2018−03−15: フィリピンにて(〜2017。05:その1) |
フィリピンでの生活はもちろん日本とは違うし、アメリカとも全く違います。 日本人は未だに日本以外を”海外”、という言葉で一括りにしてものを見たり、考えたりする人がいます。また東南アジア、とか、ヨーロッパとかの括り方で実はある特定の国の話しをしている人もいます。 当然ですが、国によって全然違います。こういう括りで言って良いのは地学の世界くらいでしょう。 私はこの1年間フィリピンにいました。短い期間ではありましたが、生活をしてみてのフィリピンのスナップショットをまとめてみました。 |
フィリピンのお土産 | ||
フィリピンのお土産というと、何をを想像しますか? 食べ物ではナッツ類、それにドライマンゴー(私は好きではありませんが)とかバナナチップとかのドライフルーツ。 最近は日本のスパーでも買えますので、お土産の価値は殆どなくなっているかも知れませんが。 民芸品もいいものがたくさんあります。私は訪れた国の記念としてその国の風景、人を描写した絵などを一つだけ買います。 こういうのは土産物屋ではなく、デパートなどのインテリアショップで買うのがコツです。 |
フィリピン料理(1) | ||
朝食はコンドミアムで簡単に済ませ、昼は工業団地の外にある日本レストラン。夜も日本食が中心なので実はフィリピン料理を口にする、という機会は多くはありません。 そこでフィリピン人スタッフと外出して昼食を摂る場合などは、意識してフィリピンレストランへ案内してもらうようにしていました。フィリピン料理はズバリ、日本人の口に合います。 南方だから辛い料理が多いのだろう、と思ってはいけません。フィリピン料理は強い香辛料を使わないので、口から火は出ません。 |
フィリピン料理(2) | ||
会社では社員達は副社長以下全員が社内のキャンティーンで食べます。私だけ車で毎日日本レストランへ食べに行くというのもちょっと気になったので、1週間に1回を目標にキャンティーンで食べる事にしました。 キャンティーンのメニューは食べれない事はない、というレベルです。 値段は50ペソちょっと、日本円で120円くらい。物価感覚は円に換算して5倍から6倍くらいすると日本と同じになります。 しばらくすると1週間に1回が2週間に1回、それが3週間に1回になってとうとう行かなくなってしまいました。 |
会議食 | ||
会社で会議をやるとよくケーキなどが出ます。コーヒーもちゃんとしたカップで出ます。 現場からガラス越しに丸見えの会議室でもケーキを食べてコーヒーを飲んで会議をする事があります。 「ワーカーから見える部屋での飲み食いはいかがなものか」、と言ったところ、「これはマネージメントレベルの特権ですが。」、という返事でした。 でも例外を除き、自粛をしてもらいました。 写真は外部のゼネコンの連中とのある日の会議風景で、あるひとりが茹でたトウモロコシを一杯持ってきたので、これをムシャムシャ食べながらやった時の風景です。 |
お買い物 | ||
コンドミアムは土曜日にメイドが来て部屋・シャワー室、台所の掃除、洗濯、アイロンがけ、ベッドメイキング、その他細々とした事をやってくれます。 料理をやってもらう訳ではないので頻度はこれで十分です。何せコンドミアムには寝に帰るだけ、という週も多いのですから。 掃除に必要なものは私が買う事にしています。 「Nさん、これが切れました」、と容器などを私に見せるので、それを買っておくのです。 私はそれをスマホで写真を撮り、それをスーパーの店員に見せます。 間違いなく、指示されたものが買えます。 |
朝夕の通勤渋滞 | ||
朝は前の日の夜がどんなに遅くても基本的に8時の出勤は守ります。 コンドミアムから会社までは50km、昼間の道路が空いている時だと50分くらい、ところが朝は1時間10分以上、時には1時間30分くらいかかります。 夕方は2時間くらいかかる時があります。 そこで取引先との会食などがないときは、会社近くの日本レストランで一杯と夕食を済ませ、20:30分頃に出ると混雑は少し緩和されているので1時間ちょっとでコンドミアムに着くことができます。 インドネシアはもっとヒドイそうですね。 |
大学生の研修(1) | ||
