NPO法人”KISEKI”(2022−08−15) |
今年も8月15日の終戦記念日がやってきた。今年は数えて77回目になる。東京では天皇陛下列席の下で戦没者追悼式も行われた。テレビ番組も、WEBサイト、ラジオそれぞれ終戦にちなんだ番組などが組まれていた。 番組の多くは、終戦間際の1〜2年にあった南方等での悲惨な戦いの様子、それに米軍による本土爆撃の様子を伝える内容であった。ナゼ日本は戦争に至ったのか、これを放送する番組はなかったように思う。残念である。 そんな中、WEBニュースを見ていたボクは新潟県出身で支那で戦死した陸軍伍長阿部健治さんという方の遺品である一冊のノートが遺族に返還された、というニュースが目にとまった。 阿部伍長の年令は書いてなかったが、遺族である長男が84才で健在との事なので、戦死した昭和19(1944)年当時、恐らく30才前後ではなかったか。 ノートはA5版で、新潟県新発田市にあった部隊(歩兵第16連隊)に所属していた時の昭和17(1942)年に、支那の漢口に出張、その2ヶ月間の記録が書いてあったそうだ。 ボクが興味を引いたのは、その遺品を遺族に返した"キセキ(KISEKI)"というアメリカにあるNPO法人の事で、さっそくWEBサイトを検索すると直ぐに見つかった。 これはアメリカ兵が大東亜戦争でアメリカに持ち帰った日本将兵の遺品を遺族に返還するNPOで、代表は”ジャガード・千津子さん”という方になっている。 ジャガード・千津子さんの住所はわからないが電話番号が書いてあり、そのエリアコードからイリノイ州ブルーミントンというのがわかった。ボクはブルーミントンは行った事があり、オハイオ州コロンバスの自宅からは5〜600km、6時間くらいだった記憶がある。 そうか〜、こういう活動をやっている人がいるんだ、、、ボクは全く知らなかった。 |
NPOキセキはの活動は1971(昭和46)年に加治安彦さんというオハイオ州に住んでいた日本人医師が始めたとなっている。 加治安彦さんは昨年の暮(2021年12月)に87才で亡くなられており、ボクがオハイオにいた1995年から2010年の間は生存していた事になる。 加治安彦さんはオハイオ州トレドに住んでいたそうで、この町はデトロイト方面に行く途中、ボクは何十回となく通過しており、自宅コロンバスから200kmちょっと、2時間のところにあった。 トレドはミシガン州との州境にあるきれいな市で、オハイオ州4番目、全米でも60番目の人口の大きな街である。 いつかゆっくり見物をしようと思っていたが、とうとうフリーウエーから下りることなく帰国してしまった。 ちょっと驚いたのは、加治安彦さんという方は三重県出身となっていた事である。アメリカで医師をやっていたので、アメリカの大学を出ていたと思われるが、三重県のどこの出身の方だったのか気になった。 ボクはオハイオにいた15年間、様々なフリーマーケットに大いに顔を出した。 オハイオ州は11万uあり、日本全土の1/4より広く、山はない。休日はオハイオ州と近隣の州を車で実によく走ったものだ。 そしてそのフリーマーケットで、寄せ書きの入った日章旗が時々売られていたのにびっくりした。 それらの大半はかつての太平洋の島々の戦いで戦死した日本の将兵の持っていたものを、アメリカ兵が戦利品・記念品として持ち帰ったものであろう。 ボクはそれらを見る度に我々の父の世代の魂が、アメリカで彷徨っている気がした。日章旗には多くの人の名前、そしてこれを持って出征し戦死した背年達、、、こんな異国で魂が売り物になっているのを見てボクは悲しかった。 この事をある駐在社員の奥方に話したところ、「Nさんって、少し変わってますよね?そんなモノ見て悲しくなるって。」、と言われたのには、別な意味で悲しくなった。 |
