなくなり、レストランは我々4人だけになってしまいました。その後、4人でラウンジに行き、話の続きをしました。

クルーズ7日目の朝(1)
この日は終日航海日
ベリッシマは対馬西方から九州西方に向かっている頃でしょうか、東の水平線から太陽が昇りました。
遮るものはなにもなく、きれいな日の出です。

いつものように16Fの甲板上をウオーキング、気温は20℃、海を見ながら気持ちの良い朝を迎えます。

乗船客3700人の割には、ウオーキング・ジョギングをやっている人は少なく、全部で15人もいません。皆さん、もっと他の時間でやってみえるのでしょうか。

朝クルーズ7日目の朝(2)
朝食は最上階19Fのヨットクラブ専用のグリル&バーで頂きます。飲み物はウエイターが持ってきてくれますが、食事はバッフェ形式です。

割と広い場所に幾つもテーブルが置かれているのですが、この日もここで食事をしているのは、私たち以外に2組だけでした。
カウンターの中にはコックがいて卵は焼いてくれるのですが、パンケーキの作りだめだけは止めて欲しかった。
せっかくのパンケーキが冷めて、”ぺしゃんこ”でした。

ベランダからの眺め
船室のベランダには椅子とテーブルがあり、椅子に座ってビールでも飲みながら、ボーッとして風景を眺めるのも悪くありません。
時々漁船とかレジャーボートが見え、中には結構近寄ってくる船もいたりします。
クルーズに双眼鏡は必携です。

船内では一室につきインターネットが同時に2回線無料で使え、私とカミさんはそれぞれI−PHONEとかPCをネット接続できました。電話は陸地が見える距離の場合、大体が使えました。

終日航海日のプール
ベリッシマにはプールは3つあります。終日航海日は屋外プールも室内プールも、割と盛況です。
15Fの屋外プールのステージではいろいろな教室もやっており、ダンスのステップの教室などは結構な人数が集まっていました。

この他にジャグジーが15カ所あり、これはかなり人気のようでした。ジャグジーには入ってみようと、水着を準備してきましたが、とうとう使う事なしに終わってしまいました。
この他に、有料の別格のジャグジーもあります。

アトリウムでのボーカル
終日航海日はあてもなく船内をブラブラする日でもあります。ガレリアをブラブラして、アトリウムでボーカル・演奏を聴いてあちこちの施設に顔を突っ込む、、、。
疲れたら適当なバーでコーヒーまたは気が向いたらビールを頂く、、、こんな感じです。

クルーズ船のシンガーなどのエンタテイナーは、自分の舞台以外は何をやっているのか、寝たりお茶飲んだりしているわけではなく、リハーサル、衣装小道具の手入れ、その他乗船客の案内・質問対応など、ショーとは関係ない仕事もやるようです。

読書エリア
ここは1500冊の本があるそうですが(そのようには見えませんでしたが)読みたい本がなかったので使いませんでした。横を通ると常時数人の方がいました。

私はこの界隈でお世話になったのは、奥にあるバーでワインを頂いたのみです。

図書室は飛鳥U、パシフィック・ビーナスなどのラグジュアリー船では一部屋を使ってしっかりと作られており、落ち着いて時間を過ごすにはうってつけの場所でした。

6Fエッジカクテルバー
バーのソファーはいつ行っても満席状態でした。皆さんを見ていると飲み物はコーヒー、たまにビール、または飲み物なし、という方が殆どで、談話コーナーとしての利用者が多かったように見受けました。

バーで日本酒を頼む場合、「氷なし」とはっきり言わないと、ロックで出されます。
「日本酒とワインは親戚、ワインに氷入れて飲むのは完璧なマナー違反、田舎者であると言うではないか、これと同じ事やるんじゃない。」、と私は言いたいのであります。

ヨットクラブラウンジに戻ってきました
終日航海日も気が付けば夜の10時、ブラブラして過ごした1日、こういうのもいいですね。
ボーッとするのがキライ、という方は船内にはいろんな施設が一杯、催し物も一杯、忙しく過ごす事もできます。何か勉強したい、という人はイタリア語教室なんかどうですかね、、、。

