中欧の旅−3 : 2019/6/10〜2019/6/20
オーストリアのウイーン、私はオーストリアは初めての国で以前からいつかは、と思っていました。オーストリアというと、映画”第三の男”を連想してしまいます。そのレベルの知識しかありませんでした。
今回、実際に訪れたオーストリアは、華やかで素晴らしい雰囲気の国でした。街並みは美しく、古い顔と新しい顔がミックスされた雰囲気は今回の旅で訪れた他の都市とは全く違う趣でした。
グループツアーなので、訪れるところが多く、行っても記憶に残っていない場所があったりしますが、なるべくその時の気持ちが残っている写真を選んでみました。

ベルベデーレ宮殿(1)
ここは上宮と外宮があり、ツアーでは上宮に行きました。
バロック風の建物で、広大な敷地に実によく手入れされた芝生、花壇、それに噴水などがあり、お伽の国とはこの事なのでしょうか、息をのむしかありませんでした。

門を入りブラブラ歩いていきますが結構な距離があります。季節によっては熱かったり寒かったり、宮殿にたどり着くまで少々大変かも知れません。

そこそこ人はいるのですが、これだけ広いと他の人は全く気になりません。

ベルベデーレ宮殿(2)
上宮の後ろを見ると赤い屋根の下宮が見えます。
とにかく何も遮るものがなく、天気によっては直射日光がモロなので注意する必要があると思いました。
ベルベデーレとは”美しい眺め”、という意味だそうで、実にそのとおりだと思いました。

ヨーロッパの観光地の特徴の一つは、庭園とか何かの入り口とか、建物の中に入ってもにも一切の案内表示がないのが普通です。勿論トイレの表示もありません。
ですからチケットを買うと一緒に受け取る図が非常に大切になります。

ベルベデーレ宮殿(3)
宮殿の中は美術館になっています。
私達はグループツアーなのでチケットを個人で買う必要はありません。チケット売り場は別な場所にあり、シーズン・時間帯によってはかなり混むそうです。

16名の皆さんは割とお行儀も良く、皆さん添乗員・ガイドさんの言うことは良く聞きます。
ツアーによっては、いい歳したおじさんがルール無視ばかりをやってみんなに迷惑を掛けまくる、という人がいたりします。
バスの中では大声で話す、集合時間は守らない、特に国内のグループ・ツアーに多いと感じます。

ベルベデーレ宮殿(4)
正面階段を上がると大理石の間があります。きれいなシャンデリアと天井には見事なフレスコ画が描かれています。
フレスコ画というのは年月が経っても劣化の少ない、特殊は絵画技法です。

フロアーはもとは迎賓館で使われていたそうで、迎賓館と言えば日本の元赤坂にある迎賓館と外観は似ています。
日本の迎賓館が建てられたのは、確か20世紀に入ってからだと思うのですが、敷地はどっちが広いんですかね。

ベルベデーレ宮殿は2階と3階は美術館になっており、ここを見学しました。

ベルベデーレ宮殿(5)
ここはグスタフ・クリムトの絵画で有名なのですが、美術館としてのコンセプトが何年か前に大きく変わり、展示品も随分変わった、というような事を言ってました。

以前の写真を見ると展示品は絵画が多く、こういう彫像はフロアーになかったような感じです。

私は恥ずかしながらベルベデーレ宮殿がこのような立派な美術館だったというのは知らず、今回の訪問で初めて知りました。
ウイーンには他にもたくさんの美術館、博物館があり、全部見るとどれくらいの日数がかかるのでしょうか。

どうしてウイーンは”芸術の都”になったのか、どうしてシューベルトやヨハンシュトラウスが活躍できた都市だったのか、これについてちょっとだけ調べてみました。

簡単に表現するのは難しいのですが、”地理的、民族的、政治的、そして時代的な条件が相互に作用して芸術の都として発展する方向に向かった”、という言い方になります。

これじゃ何の事か全くわからないので、調べた内容の要約を記述しておきます。

ベルベデーレ宮殿(6)
まず地理的にヨーロッパ東西と南北の交差点にあったという点です。ウイーンはドナウ川に沿ってヨーロッパを東西に結ぶ道、バルト海とイタリアを結ぶ南北の道の交差点にありました。これは商業が栄える条件の1つです。

しかし18世紀〜19世紀にはドイツ、ロシア、イタリーの間で揺れ動く事になりナショナリズムを掲げることが難しくなります。
そこで他民族との共生・共存の方針を打ち出さざるを得なくなりました。
結果として城壁は取り壊され、将軍・支配層の英雄に代わり、文化・芸術家の像が建つと共に各種建物が建ちました。

ベルベデーレ宮殿(7)
建物とは市庁舎、議事堂、取引所、大学、美術館、劇場、裕福な貴族達の豪華な建物などです。
そして1873年に新しい装いの中で万博も開かれました。