ボクは最初の頃、寄せ書きの入った日章旗を見て、「日本人であるボクが買い取って、何とか遺族に返せればいいがな〜。」、と思っていた。日章旗は大体が50〜100ドル程度で売られていた。 でもボクは買うのは止めた。その数があまりにも多く、キリがないと思ったからだ。(今では1枚でも2枚でも買っておけばよかったと思っている。) 日章旗などの戦利品はフリーマーケット以外ではアンティックショップでも多く見た。これらフリーマーケット、アンティックショップでは寄せ書きの入った日章旗以外に日本刀、銃剣、鉄帽(鉄兜)、写真などもあった。 ボクはあるフリーマーケットでアンティーク品として九九式歩兵銃が売られているのを見た時、ナゼかこれは買った。90ドルだったと記憶している。 銃は分解して清掃した。銃の清掃・整備用の道具はどこのDIYショップでも売っていた。 ボクは銃を近所のガンショップに持って行き、弾はあるか聞いたところ、何とあるという。彼らは日本の九九式歩兵銃を"TYPE 99 ARISAKA"と呼んでいた。(有坂式の事だと思う) ガンショップの親父は、「貴方が分解組立てをしたのですか?古い銃だし念のために試射を私の方でやっておきます」、というのでボクは銃を1週間ほど預けた。 結果は問題なし、銃と38発の弾(2発はガンショップの親父が試射に使った)を受け取った。 ボクは日本に帰るときこの銃をどうするか考えた。勿論、日本に持って帰る事はできない。会社の誰かに言えば喜んで引き取ってくれるだろう。しかし銃が再びアメリカ人のオモチャになるのは何としても避けたかった。 そこでボクは銃を完全に分解、心臓部である遊底部は庭に埋め、それ以外は捨てた。銃に宿る日本人の魂はボクが持って帰り、その抜け殻は只の鉄屑・木屑として処分をしたのである。 日本軍の全ての小銃には菊の紋章(天皇家の紋章)が刻印されていたが、ボクが買い取った九九式歩兵銃から菊の紋章は削り取られていた。終戦で武装解除の時に、菊の紋章だけは敵に渡せない、という事で削られたと聞く。 従ってこの銃は武装解除で接収、アメリカに渡されたものと思われるので、持ち主はその後生還したと信じたい。戦場で鹵獲されたものは菊の紋章が残っているそうだ。 |
更にWEBサイトには次のような事が書かれてあった。 鈴鹿市出身の戦死者の遺品を持つアメリカ人が、それを遺族に返還したかったのでシカゴ領事館に遺族の探索を依頼したが、領事館からは見つからなかった、という返事であったというのだ。 エッ、鈴鹿市?ボクはちょっとびっくりした。 この遺品に関しては次のようになっていた。 遺品: NOTE(ノート)とあるが、勤務記録のようである。 持ち主: (Oak Park, Illinois)イリノイ州オークパーク在住の白人女性 発見の動機:父親の遺品から、父親は太平洋戦争当時軍医中尉、硫黄島の戦いに従軍 戦死者の出身住所・氏名等:ノートから、三重県鈴鹿市庄野町六丁目 海軍上等水兵 清水實(シミズミノル) 戦死の地: 硫黄島(恐らく昭和20年2月〜3月の間) 所属部隊: 硫黄島警備隊 千鳥十二糎(cm)高角砲台 第二分隊 三番高射砲 鈴鹿市の庄野というのはボクの今の住まいから北西に6km程のところにある、昔の東海道五十三次の”庄野宿”のあったところである。 結論から言うと、昨年の5月、三重県遺族会、その他の人々の努力によって、手帳は遺族の手に還ったとあった。 硫黄島では日本軍将兵20000人が戦死し、ロサンゼルスオリンピック(1932年)の馬術障害飛越競技の金メダリストの西竹一大佐もここで戦死している。 終戦の日、ボクはWEBのニュースにあった新潟出身の阿部伍長の記事を読み、NPO法人"Kiseki"を知った。 そしてこれの発足人は、ボクが住んでいたオハイオ州に在住していたボクと同じ三重県出身の医師であった事も知った。 更にKisekiの最近の活動として、現在ボクの住む鈴鹿市出身で硫黄島で戦死した清水上等水兵の遺品が1年ちょっと前に遺族に還ったのを知った。 オハイオ、三重県、そして鈴鹿市、これらは偶然だろうが、ふと何か不思議なものを感じた。ボクはKiseki代表のジャガード・千津子さんに、そのうちメールを出そうと思っている。 PROJECT RETURNED MEMORIES HOME KISEKI |