2018−03−20: フィリピンにて(〜2017。05:その2)
2017年1月から帰国の5月までを綴った写真日記の続きです。
フィリピンでの事は今後の日記の中でも思い出として書いていきたいと思いますので、ここではカメラに残っていた写真を選び出して感想風に日記に残したいと思います。

マニラモーターショー(1)
フィリピンの新車販売台数は2016年が36万台、2017年が42万台とと増えましたが、2018年度は横ばいという予測です。
これに対してタイは2017年が90万台です。人口がタイは7000万人、フィリピンの3分の2ですから、フィリピンはまだまだです。

フィリピンは車を購入できる階層が非情に限られており、恐らく国民の10分の1程度、またはそれ以下だと思います。
会社でも個人で車を持っているのは2人だけで、この2人は30才前の若い社員ですから自力で買ったのではなく、多分誰か(親)に買ってもらったと思われます。

フィリピンモーターショー(2)
マニラでも毎年春にモーターショーが行われます。
規模はそれ程大きくはありませんが大変な人気で、一目でお金持ちとわかる連中がどっと訪れています。お金持ちは中国系フィリピン人が圧倒的に多いのがわかります。

日系の5大メーカー、アメリカの3大メーカー、それに韓国・中国のメーカーと中々盛況でした。
シェアーではT社が40%以上で圧倒的1位で、街はT社の車だらけ、それにM社が日本に比べると大いに目立ちます。
日本車の人気は絶大です。

フィリピンモーターショー(3)
モーターショーに行くとコンパニオンというかキャンペーンガールというか、つまりお嬢さん方が一杯みえます。
普段はなかなかこういう正当派のべっぴんさんを見ることがありませんのでちょっと声をかけてみます。皆さん大変オープンで直ぐに乗ってきました。

フィリピン人は基本的にマレー系だそうでこれにスペイン系、中国系の血が混じった人も多く、色白が好まれるようです。
ちょっと気になったので1日のお手当を聞いてみました。1000ペソ(2200円)から1500ペソ(3500円)くらいと言っていました。

サンチャゴ要塞(1)
マニラは観光地というのがあまりありません。タイのバンコック、我が日本の東京、その他世界の主要都市と比べて(私の知る限りですが)観光地というのが少ないところです。

観光地の多くは結局は植民地時代の遺物とかになります。サンチアゴ要塞もその中の一つで、マラカニアン宮殿の近くにあります。
植民地時代の要塞ですから、反乱者などを閉じ込めて拷問する部屋とかそういう仕掛けは事欠きません。
この要塞は反乱などに遭った時に、船で脱出できるように海に面して作られています。

サンチアゴ要塞(2)
74年前にマニラは日本軍とアメリカ軍の戦闘で日本海軍陸戦隊2万人は全滅、マニラ市民10万人が巻き添えで死亡しています。
アメリカはマニラ市民の死亡を、日本軍による虐殺としていますが、これがいかにウソ八百なのか、小島襄の「マニラ海軍陸戦隊」、を読むと瞭然です。
日本軍は寄せ集めの部隊で武器弾薬もなく、まともにアメリカ軍と戦えず、そういう中で10万人の虐殺はあり得なかった状況がよくわかります。

アメリカは広島と長崎で市民30万人を原爆で殺したその”隠れ蓑”にマニラの市街戦を利用したいのでしょう。

福者、高山右近
ある日マニラ大聖堂にお客様を観光に連れて行ったら、かの有名なキリシタン大名高山右近の肖像と説明がありました。
高山右近は江戸時代初期にキリシタンである事から家族とともに追放され、マニラ到着後40日で亡くなりました。
今でも立派な記念碑がマニラ市内にあるそうです。

その高山右近を「地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」、として福者に認定するようにローマ教皇庁に日本のカトリック中央協議会が申請、2017年に認められ、それが大聖堂で祝福されていたのでした。

今日の一杯
今日も仕事が終わりました。そのままコンドミアムに帰ると交通渋滞で1時間半以上はかかります。
従って会社近くの日本レストランで夕食を済ませることになります。
私の場合、夕食というのは「軽く一杯」と同義語なので御飯モノを食べる事はありません。
そこで刺身を肴にキープしてある焼酎を頂きます。

この5点盛りは800円、日本のどこかのお店と違ってボリュームもたっぷりあります。焼酎には”カラマンシー”、という、スダチに似た果汁を加えてお湯割で飲むとサイコーであります。

34階から真下を見ます
コンドミアムは会社から借りており部屋は34階にあります。
私は住人との付き合いはありませんでしたが、日本人の駐在社員とその家族を何人もエレベーターで時々見掛けました。
小学生の女の子がランドセルをしょって、メイドに付き添われてロビーに降りて車に乗って日本人学校へ行く姿などです。