持ってきた方がよかったかな、と思ったモノのひとつがMP3プレーヤー、またはスマホへの好きな音楽のローディング。
昼間はピアノも弾いてくれないので、ここで読書をするとき、ちょっと音楽があるといいな、と思いました。

鹿児島入港
8日目の朝、鹿児島入港です。岸壁の反対側の錦江湾の向こうには桜島が見えます。ここには飛鳥Uで入港した事があります。
その時はガイド付きの観光バスで1日あちこち行きましたが、島津家別邸である仙厳園には行きませんでした。

鹿児島はここ10年でも何度か来ているのですが、仙厳園は45年以上前に行ったきりで、是非再訪したいと思っていたところです。
今回はここだけを訪れる、というのを目的にして下船・上陸をしました。

仙厳園(1):入り口付近
仙厳園まではクルーズの巡回バスも行かないので、タクシーを使って行きました。
タクシーの運転手は最近の観光客、特に中国人観光客の行状についてずっと話をしてくれました。

私は今回訪れるまでは仙厳園を「磯庭園」と記憶、実は今回初めて正式名称は「仙厳園」である事を知りました。

これは1995年にそのように決まったそうなので、私が初めて訪れた1970年代には”磯庭園”と呼ばれていたという事のようです。

仙厳園(2):獅子乗大石灯籠
”御殿”横を通って大きな庭に出ると、その左側にありました。8畳ほどもある、巨大な石の上に逆さになった獅子が乗っています。これができたのは明治17(1884)年、それ程古いという訳ではなさそうです。

仙厳園には他にもこのような巨大な灯籠がいくつもあり、特に鶴灯籠というのは、鶴が羽を広げた様子を笠にした巨大灯籠が目立ちました。

庭からは桜島がドーンと見え、庭と桜島は一体のように見えました。

仙厳園(3):御殿に入ります
御殿”とは島津の殿様とその家族が住んでいた建物で、殿様が客と会うための「謁見の間」など25余りの部屋が残っています。ここを見ると島津家の暮らしが伝わってくるような気がします。

建てられたのは江戸時代初期に(1658年)に島津家19代光久によってですが、その後拡張改修がされ、今残っているのは明治中期の頃のものだそうです。
築かれところです。
中には何名かの説明員がいて、見学者の質問にも丁寧に答えてくれます。

仙厳園(4):鳳印の間(玄関の間)
30代島津忠重はここで生まれ、この部屋で12才まで過ごしました。
書架台とか文机があるところを見ると、忠重がここで勉強をした事がわかります。

床の間に甲冑が置いてあるので、後で調べたところ、ロシアのニコライ2世が訪れた際に島津忠重が身に付けていたもののレプリカだそうです。

左にある壺はニコライ2世にも献上された薩摩焼の壺です。

仙厳園(5):中庭
この日は多くの白人の観光客がここを訪れていました。どこから来たのか聞いてみたところ、オーストラリアからだという返事でした。

一昔前ではこういう地方都市の観光地に普通の外国人が来るというのはかなり限られていたと思うのですが、このように団体で訪れているのですね。

中庭を見る位置には腰掛けが置いてあり、ここに座って中庭を見ている夫婦も白人の観光客でした。

仙厳園(6):篤姫
NHKの大河ドラマで有名になった篤姫(天璋院)は島津一族の生まれで、島津本家の養女として徳川家定(第13代将軍)に嫁いだ人です。

大河ドラマは2008年放送で、私はこの時はアメリカにいた時で、”JAPAN TV”というケーブルテレビで毎週観ていました。17才で薩摩を出て江戸に行き、その後生涯一度も薩摩に帰ることがなかった、、、と言う部分が特に印象に残っています。
明治16(1883)年に47才で亡くなったというのを、今回初めて知りました。

仙厳園(7):庭と桜島
仙厳園の庭は日本庭園そのものです。しかし京都、その他で見る庭と全く違う点が、庭の先に広々としたスペースが広がっている点です。
そのスペースの先は錦江湾に繋がり、その先は桜島まで繋がっているのです。

つまり仙厳園の庭は御殿の前だけではなく錦江湾、そして桜島までを含んだ雄大な日本庭園なのです。
今回私は仙厳園とは、どこまでを仙厳園というのか、これに気が付いたのです。

