ボクの故郷(2022−07−03)
書斎の椅子に座り、ボクは窓の外をぼんやり眺めていた。
空には入道雲、遠くには津の街、巨大な造船所などがくっきり見える。ボクは遙か50年以上前の小学生、中学生、高校生の頃を思い出していた。

1学期も終わり、今日から夏休み、という日に見上げた空にも、こんな入道雲があった
そんな事を考えていたら、ボクが18才まで育った津に急に行きたくなった。

そう言えば最近ジョギング・ウオーキングの頻度もグンと落ちている、、、と言う訳で翌日、「故郷再訪ウオーキング」、に出掛けてみた。

自宅マンション前09:20のバスに乗り近鉄白子駅まで、ここから電車に乗り約12分で近鉄津駅に。津駅から再度バスに揺られて20分、”結城神社前”というところで降りた。

ボクの住んでいたところは正式な地名は”藤方”であるが、通称名として”結城町”とも呼ばれている。バス停からボクの家があったところまでは歩いて5分くらいであるが、ぐるっと遠回りをして行く事にした。

50年以上前は一面田んぼと畑だった所には、家がびっしりと建ち並んでいる。よくもこんなに家が建ったものだと、半ば感心してしまう。

バス停から北に2〜3分行くと、N川という記憶に残る一六銀行(質屋)があった。
ボクが犬の散歩に出掛けると、同じく犬を連れた一六銀行の若大将(当時30代前半?)と、互いに犬が暴れないように押さえながら、時々すれ違ったものだ。

立派な家は、盛り土の上にデンと建っていた。ビジネスは順調この上なし、というところか。

この隣にはMという医院があったがすでに無く、別な家になっていた。ボクの母親はボクをここには絶対に連れて行かなかった。
母にはM医院にまつわる、一生忘れられない出来事があった。

母が17才だったか18才の時、母親(ボクの祖母にあたる人)が腹痛を訴えたのでここに連れて行ったところ、頓服を処方されたが、実は虫垂炎で結局は手遅れとなり、亡くなったのであった。

父親は既になく、一番上の姉は松坂に嫁いでおり、頼りの兄2人は支那に出征をしており、母は3才年上の姉と2人で途方に暮れたと、涙を流してよく話していた。
そんな事があったのでMには行きたくない、というのはボクには大いに理解できた。

ボクの育った家は一六銀行から歩いて5分、それは母親の実家から500mしか離れていないところで、ここに父は家を建てたのであった。
家は父が亡くなってから売却した。

家の方に向って歩くと、父が定年で建てたアパートがあった横に出た。ここも父が亡くなってから売却し、今は接骨院になっている。

驚いたのはアパートを建設したとき、つまり今から40年以上前に設置した30mくらいのフェンスが、今でもそのまま使われている事だった。

アパートのあったところから50m先が、ボクの育った家があったところだ。今は新しい家が建っていた。

父母がここに家を建てたときは町内は30世帯程度の、新興住宅地であった。それが現在は500世帯あるという。

家から海岸までは400m、海岸の松林がよく見え、道の左右半分以上は畑であった。それが今では家がびっしり。
しかしボクの家があった周囲は大きな変化はなく、生け垣も昔のままで、各家々は立て替えたもの、そのままのものなど様々であるが、家並みは大きく変わっていない

ボクは結城神社の方に向かった。ここは隣接する八幡神社を含めて、150mX250mもある広さで、大半は木々で覆われた森であった。

ボクの家から神社の森の端までは150m程度
で、ボクはこの森を見ながら育ったと言ってよかった。
神社に行く途中、イヤな思い出のある家の前を通り過ぎたが、その時の事がパッと思い出され、苦笑してしまった。

結城神社は、白川結城氏の結城宗広が祀られ、エラく格式のある(別格官幣社)神社である、と小さい頃から耳タコで聞かされていた。

しかしボクらにとって神社の格式はともかく、広い森の中は絶好の遊び場であった。
森の奥深くに入ると、それぞれの季節によって、違う臭いがした。


ボクの犬の散歩のコースであった、大きな鳥居をくぐると大木があり、昔と変わらぬ風景が広がった。

高校1年生だったかの晩秋の夕方、暗くなってから犬を連れてこの鳥居をくぐって何の気なしに空を見上げた。
すると1等星のような明るい一つの星が動いている。ボクはびっくりして立ち止まった。

人工衛星だった。

この時のボク、愛犬、黒い結城の森、そしてゆっくりと空を横断していく人工衛星、この情景は映画の一コマのように今も鮮明に記憶に残っている。

結城神社はその後本殿横の梅林が有名になり、春には観光バスが何台も来ていたそうだ。

ボクも帰国直後に来てみたが、梅林は30〜35m四方程度の広さで、中はちまちまとしており、入場料500円に疑問を持った記憶がある。

聞くとその後、宣伝と実際の違いが逆に評判になって、今はグンと客足が落ちているらしい。

梅林は背の高い木で囲って厳重に中が見えないようにしてあり、「お金払わないと、中は見せないからね。」、みたいな神社らしくないものを感じたが、皆はどう見ているのか。

ボクが子どもの頃の宮司さんは怖い顔をしていたが、今の宮司さんはどんな人だろう。きっと腰を低くして揉み手をしながら、ニコニコした人に違いない。ひょっとしたら前掛けをしているかも。

