ボクとNHKラジオ・ジャパン:(2022年03月22日)
ボクは45才半ばで本社からアメリカ・オハイオ州にある現地法人に転勤になった。娘2人の学校の都合で最初の1年は単身赴任であった。

赴任してまず会社手配のアパートに入った。総務からは1ヶ月くらいをメドに自分で住まいを見つけて下さいと言われていたが、このアパートは台所用品とか家具・テレビ・洗濯機・冷蔵庫など全て準備がしてあり、週に1回掃除にも来てくれたので居心地が良く、結局4ヶ月近くも居座ってしまった。

その後自分で手配したアパートは2ベッドルーム(130uくらい)で冷蔵庫、電子レンジ、ディッシュウオッシャーなどの台所関係を除き洗濯機、乾燥機、家具など何から何まで全部準備しなくてはならなかった。

とにかく生活用品を揃えなくてはならない、そして家族が来たら家を買って住むという計画もあったので、それらを見越して様々なモノを買い込んだ。

8種類が5人前入った食器セット、ナイフ・フォークのセットなどから始まってベッド、ソファー、テーブルなど、今までそんなに関心を向けなかった物が多く、ボクなりに大いに悩んだ。
アメリカのホームセンターは飛行場の格納庫並みにデカイし家具などの専門店は一杯あるし、などで結構な時間が掛かり、一応のモノを買い揃えるのに結局2ヶ月近くかかった。

日本からはとりあえず身の回りの品物など段ボール30個くらいを赴任時に送ってあったが、家族が来るまでに半分も開けなかった。つまり送ったモノと実際に生活を始めて必要になったモノが結構アンマッチだったのであった。

アパートはミュアフィールド・ゴルフ場(ジャクニクラスのホーム)近くの住宅地の隅っこで敷地は広く、建物間の往き来は車が必要でプライバシーも保たれ、環境は抜群だった。

ボクは結局このアパートにはカミさんと下の娘が来るまでの8ヶ月間住んだ。
平日の朝食、昼食は会社、夕食の半分は外食だったので結局自炊は殆どしなかった。アパートのACは完璧で、外は−10℃でも部屋の中はTシャツ1枚の生活だった。

新しいアパートに移って1ヶ月後、11月のオハイオはそれまでの関東の感覚では真冬であった。
ボクは会社から帰ってくると車をガレージに入れて集中郵便受けの中をチェック、トボトボ歩いて自分の部屋に向かい、ドアーのキーを開ける、、、。

救いだったのは赴任当時は7時ちょっと過ぎには帰宅ができた事だった。1〜2年後には平日は9時前に帰るというのは希になった。帰ってきてシャワーを浴び、簡単な食事(と言うか酒の肴)の準備をして新聞を見ながら一杯やる、、、これが1日の締めくくりであった。
新聞は1日遅れで日本の新聞を受け取る事ができた。雑誌などは2冊/月を基本に送ってもらっていた。

しかし、、、ボクにとってひとりで過ごす夜に必須だったのは日本からの短波放送だった。"NHKのラジオジャパン"で、確か20:00から6MHZ帯で2時間聞くことができたのであった。
受信する電波は日本から直接ではなく、カナダのニューブランズウイック・サックビルで中継されており、強力かつ安定に受信できた。

番組にはNHK第一放送の"昼の憩い"が含まれており、あのメロディーとアナウンサーの独特の喋り方、そして日本各地のローカルなトピックスは日本から10000km離れた異国に住むボクを大いに慰めてくれた。

ラジオジャパンが終わった後は同じ周波数でドイチェ・ヴェレ(ドイツの国際放送)の英語放送が開始された。ドイチェ・ベレのオープニング・ミュージックも懐かしい。

その頃のボクの職場は80人くらいで日本人は3人、朝から晩まで日本語を使うことは殆どない日もあり、日本人とは夕方になって一息入れたときにやっと話をする、という具合だった。
会社は言葉はもちろん、日本なら5分で終わる事が1時間掛かったりする(この逆もあった)”やりかたの違い”など、とにかく帰宅すると、「ああ、今日も終わった、、、」、という毎日だった。

ラジオジャパンの世界各地向けの日本語放送は今でも聞け、これを耳にするとアメリカ・オハイオで過ごした最初の冬、会社から帰って広いリビングのソファーにひとりポツンと座って、一杯やりながら聞いていたのを思い出す。

その後カミさんと下の娘が来るのに合わせて家を買って再度引っ越し、更に2年、3年と月日が経って生活にも慣れてきたが、短波の"NHKラジオ・ジャパンは日本に帰るまでの15年間ずっと聞いていた。

テレビは最初の頃はケーブルテレビの国際チャンネルで、1日1時間だけフジテレビ系の日本語放送があったのでこれを時々見ていた。カミさんは昼間はアメリカのムービーチャンネルをズッーと見ていたらしい。従ってアメリカ映画には滅法詳しい。

5〜6年経ってからテレビジャパン(NYの会社で日本のテレビ番組の詰め合わせを提供)というのを契約した。しかしボクはやっぱりラジオジャパンを聞くのが日課であった。

ラジオジャパンの印象深い思い出の一つが大晦日の紅白歌合戦の中継であった。
これは北米向けの放送ではなく、日本の22:00〜(オハイオの08:00〜)から送信される中南米向け放送で流された。
日本から直接送信される中南米向け放送は、カナダ中継の北米向け放送ほどではないが、非常によく聞こえた。カミさんは大晦日の朝にラジオジャパンの紅白を聞きながらおせち料理を作る、という毎年であった。

冬休みは大体が12月23日又は24日から始まり翌日からシカゴに行き、3〜4日間雪で真っ白になった街をブラブラ、そして美術館・博物館巡りをしたりして、ミツワ・マーケットで買いものをして帰る、というのが定番であった。
中西部州に住んだ日本人で Mitsuwa Marketplace Chicago を知らない人はいないはずで、オハイオ・コロンバスとシカゴ間は6時間(600km少し)、ミツワのフードコートで早めのお昼を食べて出発しても夕方6時頃には我が家に着いた。

クリスマス明けのシカゴ、買いもの、それを使ったカミさんのおせち料理作り、そしてラジオジャパンの紅白中継、、、ボクの場合こんな連想ゲームになる。

1995〜6年当時、インターネットは急速に普及しつつあったが個人でPCを持っている人はまだ限られており、ネットワーク接続は電話回線利用が一般的でスピードは今の回線の100分の1以下であった。
ボクの会社のPC導入は割と早い方だったと思うが、それでもまだひとり1台にはなっていなかった。

従って当時、海外駐在に行く社員の多くは日本の情報をリアルタイムで知るために、短波ラジオを持って行ったと思う。
短波受信はやはり少々コツが必要であり、皆さんはうまく聞くことができていたのか、興味のあるところだ。

オハイオで15年間お世話になったNHKラジオジャパン、よく聞こえた中南米向け放送は今でも2波(6105KHZ:フランスから送信、7445KHZ:八俣から送信)で合計4時間行われている。

しかし北米向けはもうない。
短波による放送の役割は終えた、という事なのだろう。

オハイオで聞いた、オルゴールの"かぞえ唄"のオープニング、そして「こちらはNHK国際放送です。東京からお送りします。」、というアナウンス、、、”NHKのラジオジャパン”はボクのアメリカ生活の記憶と一体になっている。