白人の家族も見掛けた事があります。その他インド人、韓国人、多かったのは中国系フィリピン人だったように思います。

メイドだか看護婦だかに付き添われて散歩に出かけるかなり年配の中国系の女性(90才に近い?)にエレベーターの中で声を掛けられました。

「アナタは日本人ですか」
「はい、どうして日本人ってわかるのですか」
「雰囲気でね。私は若い時に東京の麻生に夫と住んでいました。」

という事でこの女性とは何度か話しをしました。夫は既になくなっており銀行関係の仕事をやっていた、子供はいない、東京が懐かしい、、、などその後会うたびに話をしてくれました。
ニコニコと本当に感じのいい人でした。

カランバ(1)
会社は工業団地の中にあり、ここから一番近い町がカランバです。
日本人が住んでいるかどうかよくわかりませんが、典型的なフィリピンの地方の町です。

日本からお客さんとかが来た時は私はマニラ市内とか私のすんでいるBGCの街とかには連れて行きませんでした。
その理由はそんなところを見てもフィリピンの香りというか匂いというか、雰囲気はつかめないからです。

そんな訳で時間があるときはお客さんとかを必ずこのカランバの街に連れてきました。

カランバ(2)
カランバにお客さんなどを連れて来ると先ず市場に行きます。市場に行くとその国の庶民の生活を垣間見る事ができるからです。
私がブラブラと市場の狭い道を歩くとやはり目立ちます。みんなの視線を感じます。

時々立ち止まって売っている魚とかをじっと見ていると、ちゃんと英語で売り込んできます。ひょっとしたら買ってくれるかも知れない、ということでしょうか。
会社で副社長に、「先週はこういうところに行ったよ」、と言ったところ何でそんなところに行くの?みたいな変な顔をされました。
この意味わかりますか?

モンテンルパ(1)
住んでいるのはマニラ(実際はBGC)で、会社はそこから南に60km南にある工業団地の中、その途中の真ん中辺りにモンテンルパ市はあります。
ここも日本人にはに縁の深いところで、太平洋戦争終結後連合国側から戦犯として告訴された日本兵が収容、そして17名が処刑されたところです。

私はここが毎日の通勤路の横にあるとは最初知りませんでした。
ある日フィリピン人の社員から、「アラバンの横に刑務所があり、その近くに日本人の慰霊碑のようなものがある」、というのを聞いて、調べたところそれがモンテンルパ刑務所でした。

モンテンルパ(2)
太平洋戦争におけるフィリピンでは日本軍50万人、アメリカ軍は2万5千人、フィリピン人100万人が命を落としたそうです。
ルソン島では日本軍の戦死者は20万人以上で、その70%以上が実質的に餓死・戦病死だったそうです。

終戦後連合軍(実質的にアメリカ軍)はBC級戦犯に対する裁判を行い、死刑・有罪が確定した日本人をここモンテンルパ刑務所に収監、最終的に17名が処刑されたという歴史です。
フィリピンでの戦争犯罪裁判、私は東京での裁判と共に裁判という名を借りたアメリカ・連合国の報復以外の何物でもないと思っています。

モンテンルパ(3)
日本人の戦犯が収容されたモンテンルパ刑務所は今でも刑務所として使われており、外からしか見ることはできませんでした。
刑務所の近くには慰霊碑があるというので、探し回ったのですがなかなか見つかりません。
マバラカットの時と同じく、運転手のS君がいろんな人に聞きまくった挙げ句、やっと見つける事ができました。

ところが慰霊碑のある敷地はフェンスで囲われ、扉は大きな鍵でロックされています。
中は何となく日本風の庭園になっているのが柵の間から見えます。

モンテンルパ(4)
すると私達を遠くから眺めていた14〜5才の少年3人が近寄ってきて、地面に四つん這いになるではありませんか。
要するに背中に乗って柵を越え、中に入れというのです。
せっかくですから子供たちの背中を踏み台にして尻を押してもらい、中に入りました。
お参りをして帰ろうとすると管理人の男性が現れいろいろと説明をしてくれました。子供たちが管理人に連絡してくれたようでした。

帰り際にこの男性に慰霊碑の掃除代という事で1000ペソ(2200円)を渡し、踏み台になってくれた子供たちには100ペソづつチップをあげました。

会社の中(1)
私が前の会社に入って数年した頃の事です。
ある上司から、

「N君、君は自分の職場と自分の仕事をやっている姿を奥さんとか子供に胸を張って見せる事ができるかね?」
「私の仕事は、そういう職場環境を作る、みんなに自信をもって仕事をやってもらえるようにする、これが全てだ。」