C大学から1〜4年生の6名(1名はこの日欠席)の実習生がやってきました。 毎年受け入れているそうで、主要な社員の前で自分の抱負(?)を2分くらいスピーチしてもらいます。 私の会社に顔を出すのでは2日間だけであとの10日間くらいは別なスケジュールで様々な実習をするそうです。 4年生のSさんは既に就職先が決まっているのですが、専攻学科とは全く違う業種への就職であり、これがフィリピン人には理解できないのです。そんな訳で私が後で主要なメンバーに説明をしておきました。 さて、彼らの質問にどうやって説明したと思いますか? |
大学生の研修(2) | ||
少し前後して今度はM大学からの実習生が来ました。彼等も10日間程の実習のうち私の会社に1日間の実習でした。 全員工学部3年生で院生が1名という顔ぶれでした。 引率のY先生とはいろいろと話しをさせて頂きましたが、非常に幅広い考えを持ってみえ、私も大いに参考になりました。 C大学もM大学もやはり英語がネックで、社員とのフリーディスカッションもままなりませんでした。 彼等もきっとそういう意味で良い勉強にいなったと思います。 |
日本料理 | ||
マニラ及びその周辺には数え切れない程の日本食レストランがあります。料亭レベル、居酒屋レベル、大衆食堂レベル、何でもあります。 値段も1食1000円くらいの定食から、1人1万円以上になってしまうお店まで様々です。 まあまあのお店で1人4〜5000円相当ですから、日本と同等と思えばいいと思います。 主要な取引先とは定期的にいろいろと情報交換をするためにこういう場所で食事をする事になります。 フィリピンに10年以上みえる方も多く、こういう方の話しは非常に参考になります。 |
お付き合い | ||
食事の後は場合によってはカラオケに行くこともあります。ここでいうカラオケとは日本でいうショーパブ+カラオケBOXです。 私はカラオケはあまり得意ではありません。歌える曲は2〜30曲はあると思うのですがヘタです。 女の子の中には日本語が上手な子がいます。みんな営業上の理由から必死で覚えるのです。 客に日本人が多い店、半島人が多い店、台湾人が多い店、それぞれ大まかに分かれています。 |
日本より上です(1) | ||
会社の取引先としてではなく、商工会議所などを通じて個人的な付き合いをさせて頂く人もいます。そんな中のひとりがAさんという方で彼の会社を見せて頂く機会がありました。 会社は住宅関連の製造業ですが、会社の中はよく整理整頓がされており、びっくりしました。 ここの会社も工場長クラスのフィリピン人がきちんと育っており、彼が現場のマネージメントを全て仕切っておりました。 私は日本、アメリカも含め多くの会社を見てきましたが整理整頓、レイアウト全般、モノの流れなどは日本でもここまでの会社は少ないと思いました。 |
日本より上です(2) | ||
車の世界で言えば1次下請けはそれなりの規模があって資本も充実しており、工場などもいい意味で合理化されています。 ところがその下の2次下請け、更に3次下請けになるとムダの多い工程を見掛ける事がありました。 私は工場の生産工程に関しての専門家ではありません。 私が30年以上勤務した前の会社の協力部品メーカーの社長さんと生産担当のマネージャーに私の会社を見てもらい、忌憚のない意見をもらいました。 目からウロコのアドバイスをいくつもくれました。 |
日本より上です(3) | ||
見学させてもらった会社の生産管理部門では机の中の事務用品まで置く位置が決められておりました。 整理整頓もここまでやるとはね〜、、、。 しかしこれは社員による事務用品などの持ち出し防止という観点もあるのではないかと思います。 このようにしておけば少なくとも数の管理は容易になりますからね。 時給120円、日給1000円で働いている一般社員にとっては現場から持ち出す一握りの部品がどういう価値を持っているか、工場運営には日本とは違った視点が必要になります。 |
マバラカット(1) | ||
日本は太平洋戦争末期に兵力10倍のアメリカ軍に起死回生の一撃を加えるために航空機による体当たり攻撃、いわゆる神風特別攻撃隊という、非情な戦術をとりました。 神風(”カミカゼ”、実際は”しんぷう”と呼ばれていたそうです)特攻というのは日本人であれば誰もが知っていると思うのですが、誰が発案して誰が最初にこれを行い、どこからどこに出撃していったか、というのは今となってはあまり知られていないと思います。 神風特攻第一号はマニラの北西80kmにあるマバラカットというところにあった海軍の航空基地から出撃しています。 |
