本との付き合い(2021年01月29日) |
ボクが書籍・雑誌のPDF化について話をすると、「そんな大量にPDF化して、その本なりを再度見る事はあるのか?」、という質問を必ず受ける。 これに対するボクの答は、「あるとも言えるし、ないとも言える」、だ。 PDF化をした理由の一つに、ボクは本をゴミとして捨てられない、というのがある。 本は何かの目的があって買い、そして時間を使って読み、新しい知識なりを与えてくれるもので、読み終わってもその本には大袈裟に言えば愛着が残るのである。 読み終わった本は片っ端から捨てるという人がいたが、その人はボクとは本に対する考え方が違うのと、小説しか読まない人であり、話は全くかみ合わなかった。 「小説も芸術の一つである、芸術は美しくなくてはならない。芸術は大衆のものでなくてはならない、芸術はわかりやすくなくてはならない。 小説は娯楽である、小説は理屈抜きの面白さがなくてはならない、小説とはこれらを満たすために書いた作り話である。」、と浅田次郎は言っている。 この人のいう事はよく理解できるのだが、ボクはいつからそうなったのかよく覚えていないが、他人の作った”作り話”に殆ど興味がなくなってしまったのである。 思い当たる理由が3つほどあるが。 ある小説家がカフェで外を眺めているとひとりの若い女が通り過ぎ、ナゼか気になった。 しばらくしてもう一人の別な中年の女が通り、彼女が先の女の未来の姿に重なり、2人の間の架空の時間を一気に300枚のストーリーで書き上げたという小説、面白そうだけどそれを読んでみたいとは思わない。 ボクはかなり前から事実を正確に積み上げて書かれた歴史小説など以外は読む気がしないのである。ボクが今読むのは歴史関係、国際関係、社会・経済関係、これで90%くらいだ。 |
ボクは今までに吉川英治、児島襄、遠藤周作、松本清張、司馬遼太郎、吉村昭、浅田次郎、塩野七生、その他多くの作家の作品を読んだ。松本清張は100編以上、吉村昭は全部とは言わないが大体読んだ。 吉川英治、遠藤周作はまだ何でも読んだ時で、特に吉川英治は読み出したら止まらなかったのを覚えている。親鸞、三国志、宮本武蔵、新平家物語などは人を吸い込むようなストーリーと文にのめり込んだ。 司馬遼太郎の”坂の上の雲”はノンフィクションと思い込み読んだ後、何十年も経ってから肝腎な部分がフィクションになっているのを知った時はちょっと複雑な気持になった。 一方で小説家の書く随筆(エッセー)は好きである。 作家が持つ見識・経験などに、その人の感性・思想などを練り込んだ様々なテーマを文章にしたもの、というのがボクの随筆に対するイメージだ。 この前、塩野七生の随筆を読んだ。 この人はイタリア史、ヨーロッパ史の半端ではない知識と理解を持つ作家である。 そして長年のイタリーの生活を通じて見た日本人・日本社会・政治などについての意見・考えは興味深い。 蓮田壽賀子を手玉にとって、おちょくっているのも面白かった。 直木賞とか芥川賞を受賞後に長く生き残った作家の随筆は面白い。感性と文筆力があっても、見識・知識を磨いていない作家はやがて消えていく。 見識・知識は努力をしないと身につかない。 これは凡人も作家も同じだ。 ボクは最近そういうのが少し見えるようになってきたような気がする。 |
書籍・雑誌類、それに様々な資料、メモなど殆どはPDF化したので身の回りもかなりすっきりした。 ところが、、、昨年の8月頃から歴史関連の書籍を本格的に買い集め出し、積み上げると1m以上になってしまった。半分以上は”みすず書房の現代史資料”であるが、これはしばらくは本棚に置いておく必要がある。 そんな訳で本を置くスペースがなくなり、本棚を整理しなくてはならない。 本棚は旅行関係の本とパンフレット、それに仕事関係の専門書がスペースをとっているのでこれをPDF化、及び廃却する事にした。 60cmくらいはスペースが作れそうである。(ウサギ小屋マンションでは本棚60cmは貴重なのです。) 広くないマンション住まい、少しでもモノを減らさなくてはならないと思っているのに、モノは少しずつ増えていく。 こういう悩みは広い一戸建てに住んでいる人にはわからないだろう。 コロナでどうせどこにも行けない状態だ。時間は十分に取れる。書籍だけではなく無線のガラクタを含め身の回りのモノ減らしを徹底的にやるか〜。 これって前にも宣言したかも、、、。 |