仙厳園(8):謁見の間
賓客と面会、会食をするために用いられた部屋です。2間続きの部屋で廊下も畳敷きになっており、ここも部屋として使ったという事でしょうか。

床の間の前に座布団と肘掛け(?)がありましたが、殿様はここに座って謁見をしたのでしょうか。

説明員に「ところでこの邸宅には台所がないが、、、」と尋ねたところ、「今残っている建物は当時の3分の1程度で、台所は残っていない部分にあった。」という返事でした。

仙厳園(9):雪隠と風呂
雪隠、つまり厠、今はトイレと言います。中に入ることができませんので、詳しくはわかりませんが、6畳程度もある大きな部屋でした。

風呂も簀の子がある洗い場と、いわゆる脱衣場を含めるとかなり広いスペースです。

当時の風呂は別な場所でお湯を沸かし、それを運んで湯船に入れるという方式でした。殿様の湯浴みには、多くの下男下女が必要でだったのは確かです。

仙厳園(10):大変広いところでした
仙厳園ではベリッシマの乗客の見学者も多く、殆どの人が首からベリッシマのIDカードを下げたままなので、すぐにわかりました。

旦那さんが奥さんの手を引っ張っている人、その逆の人、やはり歳を重ねるとどちらかが、足腰が弱くなってしまう、、、仕方のない事ですね。
でもこうやってクルーズ船に乗って寄港先ではあちこち観光ができる、クルーズ船はいいですね。

年代としては半分以上は私より先輩の方々でした。

薩摩切り子
私は以前から切り子に興味があり、江戸切り子を気に入ったものを見つけた都度、収集してきました。
8年前に鹿児島に来た時に繊細な江戸切り子とは違う、力強い薩摩切り子の実物を見て、その魅力に感銘、杯を買いました。

今回、仙厳園の中に薩摩切り子を展示販売している建物があり、様々な薩摩切り子を拝見。
杯1個が3万円〜8万円、セット物で〜30万円と、相変わらず決して安くはありません、、、。
が、秘密の軍資金を投入、買っちゃいました。

かんぱちのランチ(1)
この日の朝、レストランで唯一の日本人アドバイザーをやっているMINAKOさんから「ここで昼食を摂るなら、山形屋の向かいの銀行の前にある”かんぱち”を食べさせる店があるので、税って見て下さい。いいですよ。」というアドバイスがありました。

仙厳園の見学を終えてタクシーを捕まえ、運転手行き先を告げると店の前まで行ってくれました。

昼間は食堂、夜は居酒屋の何の変哲もないお店、注文して出て来たお盆は、確かにMINAKOさんの言うとおり。

かんぱちのランチ(2)
アカバラ海鮮丼が1200円、定食が1400円で値段はリーズナブル。ついでにお銚子を2本頂いちゃいました。
この店は鹿屋市漁協直営の”みなと食堂2号店”、なかなかの人気店のようでした。

会計カウンターの後ろを見ると何と”(贈)三重県漁協”の大漁旗が掲げてあるではないですか。
店の女の子に聞くと「鹿屋漁協は三重県と繋がりがあるとかで、、、」という返事でした。
鹿児島のこんなところで三重県の文字を目にするとは意外でした。

山形屋本店
鹿児島、宮崎に5店舗ある鹿児島の老舗デパートです。鹿児島の大繁華街の天文館エリアの中にあります。
鹿児島に来ると必ずここに寄っていましたが、今回は時間がなく外から眺めただけでした。
8年前に薩摩切り子を勝ったのはここでした。

鹿児島は冬は暖かく、住みやすそうなところです。食べ物は独特なところがあります。寿司屋で「酒」と注文したら「焼酎」が出て来た事がありました。

またそのうちブラッと来てみたいところです。

鹿児島出航
再びベリッシマまでタクシーで。手前の建物の中では土産物・特産品の販売が行われており、その中で市役所の職員がアンケートをとっていたので少し話をしました。

今回感じたのはタクシーがなかなか捕まらなかった事、会社に電話を掛けて呼ぶわけですが、仙厳園から山形屋までのタクシー20分程待たされました。

職員によると、「そうなんです。タクシー会社が運転手を募集しても応募がなく、運転手不足は深刻。」との事でした。

開聞岳に沈む夕日
16:00に鹿児島を出航、ベリッシマは今回のクルーズの最終寄港地、高知に向かいます。
16Fの右舷に出ると、開聞岳の向こうに正に今沈もうとする太陽が見えます。
雲もなく見事な日の入りでした。

