予言者だったオバさん(2021年02月01日)
この前ある雑紙を読んでいたら退職NG集というのを見つけた。なかなか的を得た内容ばかりだった。その中でボクの知人などに5つが当てまった。

1.起業はNG
リスク大、なけなしの財産をなくす事になる。ボクは数人そういう連中を知っている。現役社員時代の力を勘違いしないこと。また共同経営はダメ。必ずどこかで意見の対立が起き、破綻する。割と忘れがちなのは「話してもわからない人もいる」、ということ。わかったようでも心の底から合意はできないのだ。

2.そば打ちはNG
人を呼んで昼から酒飲み、そば屋を開く?大きな勘違いだね、絶対に。これは一時期退職後の趣味と実益を兼ねたものという事でもてはやされた。多くの人がそば打ちを始め、ほとんどが今はやっていない。
ハッピーだったのはそば打ち道具を売った商人のみ。

3.作務衣はNG
作務衣とは修行している坊主が着る服だそうだ。部屋着で着るのは構わないがこれで外出、買い物はもってほか。精神が弛緩する。ボケるぞ。退職しても 散髪、ひげ剃り、プレスの効いたズボン、ラッシュアワーの電車に乗っても違和感のない格好、これが基本じゃないか。

4.ペンション経営、田舎暮らしはNG
いつまで健康でいれるのか、65才で始めたら5年かも。また田舎暮らしほど大変な事はない。近所づきあいの煩わしさ、それにとにかく不便なところが多い。退職後は「便利さ」を求めた方がよい。海外移住は自分達の住まいを日本に残したまま、いつでも帰れるようにしておく以外は論外。

5.熟年離婚はNG
生活基盤がほぼ崩れる、年金・財産は分割、老後の生活設計の前提が崩れる⇒「亭主元気で留守がいい」、これがベスト。ボクは時間の半分くらいは夫婦別行動でもいいんじゃないかと思ってる。夫婦で旅行しても1日に何時間か別行動をとるという人もいるが、これも”あり”だね。

宮古島でコロナ感染が拡大し、これに対応するためにデニー玉城沖縄県知事は自衛隊に災害派遣を要請、これを受けて陸上自衛隊第15旅団は後方支援隊から5名の看護官を含む15名を宮古島に派遣したそうだ。

このニュースを聞いてボクはヘーッと思ったね。
沖縄は自衛官の成人式参加には反対、自衛隊が米軍と協同訓練をやるなんてもってのほか、自衛隊は沖縄から出て行ってくれ、ということじゃなかったのだっけ。自衛隊はデニー君の天敵だろ?

沖縄県知事というのは(コロナ下の今は知らないが)頻繁に北京に行っているのは誰もが知っている事実だ。何でそんなに北京に行く用事があるのかボクは知らないが、東京には来ないが北京にはいそいそと通っている。

この前焼けた首里城は宮城ではなく昔から北京の方を向いている、沖縄から東京までより北京の方が近いのだ、と常々デニー君グループは宣っている。

であれば自衛隊ではなく、お友達の北京政府に支援の相談をするのが筋というものだろ?
この理屈、無茶苦茶だけどそう思いたくならないか?

コロナ拡大の原因は、先日の宮古市長選の当選者座喜味一幸氏が、当選祝いの大宴会をやったのが原因だと言われている。
このオジさん、社民(そんな政党あったっけ?)、共産その他の支援を得ているデニー君のシンパで、筋金入りの自衛隊反対勢力でもある。

15名の自衛官は具体的には何をやるのか明らかにされていない。
きっと”ネコの手”になるのだろう。

しかし何でデニー君は自衛隊に災害派遣要請なんかしたのだろう。ブラックユーモアとさえ思える。自衛官15人の2週間分の人員を沖縄県ほどの潤沢な予算を持っている地方自治体が手当、工面できないわけがない。この災害派遣要請、何か別な意味があるように思えるが考え過ぎか。
(デニー君の日本政府に対する逆踏み絵、とか、、、。)

冗談はさておき、ボクはこの件で、「立っている者は親でも使え」、と言う諺を思い出した。
緊急とか急ぎの場合は傍にいる誰でもいいからそれを使え、という意味だ。デニー君もちゃっかりしているね。

この後の彼の発言と行動が楽しみだね。天敵にお願いをしたのだからね。

「こんな日本、つくずくイヤになりました。」
これは今から35年前に本社に転勤、ボク達家族が埼玉県新座市に引っ越してから1〜2年経った頃、マンションの郵便ポストに投函されたビラに書いてあった。

ボク達が住んでいたのは東武東上線の柳瀬川駅から徒歩12〜3分くらい、志木市にある志木ニュータウンを通って、新座市に入って20mのところにあるマンションに住んでいた。
娘達は近所の小学校に毎日通っていた。上の娘のクラスの同級生のお母さんだったと記憶しているが、共産党員で(多分お父さんも)、PTAとかを引っかき回していた。

あれはおかしい、これはおかしいと仲間を作って学校にねじ込んでくるのである。こういう連中は声がでかくて同じ話を延々と繰り返す。誰も話を遮る事もできない喋り方をする。

で、30秒くらいで話せる事を5分くらいかけてまくし立てる。聞いてる方はうんざりだが、途中で反論などをすると更に5分長くなるのでみんな黙っている。
結果その意見が多数となる。

運動会で見学に来た親と子供がお弁当を一緒に食べるのはやめ、徒歩競争では予選をやって大体同じような早さで走る子でグループを作って走らせる、一等から三等までの賞品はなし、そういう「余計なお世話改革」を教員組合とグルになってどんどんやってくれた。
何でも”平等”が大事だとか言ってたね、確か。

そのオバさん活動家はビラ配りと家庭訪問も熱心で、そのビラに書いてあったのが、「こんな日本、つくづくイヤになりました。」、から始まる学校改善の要求だった。
肝腎な改革の内容は思い出せないが、ビラに書かれたこの一文だけは今でも強烈な印象になって残っている。

実は、、、ボクは後でそのオバさんに言ってやったね、ボクも超元気だったね、その頃は。
「あんた、そんなに日本が嫌いだったらソ連(当時はこの国はまだ生息していた)かどっかに行ったら?私も学校も何も困らないよ。」

それからしばらくしてこの家族はソ連、じゃなくて都内に引っ越して行った。
ボクは最近思う。このオバさん活動家の言ったこと、ひょっとしたら大当たりの予言だったのかと。

だってボクも最近、この共産党のオバさんのキャッチフレーズと同じ事を言うようになってきたので、、、。