ラジオの道へ(2018年04月7日)
私はいろんな趣味があります。そして、ありました。その中で一番長く続いているのが”ラジオつくり”です。
ラジオ(放送)に興味を持ったのは小学校に行く前だったと思います。家には大きな東芝製の、当時としてはかなり立派なラジオがありました。それを父母は食事の時とか、休みの日に聞いていました。

私はそのラジオで昼食前にNHKの学校番組を時々聞いていました。ナゼ、こんな箱から人の声が聞こえるのだろう、不思議で仕方なかったという記憶が鮮明に残っています。
どんな子どもでも同じだったと思いますが、人間の声とか音楽が聞こえてくる茶色の大きな箱に非常に興味を覚えた、という訳です。
ラジオは昭和33年暮れに父母がテレビを買うまでは数少ない娯楽でした。

小学校3年生だった私にU君という友人がいました。
小学校3年生の秋頃だったと思います。そのU君がある日、学校に小さなプラスチックの石鹸箱を持ってきました。その石鹸箱には青い線がグルグル巻いてあり、イヤホーン(イヤホーンとは何か、既に知っていました)も付いています。
U君は、「これは鉱石ラジオというラジオ。」、と言いました。

ラジオはもっと大きくて本棚の上に乗っているものと思っていた私は信じられませんでした。
その頃家にはもう1台の小型ラジオ、それに父はSONYのトランジスターラジオも持っており、ラジオには様々な種類があるのは知っていました。そしてラジオは非常に高価なものである事も知っていました。

U君は校庭の隅っこに私を連れて行き、イヤホーンを耳に入れるように言いました。大きな音でラジオ放送が聞こえたのにはびっくりしました。

U君は石鹸箱の中を見せてくれ、これは自分の兄が作ったもので150円くらい(100円と言ったかも知れません)あれば部品を買うことができると言いました。

学校ではゆっくりと詳しい話を聞けないし、私はU君の家に行って、U君の兄さんに話しを聞くことしました。

その先の記憶は殆どないのですが、とにかく石けん箱ラジオの印象は頭にこびり付いて残っています。
当時を思い出してその石けん箱・鉱石ラジオがどんなものであったか、イラストを描いてみました。
実に簡単な構造です。

当時三重県津市には近畿東海放送(KTB)津放送局があり、私達の家はそこからは3〜4Kmしか離れていなかったのでこういう鉱石ラジオでも放送が聞こえたのでした。

鉱石ラジオのアンテナは3mくらいのビニール線、その先には竹製の洗濯はさみが付いていました。洗濯はさみの用途はU君の家に行って直ぐにわかりました。
U君の家ではお母さんがこのラジオを聞きながら針仕事をしていました。洗濯はさみはアンテナ線を延ばすために電灯の笠を挟むためでした。

U君の兄さんに何を聞いたのか、何を教えてくれたのか、これもよく覚えていませんが、お母さんが針仕事をしながらラジオを聞いている姿は記憶にあるので、その記憶を辿ってイラストを描いてみました。

鉱石ラジオは10個以下の部品で作る事ができました。しかし当時150円というお金は小学校3年生には大金で、何ヶ月も掛けて部品を買い集めました。
そしてやっと部品を集め終わり、鉱石ラジオを組み立てました。
小学校4年生になっていました。

ところがイヤホーンから放送は聞こえてきませんでした。
どうやっても放送が聞こえませんでした。

実は近畿東海放送津放送局は昭和35年(1960年)3月末で閉局、名古屋の”ラジオ東海”と合併、新しく”東海ラジオ放送”となり、その時は既に名古屋から電波を出していたのでした。

この鉱石ラジオでは50km先の名古屋から飛んでくる電波を受信する事ができなかったのです。
ここから私は本格的なラジオ少年の道を歩むことになりました。

当時の近畿東海放送のコールサイン”JOXR"は今は”ラジオ沖縄”が使っているそうです。

”趣味:ラジオつくり”のページは過去のトピックが多く、残っている写真が非常に限られています。
そこで一念発起、記憶を辿ってその時の様子などのイラストを描いてみる事にしました。描いていくうちに少しは慣れてくるのでしょうが、初めてのチャレンジです。
イラストを描いていると何だか当時に戻ったような気になります、、、。これもなかなかいいものです、、、、。