東京江戸博物館(2022−04−08)
ボクは40才後半の頃から日本の江戸時代について興味を持ち、自分なりに少しずつ調べるようになった。
江戸時代とは徳川時代とも言われ、家康が征夷大将軍になった1603年から1868年の明治維新(王政復古)までの260年間を指す。

この260年間は鎖国という日本の歴史、いや世界の歴史の中でも極めて特異な時期で、少数の例外を除き外国との交易・交流を断ち切って独自の文化・文明が育まれた

特筆すべき事は、この260年間、外国との間のみならず、国内でも一切の戦争がなかった事であろう。これらに関しては「平川新著:戦国日本と大航海時代(中公新書)」に詳しく書かれている。

この本は日本が鎖国をしていた間に、世界中で白人達が何をしていたか実によくわかる。

彼等は右手に聖書、左手に剣を持って欺瞞、略奪、人殺し、占領、搾取等、あらゆる悪事を行っている。

日本がこういう世界から切り離されて生き残れたのは奇跡とも言えるが、では日本がこれら白人の植民地にならなかったのは何故か、これは現代にも通じる幾つもの具体的な理由と教訓がある。

それはともかく、ボクが江戸時代に興味を持ったのは、現代の我々の生活のかなりの部分が江戸時代からの延長線上にある事に気が付いたからであった。

現代の我々の生活、文化などについて昭和、大正、明治と遡っていくと、その根の多くは江戸時代にある。
ではこれらは江戸時代に突然生まれたのかと言うとそんな事はない。しかしボクらが簡単に目にできる江戸時代以前の図書・文献は、江戸時代以降に比べて極端に少なくなり、調べるのが困難になる。

そこでボクは今の我々の生活・文化などの原点を江戸時代に置き”趣味のひとつ”として調べて遊んでいる。

やってみてわかったのだが江戸時代は調べれば調べるほど現代、特にボクが子どもの頃に見たり聞いたりした習慣、考え方などと繋がりがあるのに驚いた。
誰だったか、「今の我々は江戸時代の人と基本的に同じような考え方・生活に電話(通信)と車(移動手段)を加えただけではないか。」、と言っていたが100%間違いではないと思う。

例えば食べものである。ボクが成人するまで食べていた母親の手料理の半分くらいは、江戸時代の人も口にしていたものである。
またサラリーマンの上司と部下の関係など部分的ではあるものの、江戸時代の武士の世界にそっくりだ

最近は個人が使う事はほとんどなくなった”為替”は江戸時代に作られた。これってスゴいと思う。

日本全国にあったXX信用組合、XX信用金庫などは、遡ると江戸時代の頼母子講にたどり着く。(頼母子講は親睦組織に近い形で沖縄の田舎には今でも残っているのを10年くらい前に知った。)

日本が明治維新で開国をして欧米の工業を導入、何とか欧米の背中が見えるレベルに達し一応近代国家の体をなし、軍艦まで作れるようになったのはチョンマゲを切ってたった30年後である。
(大東亜戦争の後、アジアの国々は西欧諸国の植民地から独立をして70年以上が経った今でも、もたついている国があるが、この原因・理由に注目したい。)

これも江戸時代を知れば、日本がなぜかくも急に近代国家に生まれ変わる事ができたのか説明できる。江戸時代には既にロボットを作り和算は西洋数学と同等レベル、貨幣経済の普及により武士も庶民も和算が使えた、そして武士の識字率は100%、町人・百姓でも男は60%、、、どんな社会でどんな仕組みになっていたのか。

興味は尽きないのである。

3月の初め、ボクは東京に行く用があり1週間ほど滞在した。用件は飛び飛びの日程であったので効率は悪かったが、空いた時間を利用して久しぶりに両国の東京江戸博物館に行ってみた。

ここは東京江戸の歴史、文化に関する資料収集・保管・展示を行うところで地下1階、地上7階で延べ床面積が約48000uもある巨大建物の中にある。
行って案内を見てびっくりした。4月1日から3年間、リニューアルのために閉館となっている。運良く、いい時に来たと思った。

ボクはアメリカ、ヨーロッパなどにある、いわゆる有名美術館・博物館にそこそこ行ったことがあるが、東京江戸博物館はテーマ博物館としてはマズマズの規模ではないかと思う。