その時上空には大型ヘリが1機低空飛行、見るとギアーを出しているので着陸態勢のようです。左舷後方には高隈山が見え、海上自衛隊の鹿屋基地はその近くです。


今夜の夕食
ベリッシマのヨットクラブのレストランは朝食を除き、全て洋食(イタリアン・ベース)で、日本食とか中華はありません。
メニューはかなり工夫をされているとは言うものの、やはり洋食のみでは飽きてきます。

ベリッシマでは15F船尾のバッフェレストランに行くと日本食(もどき)を食べる事ができますが、バッフェの大食堂は”雰囲気”はありません。

有料の鉄板焼き、寿司レストランはありますが、職人の顔と手つきを見たら入る気はしませんでした。

ナイト・チョコレート
ちょっとしたホテルで配られるナイト・チョコレート、これは”ターンダウンサービス”時に置いていきます。

部屋の掃除は朝と夕方(ターンダウンサービス)の2回で、それぞれ部屋を出るときにスイッチをオンにしておけば素早くやってくれます。
廊下にバトラーか清掃係がいれば「清掃お願い」と声をかけておくこともあります。冷蔵庫の飲み物の補給もその時にやってくれます。

でも私は夜はチョコレートは食べなかったですね〜、、、。

高知入港
高知はカミさんは2回、ツアーで来たようですが、私は初めてです。高知というと板垣退助、山内容堂、武市半平太、坂本龍馬、岩崎彌太郎、等の明治維新に関係する人たち、それに皿鉢料理と日本酒、あとは、、、と言う程度の知識しかありません。

高知は個人的にはずっと昔、ある高知人に煮え湯を飲まされた事があって、それがトラウマで、どうも関心が持てなかった、というのが本音です。

ま、それはともかく天気もいいので下船上陸してみました。

高知城(1)
循環シャトルバスで市内のど真ん中に出ます。
桂浜の坂本龍馬像も見たいな、と思っていたのですが、前々反対方向というかエライ遠い。バスもありませんでした。

ま、それはともかく城に向かってブラブラと歩きます。
追手門は城攻めに遭ったときに防御の第一線で、決して唯の門ではありません。

攻め手に対し弓矢・鉄砲で頭上攻撃を加えるための陣地として見なさい、とある先生から教えられましたので。

高知城(2)
追手門の手前に板垣退助の銅像がありました。板垣の業績は大きくは3つ。
1.戊辰戦争: 土佐藩兵を率いて新政府側で戦い、大きな戦果を得て会津藩を降伏に追い込んだ。
2.自由民権運動推進: 国民の自由・権利を求め、政治参加の基盤を作った。
3.明治憲法制定: 立憲改進党の代表として、明治憲法の草案作成に多大な貢献をした。
自由民権運動に反対する元土佐藩士に襲われた岐阜事件で、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉を発したのは有名です。

高知城(3)
追手門を入って左に見える天守閣に向かいます。この坂道も城攻めに対する防御から考え抜かれて石垣と坂道が作られています。

石垣の上からは死角がなく、攻め上がってくる兵に対して攻撃が加えられるようになっています。これは彦根城が非常にわかりやすい作りになっていました。

城を作ったのは関ヶ原の戦いで武勲を挙げた山内一豊、妻の千代の内助の功は超有名な話ですね。

高知城(4)
天守閣に上がる見学者で狭い階段はごった返していました。殆どの人がベリッシマの乗船客でした。

階段は非常に急で、中には一段ずつ息をつきながらゆっくりと上り下りする方も見え、混雑に拍車をかけていましたが、高齢者が多いので仕方ないですね。

天守は3層6階で高さ約30m、一度焼失しており、江戸時代中期(1749年)に再建されたと説明書にありました。
高知城の歴史博物館というのがあったのですが、時間の都合で行けませんでした。残念!

