自宅マンション前09:20のバスに乗り近鉄白子駅まで、ここから電車に乗り約12分で近鉄津駅に。津駅から再度バスに揺られて20分、”結城神社前”というところで降りた。
ボクの住んでいたところは正式な地名は”藤方”であるが、通称名として”結城町”とも呼ばれている。バス停からボクの家があったところまでは歩いて5分くらいであるが、ぐるっと遠回りをして行く事にした。
50年以上前は一面田んぼと畑だった所には、家がびっしりと建ち並んでいる。よくもこんなに家が建ったものだと、半ば感心してしまう。
バス停から北に2〜3分行くと、N川という記憶に残る一六銀行(質屋)があった。
ボクが犬の散歩に出掛けると、同じく犬を連れた一六銀行の若大将(当時30代前半?)と、互いに犬が暴れないように押さえながら、時々すれ違ったものだ。
立派な家は、盛り土の上にデンと建っていた。ビジネスは順調この上なし、というところか。
この隣にはMという医院があったがすでに無く、別な家になっていた。ボクの母親はボクをここには絶対に連れて行かなかった。
母にはM医院にまつわる、一生忘れられない出来事があった。
母が17才だったか18才の時、母親(ボクの祖母にあたる人)が腹痛を訴えたのでここに連れて行ったところ、頓服を処方されたが、実は虫垂炎で結局は手遅れとなり、亡くなったのであった。
父親は既になく、一番上の姉は松坂に嫁いでおり、頼りの兄2人は支那に出征をしており、母は3才年上の姉と2人で途方に暮れたと、涙を流してよく話していた。
そんな事があったのでMには行きたくない、というのはボクには大いに理解できた。
ボクの育った家は一六銀行から歩いて5分、それは母親の実家から500mしか離れていないところで、ここに父は家を建てたのであった。
家は父が亡くなってから売却した。
家の方に向って歩くと、父が定年で建てたアパートがあった横に出た。ここも父が亡くなってから売却し、今は接骨院になっている。
驚いたのはアパートを建設したとき、つまり今から40年以上前に設置した30mくらいのフェンスが、今でもそのまま使われている事だった。
アパートのあったところから50m先が、ボクの育った家があったところだ。今は新しい家が建っていた。
父母がここに家を建てたときは町内は30世帯程度の、新興住宅地であった。それが現在は500世帯あるという。
家から海岸までは400m、海岸の松林がよく見え、道の左右半分以上は畑であった。それが今では家がびっしり。
しかしボクの家があった周囲は大きな変化はなく、生け垣も昔のままで、各家々は立て替えたもの、そのままのものなど様々であるが、家並みは大きく変わっていない。 |