久米島の素晴らしい人達(2021−12−10)
景色を見ながらお昼を食べてお茶を飲みながら、或いは夜であれば居酒屋で泡盛のロックをチビチビやりながら、やっぱり自分の人生を振り返る事が多くなった。

結局ここまで来れたのはみんなのお陰だった、ボクは何にもできず皆が支えてくれたので何とかやって来れただけ、だった。でもボクが恩を受けた人達に一言でもお礼を言ってるか、全然やってない人の方が多い事に愕然とする。

久米島のいいのはどこに行っても殆ど誰もいない事だ。ボクは景色のいい展望台でほぼ毎日弁当を食べたが、誰かがいても邪魔にならないレベルだった。

450円の弁当、100円のお茶、150円のデザートのクッキー、合計700円のランチは高級レストランの6000円のランチ(食べた事ないが)より満足できるのではないか。

サイプレスリゾートという島の西端にあるホテルの駐車場で見掛けたヤクルトおばさんと1時間後にボクのホテル近くのスーパーの駐車場で再会するとかのハプニングは珍しくない。
西端のホテルとボクの宿泊しているホテルは10kmくらい離れているのだが人が少ないのですれ違いでも印象に残りやすいのだ

ボクが登武那覇というところの展望台で弁当食べてから3日後にある人から久米島観光協会会長のTHさんという人を紹介してもらった。
するとTHさんは「この前、登武那覇でお弁当食べてた方ですよね。」と言われた時はびっくりしたね。

そう言えばちょっと離れた駐車場に珍しく車があって数人の人がいたのを思い出した。話を聞くとTHさんはその時、関東のある市から来ていた市職員を案内していたとの事だった。

久米島では何人もの知り合いができた。そんな中で必ず一献を交わす人がが2人、時々の人が3〜4人いる。その中のTAさんという方は毎回誰か新しい人を連れてきてくれ、楽しく時間を過ごさせて頂く。

TAさんは若い女性を連れてみえる事が多い。
現在久米島には高校が1校あるが生徒数の減少でその存続が危うくなっている。そこで町は「離島留学制度」というのを作り、全国から生徒を募集して寮で生活をさせながら高校に通わせている。

一人ひとりに島民の里親も付き、日常の生活指導などのために全国から募集した3人の若い臨時職員が寮などに勤務している。
その中のひとり、SUさんという30才の女性をTAさんが連れてきてくれたのでいろいろと興味深い話を聞くことができた。

SUさんは関東のある県の出身、久米島に来る前はスイミングスクールのインストラクターをやっていて、久米島に来て3年目という経歴であった。

15〜18才の高校生の指導はなかなか大変、と言うかこういう仕事は誰でもできる仕事ではないと思った。

ちなみにボクの下の娘は高校教員でずっと教科担当以外に担任もやってるみたいで、実にいろんな話を聞く。
ボクの印象では生徒の問題の半分以上は親の問題、という感じがしてならない。

TAさんは2年前からこの制度の運営責任者で59才、全国から集まった30人の生徒、SUさんのような臨時職員、里親家族、全国にいる生徒の親とのコミニケーション、、、守備範囲は広く、苦労は並大抵ではないのは明らかだ。

TAさんも間もなく定年の60才、役場勤務は続けるそうだが仕事は変わるのだろうか。

ボクが久米島に来て4日目だったかにTAさんが「詠であしばな」という琉球歌集をホテルまで持って来てくれた。そしてボクが久米島を離れる前の夜、この歌集の作者であるTSさんを交えて5名が集まり宴会を催してくれた。

TSさんはTAさんの奥さんの父上で何と昭和4年生まれで92才、TAさんの奥さんは久米島町幼稚園の園長さんで私は一度お会いしたことがある。

TSさんは沖縄師範2年生の時に昭和20年の沖縄戦に巻き込まれたが、辛うじて生き残った。その後要職を歴任、村長もやって叙勲も受けて見えるという方である。

ボクはとにかくびっくりしたね。背筋は真直できりっとしていて頭の回転は速い、喋り方も淀みがない。実にいろいろな話を伺った。
歌集は趣味でやっていた琉球歌を自選して一冊の本にまとめて出版したとのことであった。
歌は八八八六で琉球言葉で詠まれているが、漢字で書いてあるので意味はほとんどわかる。

コロナが流行する寸前まで沖縄からの移民が多い南米、北米などにもちょくちょく行ってみえたという事で、視野も広くそういう話も伺った。
「長生き、元気の秘訣は何なのでしょうか?」、月並みではあるが伺ってみた。

「特にありません」と言われ、しばらくして、「くよくよしないこと、それと独りぼっちにならないこと、、、後は恋をすることです。」、と言ってボクの前にいた町の女性職員の方を見て"ニヤリ"としていたね。
なかなかユーモアのある人だった。4人は泡盛を飲んでいたがTSさんはナゼか日本酒を飲んでいた。

しかし毎回TAさんは多士済々な方を呼んで宴会をやってくれる。実にありがたい。今回の女性職員、言葉も顔も沖縄ではなさそうなので聞くと東海地方の出身だった。

今回もTAさんが呼んでくれた方々と4回、久米島訪問1回目でお会いして以来付き合って頂いている町会議員のTYさんがうち2回参加してくれ、充実した久米島の夜を過ごさせて頂いた。

TYさんは娘さんが大阪に嫁いでおり、ボクが久米島に着いた時は孫の"お食い初め"のお祝いで大阪に行っており不在だった。帰ってから話を聞いたら沖縄とやり方が随分違うのでびっくりしました、と言ってみえた。

今回はもう一人、TAさんの従兄のTHさんという方を紹介頂いた。THさんはTAさんと同じく59才、やはり町の職員であったが早期退職をして今は農業(サトウキビ栽培)をやっているとのこと。
娘さんがオーストラリアに留学していた時にスイス人と知り合い、結婚してスイスに行って1年と仰っていた。

THさんは現在英会話に没頭中でWEBで授業を受けて、同時に島内の教室(久米島には英会話教室がある)にも通っているそうだ。

ボクがアメリカに15年いたというのをTAさんから聞いており、英語についていろいろ質問された。
英会話上達についてボクが経験したあまり、と言うか殆ど役に立たない事を幾つか”ボクの反省”という意味でお話をした
そして久米島から帰ってから肩の凝らない、ちょっと面白い英語の本をお送りしておいた。

この歳になると新しい知り合い、友人というのはなかなか増えない。遠く離れた久米島ではあるが、いろんな人と付き合いをさせて頂けるのは幸せである。
ボクが久米島に行くのはこうやって人の輪を拡げてくれる方がいるのも大きな理由だ

最近特にそう思うようになってきた次第である。