雑誌記事が繋いだ偶然(2021−03−07)
昨年はCQハムラジオというアマチュア無線の雑誌に、「第2次世界大戦と無線通信」、という題名の記事を5月号から11月号まで7回の連載(合計42ページ)で書きました。
雑誌への連載記事寄稿経験はその前の年に5回シリーズで、「アマチュア無線家から見たゾルゲ事件」を初めて書いたのでこれで2回目でした。

今回の内容は私の趣味のひとつである近代史の研究と、"アマチュア無線"を通じて得た”無線技術・通信の知識を使い、切り口としては無線技術が何のためにどう使われ、WW2の結果にどのような影響を与えたのかを日本とアメリカを比較しながら書いてみました。

実際に記事にできたのはアマチュア無線の雑誌という事もあり、調べた事の10分の1以下で、大きな消化不良を残してしまったというのが本音です。
雑誌の掲載された記事
記事は1回がB5版で6ページ、写真とか表も入るので文は6500文字程度、これは新書版でいうと12〜13ページ分しかなく、まとめるには少し骨が折れました。

記事の内容は無線通信とレーダーについて四分六程度の割合になりました。「〜無線通信」という表題ではありましたが、歴史(戦史)的な切り口からは無線通信だけではなくレーダーについて書かざるを得ません。

レーダ−も無線技術をベースにしており、WW2では重要な役割を果たしてます。

雑誌の性格からすると内容は技術開発史を中心にすべきなのでしょうが、私は無線技術が日本海軍で具体的にどう使われ、どんな結果をもたらしたのかの視点にかなりの重点を置きました。
いずれも本格的に調べたのは今回が初めてであり、多くの資料・文献との格闘でした。

ゾルゲ事件の記事の時も同じでしたが、やはり読者の反応が気になります。CQハムラジオの寄稿・執筆者で誌面にメールアドレスを載せる人は皆無に近いのですが、私は最終回の末尾に自分のメールアドレスを載せたので読者から多くのメールを受け取る事ができました。
実際に会いたいという人も何人もみえて、中のひとりは何と高校の同級生だったという事もありました。

そういうのも一段落した先月の初め、伊藤良昌氏(85才)という方からメールを受け取ったのでした。メールには自分は日本海軍でレーダー開発の責任者であった伊藤庸二海軍中佐の息子であると書かれてありました。

伊藤中佐というのは1901年生まれで東京大学を卒業後海軍に入り、1933年(昭和8年)頃から終戦までの間レーダーの開発を進めていた技術士官・工学博士です。1955年(昭和30年)に54才で早世されています。
伊藤良昌氏は伊藤大佐の次男にあたる方でした。

メールは簡単でしたが、父である伊藤中佐についての記事を書いた事に対するお礼、それに何冊かの冊子を送りたいので住所を教えて欲しいとありました。
返事を出した数日後に送られてきた立派な3種類の冊子を見てびっくりしました。

■ 伊藤中佐が戦後”日本無線電信史”として関東電波監理局のある機関誌に寄稿した記事の復刻版

■ 伊藤良昌氏が防衛技術ジャーナル誌に”技術の伝承”という題で寄稿されたものを抜粋、集約した冊子


■ 私が書いた”第2次世界大戦と無線通信”7回シリーズを抜粋、集約した冊子

伊藤中佐は戦後”光電製作所”という特殊な電子機器を開発・製造する会社を創業、現在は”KODENホールディングス”という持ち株会社の傘下にある6社のうちのひとつで、伊藤良昌氏はKODENホールディングスの会長として現役で活躍中の方です。

私の記事では伊藤中佐はマグネトロンなどの研究では世界の先頭を走っていたにもかかわらず、なぜレーダー開発でアメリカに遅れをとったのか、その辺を浮き彫りにするように切り込みました。

全体の組織・体制、基礎研究と製品開発の関係、その後の量産技術、そして最も重要なレーダーをどう使って戦いをするのかの戦術思想、などの問題点についてです。

伊藤中佐というひとりの天才技術者(ドイツ留学でそういう評を得ている)の力ではどうしようもなかった海軍という巨大な組織、悲しくなるような日本の貧弱な生産技術、etc。

こういう事を調査するのに役に立ったのが現役時代に車の開発・製造・サービスの各領域を等距離で見れる部門を担当した経験で、これは大きかったと思いました。

伊藤良昌氏はアマチュア無線を趣味とする方ではなく、従ってCQという雑誌を読まれる事はないと思うのですが、あるOBから「父上の海軍時代の写真がCQハムラジオという雑紙に大きく出ている」、という連絡を受けたのでバックナンバーを取り寄せ、記事に目を通されたのでした。
伊藤氏から送られてきた私の記事の抜粋製本版、他の2冊
伊藤氏はこの記事を抜粋、業者による高精度コピー・製本をして知己に配布をしたとありました。
冊子は全部で何部くらい作製されたのか言及されていませんが、私の記事がアマチュア無線とは縁のない方々の目に触れる事になったというのは大きな喜びです。

出版社には念のため確認をしたところ、「記事の出所を明らかにした中で個人的に記事の一部を複製、限定無料配布というのは特に問題にはしません」、という返事でした。
送って頂いた私の記事の2冊に加え伊藤良昌氏には追加の10部をお願いしたところ快く受けて頂けました。

伊藤良昌氏の書かれた"技術の伝承"は非常に興味深い23話で構成されていました。
新技術・新製品の開発について、電子顕微鏡開発について、ムラタ(ムラタ製作所)の創業者である村田昭氏の件、西堀栄三郎博士(南極観測第1次越冬隊長)の技術者としての姿勢についてなど、氏が直接或いは間接的に関与、及び見聞きした事が書かれています。
伊藤中佐は戦後ムラタのチタン酸バリューム開発(チタコン開発)にも関与していたのを初めて知りました。

また伊藤中佐は戦中、戦後とも高松宮殿下と近い関係にあり、高松宮日記(中央公論社)にも伊藤中佐の名前はいくつも出てくるそうです。

伊藤中佐の父上、つまり伊藤良昌氏の祖父は明治時代に千葉県御宿の有名な教育者で、その意志を引き継いだ"五倫文庫"という一般財団法人があり、伊藤良昌氏はここの理事長でもあります。これの案内も頂きました。

私の記事は今読み返すと文章の拙さが目立ち、間違いもあり訂正したい部分がいくつかあります。もっと推敲しておけばよかった、また果たしてこういう内容でよかったのだろうかという疑問も残っています。

記事が伊藤中佐の子孫の目に入り、それが別なルートで拡散されたというのは本当に驚きです。
そして今回の繋がりで伊藤中佐の子孫でしか知り得ないような内容について知ることができたのは最大の喜びです。

防衛ジャーナルに復刻記載された伊藤中佐の記事と、雑誌(CQ)に掲載された私の記事「第2次世界大戦と無線通信」は2020年にほぼ同時に別々に出版・発行されました。
これらを伊藤良昌氏は今回資料としてまとめるにあたり、それぞれの巻頭に同じ一文が添えられています。

「、、、、今年は創業社長(伊藤中佐)没後65年目に当たる。社長の著書や研究が偶然にも時をほぼ同じくして世に問われたことに驚きを覚えた。」

確かに何か不思議な縁を感じる出来事です。