高知城(5)
天守からの眺めは、遠くの市街まで一望できなかなかのものでした。
高知城と言えばやっぱり山内容堂を思い出さずにはおれません。若い頃から学問をせず、酒ばかり飲んでいた、、、。
とにかく様々な話が伝わっています。

今から10年以上前にNHK大河ドラマ「龍馬伝」での山之内容堂(近藤正臣)が、いつも片手に杯を持って酔っ払った口調で臣下と接する姿、よく覚えています。

そのせいか、脳溢血で44才で亡くなっています。

高知城から”ひろめ市場”へ
高知城の石垣は立派で、あとで調べたところ、石垣は高知城の特徴のひとつだそうです。またレイアウトが複雑なのも防御力の高い城の理由、となっていました。

高知城をあとに「ひろめ市場」に向かうことにしました。通りに出て行き方がわからないので、地元の方らしき女性に尋ねると親切に教えてくれました。

城の付近というのはやはりきれいな道筋で、この付近は市役所・県庁などの庁舎が多く建っているそうです。

ひろめ市場
要するに屋台村です。飲食店が約40店舗、物販店が約20店舗、狭い中に建て込んでいました。

クルーズ船の乗客とおぼしき人たちでごった返しており、とてもじゃありませんが、割り込む余地はありませんでした。
まあ、皆さんの飲み食いする姿を横目で見ながら、、、という感じでした。
メニューは特に騒ぐほどのものはなく、魚介類中心の居酒屋メニューといったところ、ただカツオのたたきだけは食べたかったですね。
一杯やっている人も結構いましたね。

はりまや橋
日本ガッカリ三大観光名所の堂々一位、はりまや橋!
カミさんから耳タコで聞かされていましたおで、ショックは大きくはありませんでした。
でもな〜、、、苦笑してしまいました。

あとの2つは確か札幌の時計台、長崎のオランダ坂、だったと思います。

ちなみに世界三大がっかり観光名所、ブラッセルの”小便小僧”、コペンハーゲンの”人形姫”、シンガポールの”マーライオン”、全部見ましたが、全く異論はありません。

高知のお土産
はりまや橋に行く途中の小さな古道具屋、店先をふと見ると徳利が段ボールの中で何本も転がっています。

中に1本、買ってくれ!と語りかけているのがあります。私は焼き物には詳しくはありませんが、九谷焼きにこういう地味な色合い、模様があったような、、、。でもそんな事はどうでもいい。値段を聞くと300円、買っちゃいました。

店の奥さんが「どこから?」と聞くので「三重県です。」と答えたところ、奥さんは愛知県出身との事でした。
高知のお土産はこの徳利になりました。

高知出航
15:00、最後の寄港地の高知港を出港です。
出港時にはどこの港も大なり小なりのセレモニーをやってくれますが、高知では”よさこい”で見送りでした。

船室の16Fのデッキからよさこいを見せてもらったのですが、あまりにも高すぎて踊り手達が豆粒にしか見えません。
そうは言っても思い切り元気よく踊ってくれている様子は伝わってきました。
「ありがと〜〜!」

船は岸壁を離れ、増速していきます。

お世話になりました
あっという間に9日間が過ぎてしまいました。明日は下船、最後に船内の主要なところを廻ってみました。

18Fの部屋を出て通路に出たところの正面がレストラン、螺旋階段の下が16Fのラウンジ、上に行くと19Fサンデッキ、朝食などが頂けるクリルバー。などよっとクラブ専用エリアです。

写真の背後は広々としたエレベータールーム、船内全部と通じています。
全て使い勝手のいいレイアウトだと思いました。

最後の夕食
このレストランで3食全部を済ませる方も見えるようです。
顔なじみになったウエイター・ウエイトレス達にはお礼を言っておきました。
フィリピン人が一番多かったと思うのですが、女性マネージャーは明日我々と同じく下船、休暇でフィリピンに帰ると言ってました。
山のようにお土産持って帰るのでしょうね、きっと。

大きな身体のネパール人のバトラー、毎日一言二言放すだけでしたが、感じの良い青年でした。
みんなお元気で、、、。

6Fガレリア・アトリウム
クルーズ最後の夜、ガレリアには乗船客が一杯。みんな最後の夜という事で出て来たのでしょう。明日で下船となると名残惜しい気持ちはみんな同じですね。

