日本人の弱点、か?(2022−02−10)
ボクの娘はアメリカの高校を卒業して日本の大学に入り、卒業して中学の教員になり、その後高校に行った。
大学は人文何とかだったので、こりゃ遊びにうつつを抜かすなと思い、教職を取るように言っておいたのが結局は役に立った。

娘は教育実習で中学校(何とボクの卒業した中学校)に行ったのだが、そこの指導教員と大揉めにもめてアメリカにいるボクのところまで電話が掛かってきた事があった。揉めた原因は指導教員(男30代)の指摘等に対して、娘が細かい質問と自分の考えをいろいろと言った事によるらしかった。

アメリカでは理解できない、納得できない事は即質問をする。相手は基本的にその質問に丁寧に答える。

一般的に指示、指導、或いは意見を述べた方は最後に「何か質問は?」と相手に問う。
受けた方は理解できた場合でも感想等のコメントを出す事を教育される。

このキャッチボールがコミニケーションの基本、という考え方からだとボクは思う。

極端な話、質問・コメントがないというのは聞き流している、理解しようとする努力をしていないという解釈になる場合がある。

また指摘、指示、感想など言う方は、なぜ(why)そういう内容になるのか、その理由を説明するのが普通のやり方だ。これは学校でも、家庭でも、会社でも同じである。

「それはダメ」と言ったら何故ダメなのかをキチンと相手にわかるように言う。「それは良い」と言ったら何故良いのか、「それが欲しい」と言ったら何故それが欲しいのか、その理由を言う、と言った具合である。

お母さんと子どもの関係でも同じで、お母さんの指示に子どもが「イヤ!」とか言ったら、お母さんはすかさず「Why?」とやるので子どもは一生懸命に”Because”を考える。(親を説得できる訳はないが。)

お母さんが自分の小さな子どもの前にしゃがんでその子の目をジッと見て、指を立てながらゆっくりとしゃべって言い聞かせているのをボクはスパーの店内で何度か見た事がある。
これも”Why/Because”のひとつだと思う。

その前にアメリカでは子どもがダダをこねた時は、人前でも子どもの尻をバシッとやるお母さんも多いが

これで泣いたりしたらお母さんから「何で泣くの?これが貴方の返事?」とやられる。
だから子どもは泣いても何の足しにもならない事を知り、答えを一生懸命に考える。
答えはつまり”親の言う事を聞く”、になるのである。

もちろんやり方は年令と共に変わってくる。
ある年令になったら「自分の考えで行動しなさい」、と自立を促す。
日本のように子どもにも”人権”があるとか言って、教育もしないで「さあ考えなさい」等というのは有り得ない。

注意したいのはこれはアメリカの話であるから各家庭における躾け・教育の違いは日本とは比べものにならないほど大きく、どういう人達の誰を見るかで全く違ってくるのは言うまでもない。

で娘はどうなったかと言うと、教習が終わって実習成績を見た大学の先生から、「おい、何かあったのか?」、と言われそうだ。かなり感情的な所見が書いてあったらしい。

娘の話をいろいろ聞くと実習に対する指示、注意事項、などに対して疑問、理解できない事また確認の意味等で質問をしたところ、「言われたとおりやれ」、「いちいち聞くな、自分で考えろ、そんな事もわからんのか」、「オマエみいたいなのは初めてだ!」、みたいな感じでその指導教員がヘソを曲げてしまったという事のようであった。
かなりいい加減な(と娘は思った)、言いっ放しみたいなのが一杯あったらしい。

日本では質問とか意見の発言は時には指示・指摘などに対する反発の意思表示と解釈される事がある、 また日本では相手の言う事がわからない、と言うのは相手に恥をかかせるという考えもある、というのを娘も学んだようであった。

アメリカでは質問は指示などに対する真面目な取り組み姿勢の現れ、また相手の言う事が理解できた場合は”何がどう理解できたか”を簡単に言う場合も多い。

いわゆる”イジワルな質問”というのも勿論あるが、これなどにはニッコリしてグサッと切り返すみたいな、技(ワザ)も必要になる。

”That's a good question.”、これはアメリカ映画などでよく耳にする。会社でもよくあり、質問を受けた側が答えるフレーズである。

映画では「うん、そりゃ良い質問だね。」とか訳しているが、あれは「おっ、痛いところ突いてきたね、君は。」、と言う意味である。
”a good question”は決して”良い質問”ではない。