規模で言えばワシントンDCのスミソニアン博物館群、あそこは朝から晩まで足を棒にしても2日、3日でも見切れない。
全部見るには最低5日は欲しい、とかいうケタ違いのところもあるが、これは別格。

いずれにせよここは当時(江戸時代から現代まで)をわかりやすく説明するために多くの精密な模型・ジオラマ、そして実物が展示されており、見応えがある。
何度来ても「ホー、ナルホド。」となる。

この博物館で唯一不満なのは、江戸時代(もっと前から)の既婚女性は百姓などの一部を除き、歯を黒く染める"お歯黒"と眉を剃る・抜く”引き眉”をやっていた、、、という展示・説明がない点である。

”お歯黒・引き眉”は多くの人が知っているにもかかわらず、ナゼかその顔人形・絵はおろか説明すらない。テレビや映画に出てくる江戸時代の女性の顔は現代の女性と同じような顔をしているがあれは違う。

階層、年令、未婚・既婚などによってやり方は少し違うものの、基本的に既婚女性の歯は真っ黒に染め、眉毛は全部剃り落としていた

お歯黒・引き眉は様々な理由があるが、今の我々が見るとかなりグロテスクである。

お歯黒の理由の中に顔を柔和にさせる、というのがあったりする。言われればそうかな、と思えなくもないが当時と今の美意識の違いは越えがたい何かがある。

江戸末期には多くの外国人が日本に来るようになり、これには相当にショックを受けたという記録が多数ある。
「醜悪である、奇風である。」、とこき下ろしている。

お歯黒・引き眉は大陸から伝わったようであるし、日本以外のアジア各地・台湾の原住民などにもその風習はあったと聞く。

知っておかねばならない事は、日本ではほんの150年前まで殆どの女性はお歯黒と引き眉をしていた、という事実(歴史)である。
つまり、美意識とは変化するものであり、これらを今の見方で判断してはいけない。考え方などもしかり、今の物差しで当時を判断したり善悪で捉えるのは十分に注意する必要があるという事だ。

しかし、、、浮世絵を見ると眉がきっちり描かれている女性が多いが、あれは剃った眉の上から墨で眉を引いたりする事もあったからだそうだ。

江戸は何度も大火に見舞われている。博物館ではこれの展示と説明はかなり詳しく行われている。江戸全部が灰燼になってしまった、とかの大火以外に江戸はとにかく火事が多かった。
家は木と紙と泥でできており、更に江戸は(特に町人のエリア)家が密集していた。それらの家々の中では炊事と夜の灯りに火を使っていた、、、。火事が起きないわけがないのである。

多発する火事に対して多くの火消組織があった。博物館には当時の消火用具が展示されていて、これを見入ると「エー!」となる。ズバリ、火を消す道具とは思えないほど貧弱である。
一応消火水を放出する木製のポンプもあるが、どう見ても先にポンプが燃え尽きてしまいそうだ。

じゃ辰五郎の"め組"はどうやって火を消していたのか。これもこの博物館の説明は明快である。
「徹底的な"破壊消火"」
つまり延焼を防ぐため風下にある可燃物(多くの場合家)を取り除くのである。

"め組"の仕事はこの破壊作業だった。
説明によると、町方の長屋などは最初から簡単に壊せるように作ってあったそうだ
辰五郎が「あそこから30軒の長屋をブチ壊せ!!」、と言ったら問答無用、全部たたき壊された、こういう事である。

火消しは”町火消(町人火消し)”、”武家火消(武士火消し)”、”定火消し(旗本火消し)”それに”大名火消し”など、組織されていた。辰五郎は町火消し”いろは四十八組”の中の”め組”という事になる。

食べものについて、江戸はファーストフードの町でありソバ、天ぷら、そして握り寿司が代表的である。
お総菜も”棒手振り”が売って歩いていたそうだ。棒手振りと言えばボクは子どもの頃は津に住んでおり、近所の農家の人が天秤棒で野菜とかを売りに来ており、母親は彼等の事を”振り売り”と呼んでいた。

それはともかく、握り寿司は江戸中期に完成、これの歴史もなかなか興味深い。展示の中に当時の握り寿司の模型が並べられている。

ぱっと見は同じに見えるが一貫がとてつもなくデカイのである。
今我々が寿司屋で口にする3倍くらいのシャリの量である。一見、小さめの握り飯にネタを乗っけたもの、と言えなくもない。(写真のスマホと比較)

