生き生き人生の友人達(2021−09−05)
会社を定年になり10年以上が過ぎた。その後2,第3,第4の勤めをやって自由の身になって約4年、毎日の生活はメリハリをつけるよう少し気を付ける以外は好きなようにやっている。

60才で一区切りをつけたボクの先輩、友人、後輩などもその後様々な生き方をしている。一応に言えるのはみんな働くにせよ、そうでないにせよ60才で頭を切り換え、今を充実させて生きている人ばかりである。
そんな中から3人の方の近況を拾ってみた。

Yさんの(同じ会社の後輩)

Yさんとはボクが日本に帰ってきてから付き合いが始まったので既に10年ちょっと、同じ職場だった。彼はイギリスと中国の駐在経験があり、30代の頃に会社から中国に語学留学をしており、英語と中国語が得意な方である。語学留学は私の会社では非常に珍しいことであった。

年令はボクより6才くらい若い。ボクが日本に帰ってきて再雇用された職場に同じくイギリス駐在から帰ってきた。その後関連会社に出向、そして転籍をした。

その会社も定年延長を少しやり退職、今度は系列とは関係のな従業員250人くらいの小さな会社に入った。
この会社は中国、東南アジアに工場を持っており、Yさんは中国の現地法人の駐在要員として採用された。

Yさんは技術者であり管理職でもあったが"言語"そのものに非常に強い興味を持っている。中国への語学留学もそういうバックグランドからの希望からであろう。

彼はまた現役中(関連会社に転籍後、60才くらいの頃)に日本語教師の資格をとり、市が主催する外人向け日本語教室の日本語教師をやっていた。
よくその帰りにボクのところに寄ってくれ、お茶を飲みながら様々な話を聞いた。

Yさんの中国への赴任は昨年の秋の予定だったがコロナで延期、やっとこの8月下旬に赴任が決まり、大連に向けて出発した。
会社は天津にあるが、大連のホテルで2週間のコロナ隔離生活を送るためであった。Yさんは缶詰生活の様子をLINEで逐次知らせてくれた。

中国でのネット接続はVPNを使わないとYAHOOもGOGLEも使えない。テレビも日本の番組は見れるが突如シャットアウトがあったりする。中国の情報統制はすざましいがナゼかマスコミも我々日本国民もこれに関して異常に寛容だ。

それはともかくホテルの缶詰生活の食事は3食弁当でカロリーもあり、2週間でかなり太ったらしい。

それ以外に何か飲み物とかを買いた場合は、朝頼めば午後に持って来てくれる有料サービスがあるとの事であった。
Yさんは液体燃料が全くなくても問題のない人なので頼んだものはお茶とかソフトドリンクの類いだけだったようだ。

数日前に間もなく2週間の缶詰生活が終わるという連絡があり、9月2日のフライトで天津に向かった。

別送の生活用品などの荷物は天津のマンションに運び込まれていたが、消毒液で原形を止めない程、段ボールの箱が変形していたらしい。最初の試練?か。

マンションは100u以上で書斎もある2LDK,眺めもいいとあった。
天津の会社は300人くらいの規模で日本人は総経理(社長)だけ、Yさんは副総経理(副社長)の肩書でいずれは総経理と交代するのだろう。

海外駐在経験があるYさんではあるが、大企業と小さな会社ではあらゆる面でことごとく違う。これはボクはアメリカとフィリピンの経験から痛いほどわかっている。彼もこのカルチャーショックに衝撃を受けるに違いない。

通訳なしで中国人とコミニケーションがとれる日本人は大企業でも多くはいない。Mさんがどんな生活と仕事をするのか、Yさんレポートが楽しみである。

Tさん(趣味の仲間)

Tさんと初めて会ったのは今から17年くらい前、ボクがオハイオ・コロンバスにいた頃だ。きっかけはボクの住んでいたコロンバスから1時間くらいのところにあるデイトンというところで毎年行われる、全米のアマチュア無線のコンベンションで知り合った。

このコンベンションには全米から何万人ものマニアが集まり、日本からも何十人ものマニアが来る。そして夜はその日本人が集まって日本レストランでパーティーをやる。
Tさんは日本からの出張と抱き合わせでアトランタ駐在のKさんと一緒に来ており、そのパーティーで知り合った。彼は有名大手機械メーカーの技術者で、何社かの私の会社の関連会社と取引があるのが後でわかった。

Tさんは私より3才下で60才で定年、更に1年間再雇用された後に退職、現在は千葉県に住んでいる。
ボクが東京に行くと必ずと言っていいくらい会って一杯やるが、コロナになってからは会っていない。

Tさんは東北生まれで宮城県、青森県で育っているのでこの辺が自分の実質的な故郷である。

Tさんは非常に器用でモノを作るのがうまい。趣味はアマチュア無線、オーディオ、ラジコンなど一杯あり、アマチュア無線の一部を除き殆どが自作品である。

仕事を辞めてもう1軒家を建てたが、庭造りとかデッキ造りなど何でもやるところがボクとは大きく違う。

そのTさんがここ2年くらいかなり熱を入れて取り組んでいるのが"ジオラマ"製作である。
これもキットなどを買ってきて作るのではなく、ごく一部を除き全て一から自分で作るというのが何とも素晴らしい。前の作品はA1サイズという巨大なモノであったが最近作ったのはA4サイズのコンパクトなものである。

A4サイズのジオラマは昔の田舎風景の再現で、これはTさんの幼稚園の頃の原風景なのだ。当時自宅は仙台市の郊外にありTさんはカトリック系の私立幼稚園に通っていた。通園途中にあるポプラの木が4本立っている水車小屋が自宅までの道しるべだったそうだ。

余談ではあるが、ボクはTさんが私立のカトリック系の幼稚園、小学校、であったのをこのジオラマの説明を聞くまで知らなかった。それで彼はお上品なのか?