アメリカでも質問に対し、「私が答えを出すのではなく、それは君が考えるべき事、君の立場はそういう事だ。」、などという返事も勿論ある。しかしこれは質問に答える事を”拒否・無視”した言い方ではない。

質問をしてそれに答える、互いにより理解を深める、そういうやり方を重視する事ををボクはアメリカ人と仕事を始めてしばらくしてわかった。
ボクの娘の教育実習の指導教員のように質問に対して青筋立てて怒るというのは、言った事の根拠が希薄であると見なされ、そういう発言はゴミ箱行きと考えて良い。

アメリカの会社では部下の質問を無視したりすると質問した方は、「私の質問は妥当であったにも係わらず、それに答えてもらえなかった。私は無視された。」(双方の人種が違えば立派な人種問題になる)とか、その他職場の問題も含めて社員のそういう苦情を受け付ける特別な部屋に専任のスタッフが数名いた。

これと根っ子の部分で似たような事がボクの会社の本社でもボクがアメリカに行った直後にあった。ボクのいた会社は海外とのやりとりが非常に多い。
そこで当時世の中で目立ち始めていた"帰国子女"を言葉の壁がなく、物怖じしないで外国人とやりとりができる、国際感覚を身につけている(実はものすごくバラツキが大きかったのであるが)ということで採用をした。

ところがこの採用した何人かの帰国子女、本社の管理・監督者は使いきれなかったのである。「自己主張が強い」、「個性が強い」、「チームワークに積極的ではない」、等々でもてあましたのである。

ボクが聞いた話しでは結局は彼等、彼女等は自分の上司を結構質問攻めにしたようであった。何せ質問は熱意の表れであるのだから。
日本では指示などは時としてかなり曖昧であってもそれは許される
事がある。

帰国子女は日本人だから日本人の顔をしている。
職場の先輩・上司は今までの新卒採用の日本人と同じように接して仕事をさせようとした。

しかし彼等彼女等のメンタリティーは外国人だと思って接する必要があった。”帰国子女”、だから。

結局はこの”日本人の顔をした外国人達”、本社では思ったように使いこなせず、入社した彼等彼女等も、何年もしないうちに多くが辞めてしまった。

先日現役のYさんからの話ではボクの(元いた)会社では再び帰国子女採用が進み、アチコチの部門で仕事をするようになっているそうだ。
問題はないのか聞いたところ、いわゆる割り切った考え方などは帰国子女と今の若い一般の社員との間に以前ほどの違いがなくなっており、これらをマネージメントする側も大きく変わってきているそうだ。

ボクはこういうコミニケーションギャップの根底には”why/because”に基づくコミニケーションが日本(人)では根付いていない、希薄であるのが要因の一つだと思っている。
何かをAからBに伝えようとした場合、Aはその内容の”why/because”をBにわかるように説明し、Bは”why/because”でそれに答える、そしてお互いから”question”を解消するというカルチャーである。

この”why/because”はハリウッド映画をそういう目で観ても頻繁にあるのに気が付く。ボクはアメリカではローカルTVをよく見ていたが、これの中で頻繁に行われる一般市民への何かのインタビューにおいても”because”が子どもでもそれなりに表現されている事に気が付いた。

遊園地で子どもにインタビューすると日本の子どもは、「楽しかった、、、。」と小さな声で言うだけであるが、アメリカの子どもは”楽しかった”、そしてその後にそれなりの”because”を言うところなどボクはナルホドと思う。

ボクは外国人とコミニケーションをとるには英語とかの言葉の問題以前に”why/because”できちんと日本語で考えて言葉にできる事が基本だと常々思っている。

最近英会話能力を身に付けさせるためとかで小学生から英語をやってるらしいが、20才になっても「うっそ〜!、スゴ〜い!」、しか言えないようでは勉強する順番が逆だと思うのだが、違うか?

話はちょっと飛躍する。
先日ある本を読んでいたら17世紀のフランスの文学者・思想家”ヴォルテール”がこう言っていると書いてあった。

「うんざりさせるための秘訣は、なんでもかんでもしゃべることである。」

ボクはこれを読んだ瞬間、自分の意見・感想と他人の意見・感想、それに事実と推測と希望と夢をグチャグチャにしてよどみなくしゃべるが実は意味が殆ど理解できない、あの元大○市長の橋○何とかという男の顔が頭に浮かんだね。

彼の話は言語明瞭ではあるが意味不明”、”why/because”がメチャクチャの不思議な喋り方である。やっぱり政治家はああいうのがいいのか。