アメリカでは自分の会社に家族を呼んで、自分の職場を見せてそしてピクニックエリアでバーベキューをやる、というところが結構あります。

会社の中(2)
会社では1ヶ月に1回、全社員の前でスピーチをする機会がありました。
社員はそれぞれ階層、職種も違っており一括りにできないので、話題選びはなるべく共通なものでなくてはなりません。

「家族に職場を見せるとしたらどういう状態がいいと思いますか?そういう職場をみんなで作ろうではありませんか?」
私が最初にやった仕事が職場の整理整頓だったのです。

どの程度のインパクトを社員に与えたのか、後であるマネージャーから、「よくわかりましたよ」、と言われた時はほっとしました。

会社の中(3)
フィリピンが他の東南アジアの国よりビジネスをする上で有利な点はいくつもありますが、その中の一つとして英語があります。
彼等は小学校1年生から12年間、学校では全部英語で教育を受けますのでレベル差はあるものの普通にみんな使えます。

ですから現場を歩いても作業員レベルともダイレクトにコミニケーションができます。これは大きなメリットです。
タイとかベトナムではこうはいきませんからね。
でもフィリピン同士はもちろんタガログ語で話していますけどね。、

息抜き(1)
「フィリピンにいるとカラオケバーに行くんでしょ?」、と日本では良く聞かれます。答えは「YES、NO」です。
私は基本的にはカラオケは嫌いではありません。
が、間違いなくヘタです。

ですから歌って後で自己嫌悪に陥る事があります。
それに時々あの騒々しさが疲れを引き起こすことがあるので、金曜日とか土曜日のゆっくりしたいときはカラオケは行きません。
そんな訳で静かなバーを見つけたのでここで食事の後に飲む、というのが殆どです。

朝食について
そのバーでは女の子と他愛のない話しをしたり、ゲームをしたり、静かだったので私向きでした。
ウイスキーのキープは好きな銘柄が置いてなかったので、自分で買ってきてそれにキャッシュを付けてあげて置かせてもらったりしました。

でもこういうお店は人気がなく、いつも客が少なくガラガラ状態、廃業も時間の問題だな、という感じでした。
こういうお店を好きな人は一杯いると思うのだけどな〜、、、。

以上、KさんとSさんのこの種の質問に対する答えでした。

医者通い
風邪かな、という症状。
少し熱があり、すごくだるい。食欲もあまりない、無気力感絶大。耳鳴り大。少し下痢気味。
寝てれば治るだろう、、、土日を挟んで3日間コンドミアムで静養。

でも症状は改善しません。おかしい、、、、
という事で取引先のある日本人に教えてもらった医院に行ってみました。
血液検査の結果感染症の疑いはなし。
とりあえず解熱剤を処方してもらってこれを飲み続けました。2週間ほどで何とか回復しました。
何だったんでしょう、、、、。

物価
フィリピンの物価感覚ってどういう計算をすればいいのか、ある人に言わせるとペソを円に換算して5倍すればいいとか、人によっては8倍とか言う人もいます。
普通の美容院の前の値段表は次のとおりでした。(1ペソ=2.2円で計算)
ヘアーカット:350円、洗髪:220円、ドライ:350円、アイロン:450円、カーリング:800円、、、、、。

ジャンルは違いますが、会社で普通の社員に聞いた昼飯の限度額は60ペソ(130円)、できれば50ペソくらいに抑えたい、という話しでした。さて、何倍すれば我々と同じかな?

フィリピンのマック
ある休日、ちょっと遠くに行ったときのマックで食べたメニューです。
ン? フライドチキン、それに包みはビッグマックかな?
違います。包みはライス、銀シャリ、ご飯なのです。全然マックらしくない食べ物です。

フィリピン人はご飯なしでは一時も生きていけません。それにチキンが大好きです。
ですからマクドナルドもハンバーガーだけではなくフライドチキン、それにご飯を出さないと商売になりません。
私もこのチキンライスセットは大好きです。

ショッピングモール(1)
マニラ周辺の市には立派なショッピングモール、デパートがいくつもあります。
かなり大衆向け、普通に大衆向け、ちょっと高級、うんと高級の4ランクくらいとう感じで分類できます。

単身赴任ですからモノを買うというのはあまりありませんでしたが、それでもあちこちのモールをブラブラしました。

私は上野のアメ横とか秋葉原の路地裏の電気屋とかが大好きなので、この写真のような”普通に大衆向け”レベルのモールが好きです。

ショッピングモール(2)
”普通に大衆向け”のモール、食べ物も売っています。
これは”たこ焼き”です。どうやって作るのか見ていましたがタコの代わりにベーコンみたいな肉が使われていました。