16Fに出て夜のプールエリアも見てみましたが、いつもより多くの人がいたように思います。

5Fアトリウムでは女性ピアニストの演奏で女性シンガーが歌ってました。結局、アーティストの前の席で演奏を聴くことができませんでした。いるも満席だったからです。

ヨットクラブ・ラウンジ
広くていい専用ラウンジがあったのですが、全体の利用率は高くなく、ひょっとしたら一番使ったのは私ではなかったかと思っています。

最後の夜もここで締めくくったのですが、例のピアニストが私を見つけるとジャズに切り替えてくれました。お礼に再度チップを渡しておきました
ジャパネットタカタによるクルーズでは、各サービスに対してチップはいらないという事になっていますが、期待以上の事をやってくれた時はチップは置くべきだと思っているのですが、、、。

お別れ、ありがとうございました
レストランにいた唯一の日本人アドバイザーの”MINAKO”さん。ディナーで注文に迷っている人に「2つとも頼んで、味比べしたら?」、とか「余り食べたくない時はメインなしで、アペタイザー2つか3つ頼めばいいですよ。」とか慣れない人にそんなアドバイスもやっていました。

ラウンジバトラーのBASEL君、ネパール出身でちょっと動きは緩慢でしたが、本当に愛想のいい青年でした。

私たちの周りにいたスタッフは若干1名を除きみんな気持ちのいい人ばかりでした。

横浜入港
クルーズ10日目の朝、三浦半島を廻り横須賀沖を通過時、出港したばかりと思われる、我が日本国海軍(自衛隊)の護衛艦が反航。
後で調べたら”あまぎり”3500トンで艦令34年、人間で言えば還暦を過ぎたお婆さん、ですね。
老体に鞭打って活躍のようでした。

横須賀を過ぎると横浜が見えてきました。大黒埠頭に近づくと出港を見送ってくれたランドマークタワーとかベイブリッジが朝日にくっきり。
帰ってきました。

下船です
09:00には船室を出なくてはなりません。下船は10:00からなのでそれまでラウンジで待機。
今回のよっとクラブの用船客は140名でした。
スーツケースは前日の夜に通路に出しておくと、バトラーが船から降ろしてくれてました。

10:00から下船開始、18Fの船客から下船、ラッキー!下船も優先であっという間に通関、スーツケースの受け取りと宅急便発送も終わりました。
タクシーで京浜東北線の鶴見駅まで。

新幹線で名古屋まで
下船は3時間くらいかかる事がある、とか言われていたのでそれを見越した時間で新幹線の予約をしましたが、実際は20分で全ての手続きが終わり、時間をもてあましてしまいました。
結局はダラダラと食事をしたり喫茶店でコーヒー飲んだりして14:00のこだまで名古屋まで。
相変わらず座席はガラガラ、名古屋に着く前にはとうとう車両には私たち2人だけになってしまいました。

自宅には18:00ちょっと過ぎに到着。クルーズは無事終える事ができました。

クルーズの後半は天気にも恵まれ、下船上陸も充実したものとなりました。
寄港地の観光はガイド付きの観光バスでグルグル回るのも過去に経験しましたが、今回は初めての釜山を除き、的を絞って欲張りせず、のんびりと自分たちで歩いて見学をするという方法をとり、これは正解でした。

今までのクルーズと比較してベリッシマの場合違う点がいくつもありました。
洗濯はコインランドリーがなく、自分でするかランドリーサービス(20点で30ドル、40点で50ドル)を利用する、のいずれかになります。

日本人は部屋の中に物干しの紐を張り巡らせて、洗濯物を乾したりする人が多いですが、日本以外に人は部屋に洗濯物は乾しません。船室はリビングと同じ扱いで、普通の家でもリビングに洗濯物を乾さないのと同じです。
洗濯を自分でやって乾かす場合は、洗面所かシャワールームというのが一般的な方法になります。

レストランとかその他のバトラーは日本船に比べると「気が利かない」になります。しかしはっきりと「して欲しいこと」を言えばやってくれます。そんな事言わなくてもわかるだろ?はダメです。
この辺も日本船と違うところだと思いました。

その他いろいろあるわけですが、これは別コラムでコメントしておきたいと思います。。