個人的には、、、何だ?これ:(2024−09ー06) |
ボクは仕事を辞めてから6年が経つ。 毎日が意外と忙しい。やることが多く、1日が過ぎるのが本当に早いと感じる。気がつけばすぐに昼食、そして夕食、やがて就寝。 友人たちに聞いても、同じような感想を持っている人が多い。 これは、人生の残り時間が少なくなる(短くなる)と、日々を短く感じるようになる、というのを聞いた事がある。 そう言えば、子どもの頃の1年は果てしなく感じ、1日も長かった。 そんな日常の中で、大した事ではないのはわかっているものの、気になることや関心を持つ事柄は多い。 その中でも、最近特に気になるのが、著名人などが何か意見などを言う時に、前置きで使う「個人的には、、、」や「個人的な気持ちでは、、、」という言葉だ。 先日、あるネットニュースで自民党の小泉進次郎議員が、夫婦別姓について見解を述べた時にもこのフレーズを使っていた。 また、コメンテーターの阿川佐和子も同様に使っていた(ちなみに、コメンテーターという職業自体が、ボクにはまだよくわからないのだが)。 なぜみんな「個人的には…」という前置き言葉を好んで使うのだろうか。少し考えてみた。 |
ボクはこういった、どうでもいいような事について「Why?」を考えるのは、割と好きな性分である。 まず考えられる理由は、「批判を回避するため」ではないか。「個人的には、、、」と前置きすることで、他者と異なる意見を述べても、それを個人の見解に留め、対立や批判を和らげようとしているのだろう。 小泉進次郎がこれを使ったのも、発言が過剰に解釈されないよう、個人の意見として伝えるためではないか。 これは、ある意味で”日和見的な意図”を強く感じる。 次に考えられるのは、”発言に対する責任を回避するため”だ。 公式な場や組織に所属する人がこの前置きを使うことで、発言に対する責任を軽減し、後で批判される可能性を低くしようという心理が働いているのでは、と感じる。 ここには、”狡猾さ”のような印象をボクは非常に強く感じるのだ。 もう一つ考えられる理由としては、”個人の意見を強調するため”だ。 他人の意見や一般論と区別し、自分の見解であることを際立たせたい時に、この表現が使われる場合だ。 ただし、これは議論や討論の場で、「自分はみんなと違う」という強い主張をする場合に使われるものであり、前の二つのケースとは違って、”責任回避やずるさ”を感じさせない。 前の二つの理由には、言葉を和らげ、批判を避けようとする心理が見える。 しかし批判に立ち向かう気もない人間が、政治家やコメンテーターをしていること自体、おかしな話だ。 脳科学者の中野信子もこの表現を頻繁に使っているが、「またか」と思ってしまうのは、ボクだけか? |
アメリカでも、「Personally, I think、、、」という表現はある事にはある。政治家がこれを使う場合は、自分の意見があくまで個人の見解であり、党や政府の公式見解ではないことを示す意図がある場合に使っている。 これは、自分の意見を述べつつも、議論を深めたくないという印象も受ける。自分と組織の立場を明確に区別するための手段と解釈できるが、多くのアメリカ人は、”曖昧で責任回避”のように感じているのではないか。 日本では、会社の会議などでも「個人的には、、、」という前置きで意見を述べる人を見かけたが、ボクはアメリカではほとんど耳にしなかった。 アメリカでは、自分の立場を明確にし、確固たる根拠に基づいて意見を述べることが重視されているからだろう。 「個人的には、、、」という前置きは、主張の強さや論理性を弱めてしまう可能性がある。 さらに、アメリカの多くの会議では、”個人的な感情”や”主観的な意見”よりも、”事実やデータ”に基づいた議論が重視される。 そのため、「個人的には、、、」という表現が感情的な要素に焦点を当てると、無視されるわけだ。 それに加えて、この前置きは、”発言に対する責任を回避”しようとしているように映り、”発言者の信頼性を低下”させることがあると感じる。 アメリカ人に対比して、日本人は会議で「I think、、、」を使うが、これは謙虚さや意見の柔軟性を示したり、対立を避けたり、英語に自信がない場合に使う、という印象を受けた。 かつて、会議中に最初から終わりまで「I think、、、」を使い続けた日本人をボクは知っている。 今思い出すと、ボク自身もよく使っていたね。 でも、ボクの会社のアメリカ人たちは「ジャングリッシュ」(日本人英語)と日本人の話し方の特徴を理解してくれていたので多分、特に問題はなかった、と思う。 |
ボクは書類や資料、読み終わった本や雑誌を管理するために、これらをスキャナーで読み込んでPDF化し、PCで保管している。 もう15年ほど続けており、大きな本棚3個分くらいの紙をPDF化した。 目的は、後で再度読むため、そしてボクのウサギ小屋マンションでは必須の、”保管スペースの節約”だ。 しかし、実際に再度参照する機会は非常に限られているけどね。 そんな中、PDF化に使っていたスキャナー”FUJITSU S1500”がついに動かなくなった。 何十万ページも読み込んで酷使した結果だから、仕方ないとは思いつつ、同じモデルがまだ売っているか調べてみたら、なんと4万円以上。 新しいモデルだと5万円以上する。うーん、これは悩ましい。 壊れたのは排紙部分のメカで、非常に精密で複雑な箇所だ。 ダメ元でWebで検索してみると、驚いたことに修理方法がいくつも見つかった。このスキャナーには、給紙・排紙部分が長年の使用で機能しなくなるという「持病」があるらしい。 そこでボクも修理に挑戦することにした。 Amazonで給紙・排紙メカのローラー部分のシリコンチューブを注文。価格は1,500円だった。 2日後に部品が届いたので、Webサイトを見ながらシリコンチューブをカットして交換。少し苦労したが、作業は15分程度で完了。 さっそくテストスキャンをしてみたら、見事に復活! これで、年金生活者にとっては大金である5万円の出費を抑えることができた。買ったシリコンチューブは100cmで、使ったのはわずか10cm。あと9回は修理できる、、、と、アホな皮算用をしてみたり。 ボクにとって、スキャナーは終活の重要なツールだ。捨てるに捨てられない書類や本(本当は捨てられるのだろうけど)を、片っ端からスキャンしている。 300ページの書籍も10分でスキャンできるし、旅行で集めたパンフレットもスキャンして、紙の方は捨ててしまう。 印画紙で残っていた古い写真もスキャンして、殆どPDF化してPCで管理。 これらはインデックスを工夫すれば、すぐに取り出せるようになっている。再度の参照は希だけどね。 まあ、「個人的には」スキャンしてPDF化するのは、ボクの趣味のひとつと思っており、悪くはないかな、、、と。 |