同時期の皇帝が(フランツ・ヨーゼフ2世:1830年〜1916年)がかなりリベラルな政策をとり、東欧で迫害されていたユダヤ人に土地の所有を認めたりしてユダヤ人が増え、その結果商業が強化されました。

ウイーンの人口は40万人(1840年)から50年後には130万人(1890年)になっています。

ベルベデーレ宮殿(8)
国家としてナショナリズムを掲げる事ができず、しかし経済的には恵まれており、その結果として関心は文化的な方法に向かったというのがオーストリアだったと言えそうです。
多民族の多様性も芸術には時にはプラスに働いたのかも知れません。

音楽・絵画・文学などの芸術は全て大貴族に擁護されて育ったもので、一般庶民が作ったものではない、という点にも注目すべきだと思います。

絵を見て、これは誰が描かせたのか、誰がその絵描きの生活を支えていたのか、これを考えると様々な事がわかってきます。

ベルベデーレ宮殿(10)
オーストリア・ウイーンに来て多くの芸術家がここで育ち、有名にになっている事に驚かされます。
多くの若者が芸術家を目指しウイーンの学校に入ろうとしましたが、ヒトラーもその中のひとりでした。

彼は画家になりたくてウイーン美術学校を2回受験していますが、失敗。才能としては画家よりも建築デザイナーに向いているという評価だったという事です。

その時もしヒトラーが美術学校に合格していたら、ヨーロッパの歴史は変わっていたかも知れません。

ベルベデーレ宮殿(11)
庭園の入り口にあるスフィンクス像で、顔と胸は人間、胴体はライオンですね。但し羽が付いてますケド。

日本の神社にある狛犬を思い出しちゃいました。
でも狛犬は牡です。ちゃんとシンボルありますからね。ここのスフィンクスは牝です。

日本の狛犬は右側だけで、左側は獅子。
沖縄に行くと屋根の上にシーサーがいて、これも元は獅子。
何だ、先祖はみんな同じじゃないか、と思って調べたら古代オリエントがみなさんの先祖のようです。

ウイーン国立歌劇場
世界3大オペラ座の一つだそうです。
ここは前を通っただけで入りませんでした。見学ツアーもあり、個人旅行とかで来たら、入ってみたいところですね。
ホテルから歩いて5分くらいのところにありました。

さすがにウイーンに来ると夏休みのせいもあって中学生、高校生の修学旅行の団体を見掛けることが多くなります。

日本の中学生とかに比べるとキャーキャー騒ぐ子を殆ど見掛けません。
携帯とかをいじくっている子が多いのは同じです。

ちょっとだけ路地に入ります
ウイーンはこの日までに訪れた都市の中で最も観光客も多く、どこに行っても賑やかです。
それに街自体が華やかな感じがします。しかしちょっと路地に入ると喧噪はありません。

ウイーンは私にとっては、先ず映画”第三の男”ですね。
ラストシーンの並木道、行きたかったのですが郊外の墓地なので行くことができませんでした。

改めて1949年撮影の映画を見ると、あちこちに自分が行った場所が出てきます。
何か不思議な感じがします。

今日のランチ
グループツアーでは日本食、または中華料理のようなものがランチなどに準備されている場合があります。
今回はそれはありませんでした。

私は個人旅行の時なんかでは、日本食を見つけると入っちゃいます。でも別に日本食がなくても問題のないタイプです。日本食がないとどうしてもダメ、という人はこういうツアーは厳しいかも知れません。

今まで一番長い間日本食を口にしなかったのは現役時代に4ヶ月間ヨーロッパ各国に出張をしたときで、3ヶ月間くらい食べませんでした。

ケルントナー通り(1)
ここはウイーン最大の歩行者天国、カフェ、レストラン、土産物屋、両替屋などがあり、ウイーンに来た観光客なら必ず訪れるところです。

それでもケバケバしい看板などは殆どなく、はっぴを着たお兄さんとかお姉さんの呼び込み、ビラ配りもありません。
道路のまん中にオープンカフェもあり、ここに座ってボーッとするのもいいかも知れません。

昼食後は2時間ほどの自由散策時間になっており、私達もブラブラと散歩を楽しみました。
ホテルからここまでは1ブロックでした。

ケルントナー通り(2)
ウイーンの治安は問題は少ないようですが、特定の場所には行かないこと、肌の色が褐色の連中とかが寄ってきたら要注意なのは常識ですね。

ヨーロッパはどこでもそうですが、褐色の子どもは無邪気な天使ではなく、”スリ集団の一員”、として目を離さないようにしなくてはなりません。

それと日本人はビュッフェレストランでカバンとか、携帯をテーブルの上に置いて食事を取りに行く人が多い。
カバン、携帯は差し上げます、というサイン以外の何物でもありませんね、あれは。