じゃ、たこ焼きじゃないじゃん!
ですからこの屋台は”TAKUYAKI”になっています。”TAKOYAKI”ではありません。関係ないか〜、、、。

でもあの千枚通しで突き刺しながらくるくると丸く焼いていく、というのがまるでできていません。
かわいそうなくらいミジメな形の”TAKUYAKI”でした。

今日は視界がいい!
マニラとその周辺の空気は非常に汚れています。これはジプニーとかからの排ガスによる影響が大だと言われており、時に風がない日は地表が霞んでいます。
それでも雨が降った後で風もそこそこ吹いた日の午前中などは、コンドミアムからの視界は50kmとかを軽く越える時があります。

コンドミアムの西方向はマニラ湾、視界の良い日はその入り口にあるコレヒドール島もはっきりと見えます。
ここには行ってみたいと思っていましたが、帰国までにとうとう行く機会がありませんでした。

ドライバー
フィリピンでは自分で車の運転をするのはできなくはないと思いますが、やりたくないです。割り込みも強引で、自分もそういう割り込みをやらないと進めないし、、、。

私の車にはS君(右)というドライバーがいて、どこに行くのも彼が運転をしてくれました。会社設立直後からの運転手で20年近く無事故だそうです。
私が行きたいところはそれこそどこでも連れて行ってくれました。

朝の出勤から夜遅くまで全て彼の運転で行動をしました。彼はある意味で私の分身でもある、と言えた思います。

再度マニラ周辺の道路事情
フィリピンに鉄道はない事はないのですが、非常に貧弱です。人の移動は車が中心です。
その車もジプニーと呼ばれる乗り合い自動車(バスとも違う)が庶民の足で、これが道路上をウジャウジャ走っており、交通渋滞を原因のひとつです。

車を持たない大多数の庶民にとって10km、20kmの移動は大変な労力と不便さで驚くばかりです。
政府は鉄道整備を中国の主導でやろうとしていますが、果たしてできるのか、大いに疑問です。

サヨナラ
2016年5月からのフィリピン駐在、いろいろな事情があって大幅に繰り上げて1年で帰国をする事になりました。
この1年間は実に中身の濃い1年間であり、また全てが新しい経験と言える事の連続で、こういう機会を得たという事に感謝しています。

ただ健康上の理由は如何ともし難く、これから先の自分の人生を考えると日本への帰国がベストな選択だろうと決意をした次第です。
会社では素晴らしいスタッフに恵まれ、仕事は順調に推移させる事ができました。
後任は日本からの赴任ではなく、副社長のRAさんに決まりました。

本当にあっと言う間の1年でした
会社は金型の設計製作とこれを用いたプレス部品の生産で、主として日系の自動車関連部品メーカが取引先です。フィリピンの車の生産は国内市場自体がまだまだ小さく、当面の間は輸入車が中心となる見込みです。
またフィリピンは製鉄、化学コンビナート等はほぼゼロ、電力は逼迫、輸送網は貧弱など工業インフラが全く整っておりません。
フィリピンは可能性を秘めた国ではありますが、まだまだやる事が山のようにある、という国です。

そんな中、金型は中国・韓国の安い製品が出回ってきており、益々競争は激しくなるため、フィリピンの会社も根本的な戦略の変更が必要でしょう。

マッキンレー山
アラスカのマッキンレー山はシカゴから成田に向かうフライトで何十回と見ており、飛行機から見る冬のマッキンレー山は息を飲むほどの美しさでした。

フィリピン・ルソン島のマッキンレー山はいつも緑で、青い空の中にそびえておりました。
フィリピンに来たばかりの頃、副社長のRAさんに、「マッキンレー山に登ってみたいのだが。」、と言ったら、「登る?」、とか言って変な顔をされたのを覚えています。
会社のある工業団地から見えるマッキンレー山は忘れられない風景です。

CIP2
会社のあったのはCIP2という工業団地の中で約30社ほどの日系、韓国系、ヨーロッパ系などの会社がありました。

私が前にいた会社は2輪工場と4輪工場があり、4輪工場には私のよく知っている日本人が駐在しておりました。
いつも行く日本レストランでは2輪工場のフィリピン人幹部社員の何人かに会ったりもしました。

そんな訳で短い期間ではありましたが実に中身の濃い1年間でした。

工業団地CIP2
1年間の勤務を通じて何人かのフィリピン人社員に私のやり方、考え方をある程度伝える事ができたのは幸運だったと思います。

また短い期間の駐在にもかかわらず、多くの人達に送別会をやってもらい、うれし涙をこぼす、という一幕もありました。

全ての引き継ぎを終えて、お世話になった取引先、特に前の会社の系列部品メーカーの方々にはお礼を述べて帰路に就きました。
さて今度フィリピンに行くのはいつかな〜?まあ3時間半で行けるところなので気が向いたら行くことにしますか、、、、。