マバラカット(2) | ||
マバラカットとは今はどうなっているのか、70年以上前の飛行場跡はどうなっているのか、フィリピンに来たからにはいつか行っておきたいと思っておりました。 WEBでできるだけの情報をかき集め、目的地を運転手のS君に伝え出発。 マニラ市内の渋滞を抜けるまでに1時間以上、更にそこから2時間、いろんな人に聞きまくってやっと海軍マバラカット東飛行場跡にたどり着きました。 昭和19年10月25日、関行男大尉以下5名の若者がレイテ湾のアメリカ艦隊に向けて出撃、全員還らぬ人となった、と慰霊碑には書かれていました。 |
マバラカット(3) | ||
この近くには米軍のクラーク空軍基地があり、その大きさはシンガポール一国と同じくらいの広さがあるそうです。 東飛行場跡を後にして、西飛行場跡に行ってみることにしました。 広大な地域であり、WEBで調べた住所はいい加減であてになりません。ここは運転手のS君の聞き込みに頼るしかありません。 そのうちに雨も降りだしました。 「S君、やっぱり無理かな〜、もう諦めて帰ろうか、、、、」 「イエ、何とか探しましょう、まだ時間はあるじゃないですか、、、」 |
マバラカット(4) | ||
とにかく広大なエリアです。恐らく20km四方を走り回った末にある大きな町の公園に入りました。博物館があります。 S君はそこにいた3人ほどのガードマンに聞いています。 「Nさん、大体わかりました。」 そこから車を飛ばすこと30分、広大な荒れ地の端に着きました。 「ここだと思うのですが、、、、」 更に走るとありました!フィリピン空軍が管理しているようでやっと入り口が見つかりました。 「Nさん、200ペソ(500円)下さい」 カードに賄賂を渡さないと通さないのです。 |
マバラカット(5) | ||
やっと見つける事ができました。 広大な荒れ地の中にぽツンポツンと掩体壕が見えます。かつてこの近辺には日本海軍飛行場10以上あり、現在アメリカ軍が使っているクラーク基地はそのなかのひとつに過ぎません。 掩体壕の上に苦労して上ってみました。靴と半ズボン、それに両腕も泥だらけになってしまいました。 この周辺にあった10以上の飛行場には何万人もの日本兵が基地勤務をしていたそうですが、その後の地上戦で99%は戦死したそうです。 |
マバラカット(6) | ||
マバラカット西飛行場には慰霊碑とその横に防空壕が残っていました。 看板には最初の神風特攻の搭乗員を人選した、「玉井中佐の防空壕」、と書いてありました。 私は持ってきたお菓子をお供えしました。 日本から来た人がここを訪れるには、ホテルに泊って運転手付きのレンタカーを借りて、詳しい正確な地図などを準備する、あとは運転手とコンビを組んで探しまくる、、、結構大変だと思います。 今回私は大した情報もなかったのに本当によく見つけたものだ、、、つくづく思いました。 |
マバラカット(7) | ||
掩体壕の上からははるか彼方にアラヤット山、別名”マニラ富士”が見えました。私は汗まみれ、泥まみれになりました。 掩体壕に上がるとき、堅い小枝で腕に怪我もしてしまいました。 もう二度とここに来ることはないでしょう。 多くの日本人がこんな異国の土地でなくなった、、、私は15分くらいこの場所に立っていたと思います。 運転手のS君は遠くからずーっと私の方を見ていました。 第一回特攻で戦した5名は隊長の関大尉が25才、下士官搭乗員の4名は20才が1名、19才が3名だったそうです。実に私達の父親の世代です。 「 散る桜、残る桜も散る桜 」 |
朝食について | ||
フィリピンへは単身赴任ですから毎日の食事をどうするか、というのは関心事項になりますね。 朝はパン、昼は会社近くの日本レストラン、夜は様々なレストランで一杯やりながらいろんなものをつまむ、こんな生活でした。 栄養の偏りは?もちろんあります。それでサプリメントなどを日本から持ってきてこれを飲んだり、メニューでは野菜を多くしたり、塩分を少なくしたり、とか気を付けていましたが、いろいろと悪い影響が出てきました。 朝食にマクドナルドのチーズバーガーとかを食べるというバカモノもいましたが、こんなの2年も続けたらどうなるか、アメリカにいたのでよくわかります。 土曜日、日曜日はコンドミアム近くのレストランなどで食べます。 例えばコンドミアム横のレストランで食べる写真の朝食、これにコーヒーを頼んで700ペソ(1600円)くらいです。これはこれを運んでくるウエイトレスの日給を軽く超える価格です。 それなり、ですね。 |