シュテファン寺院(1)
ウイーンのど真ん中、ケルントナー通りを歩いていくとイヤでも目に入ります。
と言うか、遠くからでも見えます。

ま、せっかくですから北塔に上がってみました。寺院は独特のモザイク模様が特徴で、高いところからこの角度での眺めもなかなかのものです。

屋根は角度もスゴイ!ここには大きく1950という模様があり、これは第二次大戦で寺院が破壊されて、その後この寺院が再建された年を表しています。

シュテファン寺院(2)
北塔からのウイーンの街の眺めです。
ウーン、近代的な建物とかクレーンなんかも見えてちょっと興ざめですね。
情緒としてはイマイチ、しかし近代都市としての機能も整備しなくてはならない、という事でしょうね。

ウイーンの主要な観光地は街の中心にあり、トラム・地下鉄もあるので大変便利なところだと思いました。

尚、噂によるとオーストリアは東洋人に対する差別は大変強いところで、しかも露骨だそうです。

カフェ・ザッハ
”メランジュ””ザッハトルテ”を食べないとウイーンに来たことにならない、とかいう人がいたりします。
私はそういう事は別に気にしない方なのですが、添乗員さんにここに入るチケットをもらいました。

メランジュはエスプレッソにクリームをのせたもの、トルテはそんなに騒ぐほどじゃないなという程度の感想でした。
トルテはホイップで甘さを調整しながら食べるそうで、私もその作法に従いました。

店内は混雑しており、やはり人気の程がうかがえました。

レーンボーパレード(1)
リンク通りというところに来たら大勢の人が集まって何かパレードをやっています。
ものすごい数の人々で、何だろう?何のパレードだ?と一瞬訝りましたが、直ぐにわかりました。

LGBT(性的少数者)の差別排除を求めて何万人もが集まる大規模なイベントが毎年ウイーンであり、そのハイライトのパレードがこの日行われていたのでした。

興味半分、というか興味全部でしばらく見学させてもらいました。

レインボーパレード(2)
パレードと言っても全く統制がなく、ただ群衆がゆっくりと一定方向に動いて道路の真ん中にはデコレーションをしたトラックなどがゆっくりと進んでいく、というものでした。

ただ、、、やっぱり雰囲気がちょっと違うのですね、何となく、というか、かなり。

その中にカメラ持った東洋人のオッサン(私)が紛れ込んだのですが、もともと”差別”という事に敏感な連中なので、特に変な目で見られたり、という事はありませんでした。
イベントは2週間、でも何を話し合うんだろう、、、。

レインボーパレード(3)
なかなか素晴らしいコスチュームの中近東系の若者が来たので写真を撮ってもいいかと聞くと、「OK、OK」、とポーズをとってくれました。

東洋人もちらほら見掛けましたが、やはり白人系が多かったように思います。
オハイオでは、おっさん同士が手をつないでスーパーに買い物に来ているのに出くわすと、やっぱり”どっきり”でした。

東南アジアはメチャ多いです。フィリピンの120人の私の会社にも2人いました。この話題は別途。

シェーンブルン宮殿(1)
ハプスブルグ家の宮殿の一つで、最大の規模、全部で1400(!)の部屋があり、その一部が公開されています。

ハプスブルグ家というのはちょっとが想像できないほどの勢力、つまり領土を持ちヨーロッパを席巻した貴族です。
とにかく政略結婚と多産、これで一族を広めていった、という事ですがピンときません。

こういう宮殿などを理解するにはヨーロッパの歴史の概要を知っておかないと、「スゴイね〜」、だけで終わってしまう、”猫に小判、SHINに宮殿”、になってしまうというのが、よ〜くわかりました。

シェーンブルン宮殿(2)
宮殿内の広大な広場で写真を撮っていたグループ。

さてどういうグループなんだろう。私は旅先では、そういう事を考えながら観察するのが大好きです。

白人が中心ですが、褐色も東洋人もいる、女子が3分の2、年令はよく似ている、こりゃ学生だな、きっと、、、。

で、同時に言葉を聞く、日本語ではない。残念ながら。
英語でもない。
という事でどこから来たのか不明でしたが、楽しそうでした。

シェーンブルン宮殿(3)
中をショートコースで見学しました。
規模と言い、絢爛豪華さと言い、やはりケタ違いです。

しかし、です。私は庶民の頭で考えます。
天井は高い。部屋はバカ広い。これって冬の暖房はどうしていたのだろう。
暖房の設備は見当たりませんので、冬はきっと凍えるくらい寒かったでしょうね。

ナポレオンもマリーアントワネットもここで暮らしたといいますが寒かったでしょうね、冬は。
勿論トイレは例のオマル。大変だったろうな。

シェーンブルン宮殿(4)
ここでクラッシックコンサートを聞く、というのがこの日のハイライトでした。
コンサート前にスパーリングワインを一杯頂きます。私はカミんの分を含めて2杯頂きました。

