正義の国、ニッポン(2021−07−25)
ボクはヨーロッパ各地をはじめ南北アメリカ、フィリピンなどのキリスト教国では古い教会を訪ねる。
キリスト教弾圧を今もやっている中国・旧満州のハルピンでも訪れた。NYCマンハッタンのど真ん中にも幾つかの教会があるので、ブラッと入った事もある。

クリスチャンではない異教徒のボクがナゼ教会へ行くのか?
ボクは古い教会はその国の歴史が凝縮されている場所という観点から大いに興味がある。
古い歴史的キリスト教会は世界中にあり、荘厳さと美しさに圧倒されそうになる。

こういう教会であるが中南米に行って教会とその歴史を知ると無邪気にはしゃげない。
中南米のキリスト教の歴史はそれらの国々に対するスペイン、ポルトガルの侵略の歴史と見事に重なる。

メキシコに行くとキリスト教会の殆どがメキシコ先住民の土着宗教の祭壇などの上に建てられたという。

つまり土着宗教を潰し、キリスト教による先住民の宗教支配により、効率のいい植民地化を行なった証のひとつが教会である。

スペイン等による侵略・植民地のやり口と歴史に、日本人はナゼか興味を示さない。
アメリカがほんのこの前、日本の明治の頃フィリピンで何をやったか、これだけは日本人は絶対に知るべきである。
信じられない事やっている。

16世紀〜19世紀の東南アジア諸国に対するイギリス、フランス、アメリカ、オランダなどの黒い侵略の歴史は中南米へのそれと全く同じだ。

日本も16〜17世紀に餌食になりそうだったが時の権力者がキリスト教の布教を許さず、日本を救った。

豊臣秀吉、徳川家康、特に徳川家康はキリスト教布教の裏に見え隠れする危険な刃を見抜いていた。

一方19〜20世紀の日本による台湾統治、朝鮮併合、満洲建国をこれらと比べると180度、いや10回くらい回って1800度くらい違う。全く違う。

「日本のアジア侵略」を叫ぶ連中は多いが、侵略とは何かを知っているとは到底思えない。

というより、彼等の本音は別なところにあるので、そいう事はどうでもいいのだろう。
侵略とはスペイン、ポルトガル、フランス、オランダ、イギリス、そしてアメリカが何百年間に渡ってやってきた事を言う。

それはともかくボクは教会に行くと必ず見るものがある。それは信者が懺悔をする"懺悔室"だ。大体が礼拝堂の左右の側に小さな小さな部屋がある。どこに行ってもこれを詳しく見ている日本人はボクだけだ。

懺悔とは自分の犯した"あやまち"を神であるイエスキリストに(実際は神父に)告白し、心を浄化する事だ。浄化とは自分の罪を自分の中から消し去る事だ。

ボクはメキシコに行った時そこの駐在員に、「メキシコ人は皆熱心なキリスト教徒なのに何でコソ泥のような悪いことをするのが多いのか。」、と冗談で聞いた。

「コソ泥達は毎日曜には熱心に教会に行って懺悔をするので自分の罪は神様が一生懸命に洗い流してくれると思っています。
だから彼等は毎月曜から新たな気持で仕事に励むのです。結果、コソ泥は減りません。」
彼の答えは勿論ジョークである。

異教徒ではあるがボクはキリスト教の核心のひとつである罪について少しだけ調べて考えるという暴挙に出てみた。
先ず"許す"であるがこれは"赦す"である。”赦す”はズバリ、「罪、とがを免ずる」、である。

キリスト教では、「告白をして、そして相応の償いをした者の罪は赦す」、となっている。日本にも"赦す"という考えはあるが神の赦しを得る、というのではない。
そしてキリスト教では、「自分の罪を"赦す"ために人の罪を"赦せ"」、となっている。これはキリスト教の大きな特徴の一つと理解した。

先日東京オリンピックの開会式の作曲を担当していた小山田圭吾という作曲家が辞任したというニュースを聞き、ボクはナゼかキリスト教の罪と懺悔をぼんやりと思い出した。

辞任をさせたのは彼の30年前の罪を赦さない人達の声である。これらの人達の声は正しいのだろう。
この人に懺悔をして罪を赦してもらえる機会はあるのだろうか、、、。

ボクは思った。
この件とは別に現代の日本人は罪を犯した人を葬る事に随分と熱心なように思う
そして知らずのうちに他人の罪を自分の正義の主張に利用している感じもする。

正義の押しつけもよくやる。
正義とは言うが実は正義のフリをした唯の一主張だったりする。
でも正義だからという事で何だか質問もやりにくい雰囲気を作る。本当は正義でも何でもないのだが、これに反論でもしようものならパッシングを受ける覚悟が必要だったりする

今の日本人は罪に対して残酷で陰湿、かつ冷酷で容赦ない国民にみえる。そして罪に対比させる正義を振りかざして他の意見を封じ込めているように見えて仕方ない。これってボクの目がおかしいのか。