東京江戸博物館(2022−04−08) |
江戸は何度も大火に見舞われている。博物館ではこれの展示と説明はかなり詳しく行われている。江戸全部が灰燼になってしまった、とかの大火以外に江戸はとにかく火事が多かった。 家は木と紙と泥でできており、更に江戸は(特に町人のエリア)家が密集していた。それらの家々の中では炊事と夜の灯りに火を使っていた、、、。火事が起きないわけがないのである。 多発する火事に対して多くの火消組織があった。博物館には当時の消火用具が展示されていて、これを見入ると「エー!」となる。ズバリ、火を消す道具とは思えないほど貧弱である。 一応消火水を放出する木製のポンプもあるが、どう見ても先にポンプが燃え尽きてしまいそうだ。 じゃ辰五郎の"め組"はどうやって火を消していたのか。これもこの博物館の説明は明快である。 「徹底的な"破壊消火"」 つまり延焼を防ぐため風下にある可燃物(多くの場合家)を取り除くのである。 "め組"の仕事はこの破壊作業だった。 説明によると、町方の長屋などは最初から簡単に壊せるように作ってあったそうだ 辰五郎が「あそこから30軒の長屋をブチ壊せ!!」、と言ったら問答無用、全部たたき壊された、こういう事である。 火消しは”町火消(町人火消し)”、”武家火消(武士火消し)”、”定火消し(旗本火消し)”それに”大名火消し”など、組織されていた。辰五郎は町火消し”いろは四十八組”の中の”め組”という事になる。 食べものについて、江戸はファーストフードの町でありソバ、天ぷら、そして握り寿司が代表的である。 お総菜も”棒手振り”が売って歩いていたそうだ。棒手振りと言えばボクは子どもの頃は津に住んでおり、近所の農家の人が天秤棒で野菜とかを売りに来ており、母親は彼等の事を”振り売り”と呼んでいた。 それはともかく、握り寿司は江戸中期に完成、これの歴史もなかなか興味深い。展示の中に当時の握り寿司の模型が並べられている。 ぱっと見は同じに見えるが一貫がとてつもなくデカイのである。 今我々が寿司屋で口にする3倍くらいのシャリの量である。一見、小さめの握り飯にネタを乗っけたもの、と言えなくもない。(写真のスマホと比較) ボクはアメリカに転勤になって3年目に家族でボストンに行ったのであるが、ある日本レストランで出されたのが"握り寿司"ではなく、間違いなく"握り飯寿司"だったのを鮮明に覚えている。 シャリを多くしないとアメリカ人の腹を満たすことができないからだと思った。 それはともかく、これだと5〜6貫も食べれば十分じゃないか、、、。だが江戸時代の人は"ひとり1日5合"の米を食べていた、という記録がある。 今の感覚では5合は多いように思えるが、この頃"この四合野郎"という言い方があり、これは5合の飯も食えない”半人前の男”、という意味だったそうなので5合は間違いなさそうだ。 ちなみに旧日本陸軍の兵1名1日当たりの定量は米5合に麦1合(明治時代は白米6合)となっている。 |