ボクはアメリカに転勤になって3年目に家族でボストンに行ったのであるが、ある日本レストランで出されたのが"握り寿司"ではなく、間違いなく"握り飯寿司"だったのを鮮明に覚えている。

シャリを多くしないとアメリカ人の腹を満たすことができないからだと思った。

それはともかく、これだと5〜6貫も食べれば十分じゃないか、、、。だが江戸時代の人は"ひとり1日5合"の米を食べていた、という記録がある。

今の感覚では5合は多いように思えるが、この頃"この四合野郎"という言い方があり、これは5合の飯も食えない”半人前の男”、という意味だったそうなので5合は間違いなさそうだ。

ちなみに旧日本陸軍の兵1名1日当たりの定量は米5合に麦1合(明治時代は白米6合)となっている。

江戸長屋は協同トイレであったがこれも再現されている。大も小も全部木で出来ている。小の方の作りはボクが子どもの頃、つまり昭和30年代に親戚の寺に行くと、いくつかのトイレの中のひとつがそれだったのを覚えている。
函館の五稜郭の中にも江戸末期のトイレが再現してあるが基本的にこれと同じである。

江戸時代は排泄された液体、固形物は溜肥として百姓に売られた。長屋では売ったお金は大家さんのものになったそうである。

ボクの年代の田舎育ちは、農家は下肥を使っていたのは知っているはずだ。ボクの家は新興住宅地にあったので、数分歩くと畑と田んぼが一杯あった。

17世紀の頃から一般庶民も使えるトイレが完備していた江戸(日本)、これに対して欧米では20世紀になるまで一般の家には、トイレはないのが普通だった。

催した時はどうしてたか?全てオマルに出して、それをす毎日棄てていたのである。
ヨーロッパの街では窓から道路に棄て、田舎では裏庭にジャー、だった。
これはヨーロッパ旅行に散々行っているオバサンも知らない人が多い。知っとけよ、とボクは言いたい。

フランスのベルサイユ宮殿にみんなが使えるトイレはない。舞踏会に来る人はオマル持参だったという。ボクはヨーロッパの各国でお城に行ったが、トイレを見た記憶はない。風呂もシャワーも見た事はない。

ボクが住んでいたオハイオにはエジソンの育った家が残っていて、見学に行ったことがあるがここも寝室にオマルが置いてあるだけで、トイレはなかった。

説明の女性によるとオマルの中味は裏庭に棄てるだけだった、とやはり言っていた。
もちろん風呂はない。大きなタライはあったが。

風呂であるが欧米は風呂に入る習慣がそもそもなかった、いや今でもない。
これに比べると江戸っ子は日に2回風呂に入るのがイキだったとか。

今の博物館には江戸時代の銭湯の再現が非常に簡単なので、3年後の新装オープン時には是非とも精密なのを作ってもらいたい。

明治以降の東京についての展示はそれなりに興味深く、明治で2ブロック、大正昭和で1ブロック、大東亜戦争前後で1ブロック、戦後の高度成長期で1ブロックという感じでまとめられている。

限られたスペースにどういうストーリーで何を展示するか難しいところだろうが、昭和20年3月の東京大空襲に関する各種展示にあまりにも多くのスペースを使いすぎているのではないか。撃墜したB29のひん曲がった機銃の展示は必要なのか。

それより大東亜戦争が始まるまでの、今の我々が想像するより豊かで自由な生活をしていた人々の暮らしに、もっと焦点を当ててはどうかと思う。

東京、江戸についての博物館は他に"深川江戸資料館"というのがあって規模はウンと小さいが(と言うかミニミニサイズ)それなりに工夫してある。

上野・不忍池横の"下町風俗資料館"、デックス東京の"台場一丁目商店街"、九段下の"昭和館"とかに行ったがやはり東京江戸博物館には全く及ばない。別格である。

ボクは無線関係に興味があるので愛宕山にある”NHK放送博物館”にも時々行く。
ここは展示と共に4階の資料室が特に充実している。(受付のオバサンの態度は最悪、要注意。)

東京江戸博物館は3年後にオープンとある。どう変わるのか、楽しみである。