本格的受信機の製作(2018年5月14日)
ハムの試験を受ける直前の中学校2年生の頃、遅まきながら私もワイヤレスマイクを作ってみました。
構成は6WC5で発振、6ZDH3Aで低周波増幅、80BKで整流という構成でした。回路は簡単で半日くらいで仕上げたと思います。

アンテナをつなぎ、電源をオンにして発振のパッティングコンデンサーを回すと、横に置いたトランジスターラジオに強い電波が受信できました。
マイクをつなぐと猛烈なハウリングを起こしたので、作動はOK。

当然ですが、この微弱な電波は一体どこまで届くか、一番気になるところでした。

これ実験は当時小学校5年生だった妹にマイクに向かって教科書を読むように頼み、私はトランジスターラジオを持って家の庭とか近所を走り回りました。
30〜40mくらいは何とか電波が届いたような記憶があります。

賄アレスマイクを送信機と呼ぶには抵抗がありますが、自分で作った装置で電波を出し、それに人の声を乗せたのはこれが始めてであり、その時の様子は今でもよく覚えています。

うんと小さいときからリビングルームにデンと置いてあった東芝のラジオ、その頃は既に家族でこのラジオを聞くことはありませんでした。このラジオはST管の6球スーパー、マジックアイが付いた立派なラジオでした。
私はこれを短波ラジオに改造する事にしました。木箱からシャーシーを取り出し、コイルをトリオのSB(3.5MC〜10MC)に取り替えました。

少し前まで使っていた0−V−1とは比較にならない感度・安定度で、3.5MCと7MCのハム、それに外国の放送が聞こえました。選択度を上げるためにIFTをナショナルの通信型受信機用というタイプに換えてみましたが、あまり変化はなかったように記憶しています。

今でも鮮明に覚えているのは夜中に7MCを聞いているとDU(フィリピン)の局が聞こえた事です。
コールサインははっきり取れませんでしたがDU1だかDU7だかを確認できたと思います。

短波を聞けるようになったものの、やはりIF1段のスーパーではすぐに物足りなくなり、本格的な改造をやる事にしました。
ベースは5球スーパー(マジックアイは外していました)、これにサブシャーシを付けて最終的に何と高1中2受信機に改造しました。

この改造は今思い出しても、よくやったと我ながら感心するものでした。
SメーターはありませんでしたがQマルチも組み込みましたので7MCのQRM対策に有効でした。

コイルを6〜18MC用(トリオSG?)に換えて14MCの受信した事もありました。UA0とかUA9がよく聞こえましたが、それ以外は国内もあまり聞こえた記憶がありません。
まだ受信バンドと時間帯の関係がよくわかっておらず、短波は夜によく聞こえるものという程度の考え方だったので、受信は主に夜の8時とか9時に集中していたせいだと思います。

この受信機はハムの免許に合格して両親からまとまったお金をもらって本格的な受信機を作るまで私の宝でした。

昭和40年4月に受けた電話級アマチュア無線技士の国家試験、合格は東海電波監理局に電話を掛けて知りました。当時は合格不合格の発表日を教えてくれ、ハガキで通知が来る前でも確認の電話を受け付けてくれていました。
怖々電話を掛け、受験番号を言いました。「エーッと、、、アー、、、おめでとう、合格だよ」、この時のオジサンの声、一生忘れません。

ハムの試験に合格した事を両親に報告し、送受信機などの製作に4万円くらい必要だという話しをしました。
両親は4万円をくれる事を約束してくれました。
昭和40年(1965年)の4万円というのは今の価値でどれくらいなのか、物価は約5倍になっているのですが給料は約10倍になっているので、40万円くらいの重みでしょうか。

しかしこれは条件付きで、1年後に高校入試を控えているので製作するのは受信機だけ、送信機の製作は高校入学後というものでした。

受信機はそれまで様々な雑誌を読みまくって知識が付いていたので、かなり欲張って3バンドの高1中3という構成のものを製作しました。

製作期間は1ヶ月ちょっと、今考えても中学3年生がよく完成させたものだと我ながら感心しています。

IF段は集中IFTで構成、コイルパックはナショナルの3.5MC〜30MCを3バンドで受信するというものでした。

性能は思ったよりゲインが低く、後で考えるとRF段とMIXER段に回路・レイアウト的な問題があり、更に集中IFTでIFのゲインがかなり落ちていたのではないかと思います。

それでも21MCのEスポで国内のAM局とか、28MCではKR6(沖縄)のAM局などが受信できていました。
この受信機はJA2IINを開局した後3ヶ月くらいは使いましたが結局は分解、全く新しく作り直したので1年も使わなかった受信機になってしまいました。

この受信機は製作後もあれこれ朝から晩まで回路をいじくり回していたお陰で真空管の動作、受信機製作のポイントなどをかなり習得できました。
私にとっては忘れることのできない、実用受信機と言うより実験受信機でした。