ボクらの原点:2025−02ー25
ボクは絵本作家の谷内六郎と、挿絵画家の滝平二郎の作品が好きである。
二人とも1921年(大正11年)生まれで、作風こそ全く異なるものの、谷内六郎は日本の昔の庶民の生活や文化を、滝平二郎は日本の農村風景や民話を題材としており、共通するものがある。

谷内六郎を知ったのは、若い頃、通勤時に駅の売店で買った「週刊新潮」の表紙絵がきっかけだった。
その独特な雰囲気に惹かれ、いつしか彼の絵を楽しみにするようになった。

一方、滝平二郎との出会いは、ボクが20代の頃、1974年の「朝日新聞日曜版」に掲載されていた彼の切り絵だった。
その素朴な表現に感激し、思わず切り抜いて大切に保管した。

父が購読していた日経新聞には、日曜だけナゼか朝日の日曜版が入っていた。
その切り抜きは、半世紀経った今でも手元に残っている。

そんな滝平二郎の作品集15巻(岩崎書店)を最近オークションで見つけ、落札した。
実は以前、6巻と14巻だけを先に入手していたのだが、やはり全巻揃えたくなり、ずっと探していたのだった。

この作品集は、1984年に第1刷(1巻2800円)、1994年に第2刷(1巻3400円)として販売されており、今回は全巻を1.5冊分の価格で手に入れることができた。
数日前、その作品集が届いた。大型本15冊、重い。

作品集は中古品で外観には多少の傷や汚れ、日焼けが見られるがページの痛みはない。
誰かが購入したものの、ほとんど開かれることなく保管されていたのだろう。

発行から40年の経年を考えると、極上品である。
さっそく1巻目からページをめくった。

作品の半分は日本の原風景や人々の心の豊かさを描いた切り絵、もう半分は童話などの児童向け文学作品の挿絵で構成されている。
ボクが特に惹かれるのは、挿絵ではなく前者の方だ。

滝平二郎の切り絵は、黒の輪郭線と鮮やかな色彩のコントラストが美しく、シンプルながらも力強い構図が印象的だ。
そこには、民俗的な情景や人物の温かみが見事に表現されている。

また、切り絵という平面的な技法を用いながらも、陰影や構図によって躍動感が生み出され、日本の農村風景や昔話の世界が鮮やかに息づいている。見事としか言いようがない。
ボクは作品集を夜の9時半から見始めたが途中で止めることができず、気がつけば15巻目を閉じたのは明け方の3時だった。

滝平二郎が描いた日本の原風景や人々の心の豊かさを伝える作品は、1970年から1977年頃までの「朝日新聞日曜版」に、ほぼ毎週掲載されていたようだ。

手に入れた作品集にはその殆どと思われる、約300点が収められている。作品の中心には、農家の家族が描かれている。家族構成は、一人の姉、二人の弟、母、祖母、そして稀に登場する父の六人。

このうち、最も重要な存在として描かれているのが姉である。
すべての作品に登場し、姉一人だけが描かれた作品も少なくない。

それほどまでに、切り絵の作品群は姉を主軸として展開されている。

作品をじっくり眺め、添え書き(詩)を読み、さらに他のページの滝平二郎自身の解説を追っていくと、姉という存在が彼自身の理想や感情を投影したキャラクターであるのが感じられる。

姉は単なる家族の一員ではなく、家族を精神的に支える中心的な存在として描かれている。

滝平二郎は、自身が抱えていた感情や理想を姉に重ね合わせ、その存在に特別な意味を持たせていたのではないかと思う。また、姉は作者自身が憧れる理想の人物像としても、描かれているように感じられる。

姉は母や父とは異なる形で家族の絆を深め、家庭に安定をもたらす役割を果たしているのだ。
弟たち、そして周囲の子供たちにも優しく接し、その姿はまるで天使のような雰囲気さえ漂わせている。

滝平二郎の作品には、理想的な家庭像や日常の中に息づく温かさが表現されており、それが彼の特徴的な色使いや、どこか手触りの良い画風と結びついている。

もうひとつ、彼の切り絵における特徴のひとつが「目つき」である。
初めて見るとその独特な描き方に少し奇異な印象を受けるが、実はこれこそが日本人の目の表現なのかもしれない。

滝平二郎は茨城県出身であり、その切り絵には北関東地方の風土がにじみ出ているといわれる。
これらはボクが幼少期を過ごした三重県にも、彼の作品に描かれたような風景や空気が、わずかながら残っていたように思う。

だからこそ、滝平二郎の作品を見るたびに、言葉では言い表せない深いノスタルジーを覚えるのかもしれない。

ボクは1974年に滝平二郎の作品を偶然目にしたわけであるが、その作品は一瞬で自分が子供の頃経験した事と、類似した情景を持っている事に気が付いたのを覚えている。

切り絵には姉と弟2人が両親(ここでは”母”となっているところに注目したい)の帰りを待つ姿が描かれている。
空は暗くなり、両親がいない寂しさと空腹に弟は泣き、兄はすっかり暗くなった土間の電灯を灯しながら、泣きたいのを堪え外をうかがう。

姉も両親の帰りを今か今かと待つように、土間の戸を開けて外を見ている、、、。

ボクも小さい頃、両親がどこかに外出して、家で妹と二人で帰りを待った記憶がある。
外は暗くなり、妹は泣き出し、ボクは玄関から外に出て誰もいない道路から現れるであろう両親を待った。

24才の時にこの作品を見て、その昔のボクと妹の姿を投影したような絵が載っている新聞を切り抜いた、、、そんな事だったと思う。

切り絵の横には「日暮れ」というタイトルの横に、滝平二郎の文が並んでいる。

「秋の日は、つるべ落としというからに、野良の仕事は早々に、見切って家路を急ぐべし。
留守居の子らがひもじさこらえて待つからに、それ、早く帰って夕餉(ゆうげ)の支度を急ぐべし。
家では子らが母を待つ。泣くな泣くなと母を待つ。共に泣きつつ母を待つ。」


もう少し散文的な添え書きの作品もある。1981年の「行水」である。

「日向水はちょうどいいあんばいの水加減だ。
いきなり冷たい水に入ると体に障るから、といって母ちゃんが朝のうちに大ダライに水を張っておいてくれたのだ。
姉ちゃんはもっぱらマクワ瓜の行水係。
同じ行水でもマクワ瓜は冷たい水の方がいい。」


作品集には、子供を可愛がる親の姿と心とか、親を思う子供の姿が切り絵で、鮮やかな色合いで収録されている。
人間の「ありたいという気持ち」が出ているだけに心を打ち、胸に何だかジーンとくる。

今では失われた季節感、生活感を思い出させる。
既に失われた良き日本が、切り絵を見ると蘇る。

添えられた文章は短くとも情緒的で、絵と一体となるような詩的な表現で何とも言えず、心に伝わってくる。
これは、単なる説明文ではなく、作品の世界観を補強する言葉だ、とボクは思う。

全集15巻のそれぞれ半分以上は児童文学作家の齋藤隆介と組んで製作した多くの挿絵・カット・木版画が収録されている。
また1950年代に画いた人物のデッサンを見ると、滝平二郎の全ての作品に共通する”力強いタッチの原点”を見つける事ができる。

さてこの15冊どこに置くか、手許に置きたいのだが部屋の本棚は既一杯である。早く整理しなくては、、、。