大統領主催パーティー(1) | ||
フィリピン政府はフィリピン経済の活性化を目的として外国資本の直接投資を加速させるためにPEZAという官庁が経済特区をあちこちに作っており、現在250程あるそうです。 私の会社もその中にあり、輸出の比率とか雇用条件とかの制約をクリアーすると破格の優遇措置を受けることができます。 PEZAはこういう国でよくぞここまで権限を集中して、かつ汚職などの香りのない組織があるものだ、と感心していました。 その外国からの資本導入でフィリピン経済に貢献した企業に対する大統領の表彰式典と、お祝いのパーティーに呼ばれました。 |
大統領主催パーティー(2) | ||
会場に行くと何と何と、000人以上の人が招かれており、各社2〜3名、表彰を受ける会社からは5名くらいの人が来ていました。 日系の会社の名前もたくさんありますが、目立つのは欧米系、意外とヨーロッパの会社も多く、それに韓国系も日系並みにあったと思います。 普段、日系の会社との付き合いが多いのですが、ここに来てフィリピンへの進出企業全体の絵柄がわかったような気がしました。 ズバリ、日本の会社は日本では伸びる余地はありません。もっと海外に出てきてもいいのではないかと思います。条件はありますけど、 |
大統領主催パーティー(3) | ||
私のテーブルには全部で10名、マレーシアの電気関係の会社の社長夫妻、私達2名、フィリピン政府の女性1名、フィリピンの大きな会計事務所の女性3名などで日本人はもちろん私ひとり。 表彰式の後は会食で、テーブルではフィリピンでのビジネスについての一般的な話しとか、それぞれのお国の話しとかを話題にします。 私はこの会社ではプロパーではないので、前の会社の話しをしたところ大変興味を持ってくれました。 とっておきの小咄なんかもやっちゃいました。 ドーテルテ大統領ですが、緊急の要件があって出席できなくなり、表彰式は4人の長官(大臣)によって行われました。 |
フィリピンのリゾート(1) | ||
フィリピンは都会を離れるとどこに行ってもきれいな海と空がります。 日本人などの観光客を呼び込むにはきれいなホテルとか、充実した設備が必要になりますが、海と空を純粋に楽しむならどこでもいいと私は思っています。 3時間以内で行けるお勧めのリゾートを工場長のNさんに聞いたところ、簡単にいくつもの候補を教えてくれたので、マニラの南南東にあるサンファンというリゾートに行ってみました。 ホテルが幾つもあったのでその中のひとつに入ってびっくり、海と空の美しさはハンパじゃありません。ウーン、唸ってしまいました。 |
フィリピンのリゾート(2) | ||
周りを見ると日本人は誰もおりません。 日本人はもっと充実した施設の”有名な”リゾートに行くのでしょう。 全てフィリピン人の家族、または若い二人連れです。白人もいません。 こういう場所では、いろいろと調べたりちょっと訪ねたりするのはS君にやってもらいます。 でも最後の交渉とかは全部私がやります。これは大事なのです。 とりあえずモーターボートに乗ってみました。1時間1500ペソ(3500円)、高いのか安いのかよくわかりませんが、ぶっ飛ばしてかなり沖まで行ってくれました。 |
フィリピンのリゾート(3) | ||
夕方になってきました。 一泊しようとホテルに交渉しましたが、窓のない部屋で4000ペソ(9000円)、完璧に足下を見た値段です。 きれいな海も見たし、ボートにも乗ったし、小さなリゾートの雰囲気は十分に味わえましたので帰る事にしました。 来てるフィリピン人達を見ていると小さなバンに8人も9人もすし詰め来ています。 車を持てる人は全国民の10%以下ですから、誰かの車にみんなが乗ってやってきたのでしょう。それでもワイワイ楽しそうでした。 |
田舎の風景 | ||