本殿の横からボク達が遊び回った中心地、結城宗広公の大きな墓のところまで行ってみた。墓の周りは何も変わっていなかった。懐かしかった。

墓石は巨大な墓台上の亀の上にあり、亀の首に跨がって遊んだ事が思い出された。

今の子どもも、こういう森の中で遊ぶのだろうか。
夏の森の中では体中ヤブ蚊に刺され、みんなでそれぞれが数えたら、ボクは手足だけで30カ所以上赤く腫れていた事もあった。

その頃は少々の擦り傷、切り傷(みんな小さな小刀を持っていた)、打撲などはそのままで遊び続けて、傷口などは神社の手水舎に行って、互いに水で洗ったりしたものだった。

神社の東端には大きな広場があり母が子どもの頃は、何かの催し物がある時には、ここで競馬が開催されたという。

更にその横には”結武館”という剣道場があり、ボクもここに週3回、雨の日も風の日も3年間通った。
小学校4年生になって皆は算盤塾に行ったが、ボクは父の方針で剣道場通いを始めたのであった。

神社の西の隣接地には軍医上がりの医者がいる医院があり、ボクは時々ここにお世話になった。ボクは高校の時は柔道をやっており、寝技で左の耳朶が焼き餅のように膨れあがった。

医院に行ったら元軍医さんは、ボクの耳朶に注射針をブスッと刺して、あっという間に水を抜き、「よ〜し、終わり〜!」、と大きな声で言ったのを覚えている。そんな訳でボクの左耳は、今でもグチャッとつぶれている。

ここは今も同じ医院名で開業している。軍医さんの子どもはボクより1才と3才下の女の子2人だったので、そのどちらかが医者になったのか。それとも医者の養子でももらったのか。

医院の横にはボクの小学校、中学校の同級生のK君がやっている寿司・うどん屋があり、ここに入って昼食を摂った。
店は大きなきれいな造りに変わっており、一般客用と宴会場が入り口の左右で分かれていた。

店に入るとK君は奥でランチの寿司を握っていた。
彼と会うのは7〜8年ぶり
か。
鉄火巻きとザルうどんを注文して、久しぶりに彼といろいろな話をした。

彼は中学を出て、関東で寿司職人の修行をした後実家に帰りうどん屋をやっていた父親から、うどんを教えてもらったのだった。

ボクは小学生の頃、彼の父親が出前を持ってバイクに乗り、人と自転車の間をサーカスのようにすり抜けて走るのを何度も見た事がある。K君の父親の並外れたライディング・テクニックは、当時小学生のボクでもよくわかった。

K君の父親は支那事変当時からの、陸軍の戦闘機乗りの生き残だったと聞いており、運動神経の構造が普通の人とは全く違っていたのだろう。その血を引くK君の運動神経も、ずば抜けていた。

ボクはK君に、今度は夜来る事を約束し店を出た。
店を出る時、彼と彼の奥さん、それに跡継ぎである息子の嫁さんが出てきてくれた。

ボクは店を出て500m先にある海岸(伊勢湾)に出てみた。堤防の上に上がると、いつもボクが書斎から見ている造船所が目の前に見えた。

中学生の頃の夏休みは、それこそ朝から夕方までこの海で泳いでいた。
浜は何となく薄汚れていて、ボクの記憶に残るものと違っていた。少しがっかりした。

昔は堤防の上から山側を見ると、ボクの家がある400m先付近まで疎らに建つ家と一面の畑だったが、今はびっしりと家が建ち並んでいた。

ボクは50年ぶりに歩く道路に出てみた。全く違う街になっていた。
しかしボクが時々釣り道具を買った店が、同じ屋号でまだ釣具店をやっているのを見つけた時は、嬉しかったね。

ボクは小学生の時に、通学に使った道を歩いてみた。
道筋は変わっていないが、周囲は記憶にある畑の風景ではなく、左右はやはり家が建ち並んでいた。かつて隣の町内会が盆踊り(地蔵盆と呼んでいた)をやっていた広場も、家が建ってなくなっていた。

小学生の時に毎日歩いた道路で、ボクは何軒かの家の記憶を蘇らせる事ができた。
今はほとんどの道路は簡易舗装がされているが、60年近く前は未舗装であったので、雨が降るとゴム長靴は必須であった。冬の朝は水溜まりが凍っており、氷を割りながら通学した。当時の冬は泣きたくなるような寒さだった。

小学校は門がしっかりと閉鎖され、中に入る事はできなかった。いつ頃からこうなったのだろう。かつては運動場まで自由に入る事ができたと記憶するが。

小学校の横にはボクと親しかったM君の家があり、M君の表札が掛かっていた。もう55年以上会ってないのでボクの事を覚えていてくれているだろうか。
今度来た時、玄関をたたいてみよう


今日会ったK君はボクの顔を見て、「昔の面影がよく残っている」、と言っていたので、M君もボクを思い出してくれるかも知れない。

ボクは怪しまれない程度に、記憶のある家々の表札を見て歩いたが、昔のままの名字の家も何軒があり、さて、今は誰が住んでいるのだろうと思ったりした。

しかし最近は表札そのものを出さない家も多く、明らかに住んではいるのはわかるのだが、誰なのか確認ができない家が何軒もあった。

ボクの父は定年になって、鈴鹿市に家を建てて引っ越しをしたので、津の家はずっと空き家になっていた。
それらも父が亡くなって全て処分し、もうここには何もない。思い出が残っているだけである。カミさんは津の家の事はよく覚えているらしいが、娘達は記憶も思い出もほとんどないだろう。

この日はかなり暑かったが天気もよく、結局4時間近く7〜8kmほどブラブラと歩いたと思う。
今度はもう少し範囲を広げて歩いてみようか、、、。