それはともかく幼稚園の帰りは女の子2人と3人で来て、ここでそれぞれが、「またあ〜した」で別れた場所だったそうだ。この話を聞いてボクはTさんの幼稚園の制服姿を想像してみた。

その女の子2人のうち1人は今も仙台市内におり、別の同級生がやっている寿司屋で今でもミニ同窓会をやるそうだ

ジオラマは全て記憶を元に作ったそうで、ここまで鮮明に風景が残った場所なのだ。
今はネットで国土地理院の昔の航空写真が照会できるので、Tさんはそれを製作の後で見たということだ。

そしたらポプラの木の位置が記憶の位置と少し違っていた、という連絡を受けた。
それにしてもスゴいもんだ。

Tさんはこのジオラマの完成までに数ヶ月を掛けたが、製作に取り組んでいた間は60年前の6才の頃の想い出に浸り、幸せな時間を過ごせたのは間違いない。

手先の器用さ、根気強さ、もの造りのセンス、それぞれが他の人にはマネのできない高いレベルのTさん。これらを資産にユニークで充実した定年後を送る、、、。そしてTさんのジオラマは”唯の工作”ではない。
つまりTさんのジオラマは”Tさんの思い出と郷愁の再現”なのだ。

Tさんからは、「SHINさんも作ってみては?」、という提案があったがボクにはハードルが高すぎる。
スケッチとイラストなら何とかなりそうなので、記憶の風景を描いてみるか〜、、、、。

Mさん(会社の取引先)

Mさんとは16〜7年前にオハイオで仕事上で知り合った方である。当時Mさんはデトロイト近郊のある日系企業の社長であった。Mさんとの出合いは仕事上であったが年令も同じという事で何となくウマが合い、それ以来仕事を抜きに付き合いを頂く事になった。

Mさんは当時で既にアメリカ15年と言っていたので、今やアメリカ生活が30年以上になる。
いつだったか「将来は日本に帰るのですか?」と聞いたところ、「もう日本では生活できないと思います。」、という返事だった。ボクは理由はよく分かっているつもりなので特に聞かなかった。

Mさんは私がオハイオから日本に帰る頃会社を辞めて独立、アメリカ国内の日系企業をクライアントとする経営コンサルタントになった。

Mさんの複数のクライアントは全部南部のジョージア、ケンタッキー、アラバマ等にあり、月曜日にデトロイトから飛行機に乗り、各社を巡回して金曜日又は土曜日にデトロイトに帰るという生活を10年以上、ずっと続けている。

Mさんは押しのきく方で、アメリカ人を使える人である。だからデトロイトで長年日系企業の社長が勤まったのである。

ボクはMさんの親会社の社長・役員その他の人達と何度も日本で、またアメリカでも会った。
社長は親会社のT社から来ている人であり、皆さんMさんとはかなり違ったタイプであった。

そのMさんから久しぶりにメールが来た。今もデトロイトから毎週片道12時間をかけてクライアントの会社を往復しているという。
飛行機での毎週の往復もかなり堪えるようになったとMさんにしてはちょっと弱音の内容であった。

アメリカのフリーウエートとは言え、1ヶ月に1万km近くの運転をするのは、この歳になればキツいのはよくわかる。飛行機でも空港まで車で行って搭乗手続きをやって乗って目的地の空港でレンタカー借りて会社まで行く、、、、飛行機に乗るのは2時間でもドアーツードアーで最低6時間はみておく必要がある。

メールによるとあと1年くらいで仕事をやめようと考えているようだ。

デトロイトの冬の寒さは厳しく、老後を過ごすには適さない。恐らく、、、南部のフロリダとか或いはテキサス辺りに住むのではないか。

アメリカ南部にはシニアコミュニティーという至れ李尽くせりの住宅がいくらでもある。

広々とした住宅地は緑に囲まれ介護・医療サービス、プール、ゴルフ場、銃で武装した専従の警備員もいる。勿論それなりのお金は必要だが。

最後にMさんのメールには意外な事が書いてあった。

「今まで仕事一本でやってきて自分には結局趣味らしい趣味がないことが今わかった
仕事を辞めたらさて何をすればいいのか、実は少々悩んでいます。何かアドバイス、アイデアを欲しい、、、。」
ボクはボクの経験から言える幾つかの事をメールに書いて送った。

・先ず何かをやらねば、という気持を捨てること。
・何かやるのであれば子どもの頃から成人する頃までの間で、やりたいな〜と思っていた事を書き出して眺める。
・その他、5項目、、、。

どんな返事が来るか、今から楽しみである。