地方に行くと平坦な土地が広がっていますが、その多くは耕作がされているようには見えません。 農地開発が進まない理由の一つが灌漑施設の整備が遅れているかららだそうです。 フィリピンは平地の中を流れる大きな川も少なく、天水だけに頼った農業では作物の育てようがないのです。 のどかな風景ですが、作物を植えているのは限られています。 また農民は最も貧しく、半数以上が1日1ドル(約100円)以下で生活する人達だそうです。 |
スペイン料理(1) | ||
フィリピンは16世紀から19世紀末までスペインの植民地であり、この間の出来事は、今聞いても呆れるより他ない血なまぐさい、白人の植民地支配です。 フィリピンは19世紀末に今度はアメリカの植民地になり、引き続きスペインより過酷な支配を受けて、逆らう者は片っ端から殺されたという国民にとっては地獄の時代でしかない時期を過ごした、という国です。 その後短期間日本の占領、そして再びアメリカの支配、結局独立国家になったのは1946年7月4日です。 |
スペイン料理(2) | ||
そんな訳で(どんな訳?この言葉私はよく使います)、私はいろんな人とかなり頻繁にスペインレストランに行きました。 スペイン料理の煮物、その他の料理は日本人の口に合うと思います。 アメリカで食べる、スペイン料理、メキシコで食べるスペイン料理とあまり変わりません。 スペイン料理というとパエリアがありますが、私はあれば好んで食べません。 食べたとしてもほんの一口で十分です。 フィリピンのスペイン料理はズバリお勧めです。 |
アメリカンレストラン(1) | ||
アメリカの植民地でもあったフィリピンですからアメリカンレストランもあちこちにあります。ここは私が愛用したアメリカンレストランです。 ではアメリカ料理って何?豆のスープとステーキくらいしか思い浮かびませんが、要するに普通のステーキハウスです。 経営者はデブのアメリカ人のおっさんではなく日本人で、お値段はなかなか強気でした。 フィリピンですからアメリカ人は一杯いますが、このレストランでそれらしき連中を見た事はありません。 フィリピン人と日本人だけです。 |
アメリカンレストラン(2) | ||
このレストランの近くには別なアメリカンレストランもあって、バンドが入っていたりしてここも人気があります。 フィリピン人は基本的にアメリカ人が大好きです。やはり憧れの国なのです。 1000万人のフィリピン人が海外で働き、家族、親戚の中には必ず一人や二人の外国で働いている人がいる、というのが普通です。 フィリピンは働く場所がない、という事です。 フィリピン人が他のアジアの国の人に比べて外国で働く人が多いのは英語ができる、それと逆境に強い、という長所(?)によるのでしょう。 |
会社の設備 | ||
会社の中て使っている工作機械・設備は100%が日本製です。日本製の機械は高価ですが性能、耐久性ともに世界一です。 しかし簡単な工作機械とかは台湾製でもいいのではないか、という考え方も入ってきています。値段が日本製に比べて3分の1以下なのです。 設備の一部の輸入は、かなり複雑な手続きを必要とします。 鉄、銅、アルミなどの材料に関しても日本製は他の国の製品と比較して微妙な差があり、値段だけで彼の国のものを使うわけにはいきません。 |
資金貸し付け | ||
会社には社員に対するお金の一般貸し付け制度があります。 病気になった、自宅を修理したい、子供が学校に行く、などでまとまったお金が必要な場合、会社が保証人になって銀行から融資を受けられる、という便利なものです。 家の修理などの場合は写真を添えて、修理の必要性などを証明しなくてはなりません。 でもその家が本人の家って誰が確認するんだろう、、、副社長に聞いてみました。 答えはニッコリ、”Good question.” でした。 |
社員達 | ||
資金貸し付けの金額は3万ペソ(7万円)〜15万ペソ(32万円)で、一番多いのが5万ペソ(11万円)前後です、返済は3年です。 フィリピン人の貯蓄に関して副社長に話しを聞いたことがあります。 富裕層、中流の上を除く一般的な国民は、貯蓄を持たない人が多いのではないか、という話でした。 フィリピンに20年以上住む日本人にも同じ事を聞いてみました。 「貯金?そんな考えはまずないですね、普通は。だから月末はみんな悲惨ですよ。」 だそうです。 |