引っ越し準備(2022−10−18)
ボクはオハイオに行って10ヶ月くらい経った頃、家を買った。家は2階建て4BR(トイレ3、風呂2)だった。それまで埼玉県の東武東上線沿線の4LDKのマンションに住んでおり、不動産屋に家を見せてもらった時はその広さと値段にびっくりしたものだった。

14年後に帰国、今度は3LDKのマンション住まいになった。住み始めてしばらく経った頃からもう少し広い部屋が欲しいと思っていたところ、隣の棟から絶好の出物があり、これを手に入れた。
引っ越しはリフォーム、その他の事情により、1年後の来月中旬となった。そんな訳でボクとカミさんは今、引っ越し準備の真っ最中である。

アメリカから帰ってくる時は家具・電気製品抜きで段ボールの箱が200箱あり、80箱はボク関連だった。家具と電気製品は全部売ってきた。家具類はいくら気に入っていても日本に持って帰るな、と言われていた。全てが日本の家にはデカすぎるのだ。

12年経った今、200箱のうち実際に使ったのは半分くらいで、残りは箱を開けて一部の中身を取り出したりしたが、ほとんどそのままの状態で倉庫代わりの古い一軒家に入っている。

今回の引っ越しを機会に、今の部屋のモノを徹底的に整理する事にした。始めるとボクもカミさんも処分可能品が山のように出てきた。
ボクのモノで言うと、例えばDVD・音楽CDは段ボール5箱分があった。整理の結果、これは2.5箱になった。

一番困るのは使わないのはわかっているが、どうしても捨てられないモノで、その中のひとつが旅先でその都度買った記念品・置物などである。これなども段ボール4箱分ある。どうするか、、、。

最初の頃、こういう記念品はアメリカ国内、カナダ各地に行くと"ご当地名"の入ったビールジョッキ、マグカップを1〜2個づつ買っていた。

さすがにこれは溜まってくるとかさばる事に気が付き、ウイスキーのショットグラス、ワインクラスに切り替えた。

一時期は皆と同じようにキーホルダーを記念に買い集めた事もあり、これも今回100個くらい出てきた。それぞれ地名などを確認すると当時の事が蘇ってくる。

こういう記念品はその都度は1〜2点であるが、訪れる場所が増えてくると結局は数え切れない数になってしまう。
それと今回びっくりしたのは国際線の飛行機に乗るとくれる、遮音用のイヤー・プラグとアイマスクが紙袋一杯どっさり出てきた事だ。
スリッパは持って来ないようにカミさんから言われていたが、アイマスクがこんなに溜まっているとは思ってもいなかった。

引っ越しは隣の棟ではあるが、整理などの手間は引っ越しの距離にあまり関係がない。今回の引っ越しを契機に、さて、どこまで断捨離ができるか。

旅行・出張では行った先々で、その地の各種案内パンフレットを手に入れる。アメリカ、カナダの案内パンフレットは多くの日本のそれと違い、イメージではなくきっちりした文章でわかりやすく説明されている。加えて日本のようなマンガチックな表現ではない、シンプルでわかりやすい地図(案内図)が含まれている。

またむやみに食べ物の案内がない。日本の観光案内はグルメ紹介が多く、何の案内かと思ってしまう。

これらパンフレット類はレターサーズ(A4サイズに近似)、またはリーガルサイズの両面刷りで折りたたむとみんな同じサイズになり、持ち運びも便利である。

各国、各地で手に入れたこういう案内パンフレットは、旅ごとにA4の袋に入れて記念に残してあった。
これが書棚を70cm近く占めるようになっていたので整理をしたら4分の1になった。

この中にオハイオに行って直ぐの頃に行った、赤毛のアンで有名なカナダのPEI(プリンスエドワード島)旅行関連のパンフレットが出てきた。

この旅は往きはオハイオからカナダに入って、オンタリオ湖東端のブロックビルという街とケベックシティーに各一泊、そしてPEIのシャーロットタウンに2泊。

帰りはカナダのセント・ジョンに1泊、更にアメリカ・マサチューセッツのボストンに2泊。そしてここから一気にオハイオまで帰るという合計7泊8日、総行程5000kmの車の旅だった。

これはボクの経験した旅の中で最高にダイナミックな車の旅のひとつだ。

他にダイナミックな車の旅としては、ベルギーからスエーデン往復(2000km)オハイオからフロリダのデズニーワールド往復(3000km)などがある。

これらを経験するとオハイオからニューヨーク往復の1800kmとかはあまり気にならなくなった。

このPEI往復の旅はボクらにとって一生忘れることができないハプニングがあった。

PEIの観光を終えてカナダの東海岸からニューブランズウイック州のセント・ジョンに向かっている時の事であった。
夏のカナダ・アメリカの東海岸というのは素晴らしい風景の連続であった。

セント・ジョンの手前で"観光案内所"があったので、トイレ休憩も兼ねて入ってみた。この時、セント・ジョンの情報・地図は日本の「地球の歩き方」から仕入れてあった。
しかし情報・地図は現地でもらうパンフレットが一番である。ボクは受付のオバサンに聞いて、幾つかのパンフレットをもらった。

ボクはもらったパンフレットの地図と自分で準備してきた地図を外のベンチで拡げてみた。
あれ?2つの地図の街の通りが全く違う。そもそも観光案内所でもらった地図に、ボクが予約したホテルのストリートが載ってない。
何が違ったのか?

ボクはニューブランズウイックのセント・ジョン:"Saint John"のホテルを予約したつもりだった。

しかしボクがやってあった実際の予約は、ここから1200km近く離れた、ニューファンドランド島のセント・ジョンズ:"Saint John's"のホテルだった。

"s"一文字の違いは致命的だった。これに気が付いたときのショックは今でもはっきり覚えている。

問題はこの日、ボク達3人の泊まるホテルがない事である。ボクはまず"Saint John's"のホテルのキャンセルを申し込んだ。
電話に出た女性はペナルティーなしでキャンセルしてくれた。

次にAAAでもらった観光案内書を見て、半径150km以内の主要な町のホテルに片っ端から電話を掛けた。
半分くらいは満室(アメリカの独立記念日の週でサマーバケーションの真っ最中)、半分くらいは1泊250ドルとか300ドルという値段であった。当時はNY5番街のヒルトンでも150ドルで泊まれた。

ボクはセントジョンから更に250km先のアメリカ・メイン州・カムデン”Camden”というところにある、リゾートロッジに電話を掛けてみた。

今でも覚えているが、出たのはBILLという男性で、135ドルで2BRのロッジが空いているという。
今から3時間くらいで行くがいいか?と言うとOKとの返事。

2時間半後にロッジの管理事務所に着くと感じのいい、60才近くの白人がニコニコしてボク達を迎えてくれた。電話に出たBILLであった。

ここはゴルフ場2個分くらいの広い敷地に、ポツンポツンとロッジが建つ、素晴らしいところだった。
ボク達3人は鍵を渡されたロッジに入ってびっくりした。それは映画でしか見たことのない、高級リゾート・ロッジであった。

荷物を部屋に入れ、再度管理事務所に行ってBILLに、「食事をしたいので、いいレストランを教えて下さい」と聞くと、彼は実に親切に教えてくれた。
教えてもらったレストランは10kmくらい先の海辺にあり、ボク達は特大のロブスター(確か1尾20ドルもしなかった)をひとり1尾づつ食べた。

この時の事は20年以上経った今でもカミさん、下の娘とは時々話題になる。
こんな事を思い出したり、話をしながら整理をやっているので、引っ越し準備は一向にはかどらない。ま、いいや〜、あと4週間あるんだから〜、、、。