席はA席という事でかなり前の方です。
弦楽7重奏でした。テノール歌手、ソプラノ歌手も出演、曲目は一般的で大いに楽しめました。

カメラ撮影はご遠慮下さいという事でしたが、前と横のオバサンが撮りまくっていましたので私も、でした。

朝食のオムレツ
オムレツは、「何を入れますか?」、とトッピングを聞かれるので前に並べられている8種類くらいの中から選びます。

私は目玉焼を頼むことも多いのですが、目玉焼って食べるのが意外と面倒です。
黄身が潰れてお皿にパーッと散ってしまうとパンですくって食べたりします。

私は周りの白身を切り取って最後に黄身だけを残し、それをイッキに口に放り込みます。
他の人の目玉焼きの食べ方を観察すると様々で、結構面白いですよ。

ウイーンの朝
あれ?8時くらいなのに車が少ない。
あっ、そうか今日は日曜だ。こういう観光の旅は曜日の感覚がなくなってしまうのですね。

ところでグループツアーではトイレはあまり気にしなくても済みます。
添乗員さんが適当なところでトイレを使える場所に連れて行くからです。ヨーロッパではトイレは普通有料です。

アウトバーンなどのドライブインもトイレは有料のところが殆どです。大体50セント(60円)で、オバさんが入り口に座っていたり、最近は自動のところも増えました。

さあ、出発です
バスと運転手はハンガリーからで、ツアーではずっと同じです。でもバスのナンバープレートはオーストリアでしたから、どういう事なんですかね。

ヨーロッパを車で走るとナンバープレートで簡単にどの国から来たのかわかります。

バスは16人+添乗員+ガイドですからゆったりで、移動は非常に楽でした。
今回の旅のメンバーは60才以上の方ばかり、集合時間などに遅れる方も皆無で和気あいあい、大変楽しい旅でした。

スペイン式宮廷乗馬学校
ルネッサンス時代の古典馬術を現在も受け継ぎ、かつては貴族が馬術を習うところです。

馬術は今もオリンピックの正式競技でヨーロッパ勢の独壇場、その中でもドイツが突出しています。

日本は1932年のロスアンジェルス大会で西竹一が金メダルに輝いて以来、一個のメダルもありません。

ここで行われている調教、トレーニングを見学するコースもあり、人気があるそうです。
残念ながら今回は前を通り過ごしただけでした。

王宮礼拝堂(1)
ハプスブルク家のミサに参加してきました。と言っても3階席の後ろの窮屈な場所からで、牧師さんとかの姿も見えず、終わってからみんながぞろぞろ帰る時にやっと席の方を見る事ができただけでした。

この日の目的はウイーン少年合唱団の歌声を聞くことで、あの”天使の歌声”を耳にする事ができました。
祭壇の前に来て歌うのは最後の一曲だけでそれ以外は最上階で歌っていたので私達の席からは何も見えず、でした。

いずれにせよミサは宗教儀式である事をきちんと理解して行く必要があると思います。

王宮礼拝堂(2)
神父さんの流れるような言葉で儀式が行われ、来ている人たちもいろいろな動作をするのですが、私には何を意味するのかよくわかりませんでした。
クリスチャンではない者が来てもこの礼拝自体は特に感激のあるものではないと思いました。

私達の座った3階の席は東洋人ばかりで、団体の東洋人グループは西洋人(クリスチャン)とは一緒にしないという噂は本当だな、と思いました。

どこの席に座るかは入場チケットを買うときに指定されるので、いい席は早く来て並んで買う必要があるそうです。

王宮礼拝堂(3)
ミサが終わって中庭に出ます。
ここにいると先ほどの少年合唱団のメンバーが横切って行くので写真を一緒に撮る事ができるというのです。

ミサでは殆どというか、私は全く彼等の顔を見ていないのでどんな子達なのか興味津々、カメラを準備してしばし待機。

後で調べたところによると少年合唱団は15世紀に”宮廷礼拝堂少年聖歌隊”として創設されたそうで、今の”ウイーン少年合唱団”としては1924年に創設され、私立の全寮制の学校の形をとっています。

王宮礼拝堂(4)
出てきました。水兵服を着た少年達が数人ずつのグループで出てきました。
ツアー仲間のドクターYは、両手を拡げて”Wow!”、という感じです。
直ぐに近寄って、あれこれ話そうとするのはやはりオバサンたち。我々おっさん達は、ちょっと離れて見ているだけ、というのが面白い。

合唱団は全部で100名、25名ずつのグループに分かれ、これが交代で日曜のミサで賛美歌を歌うそうです。
但し常時1グループが海外での公演を行っており、ウイーンには普段は3グループしかいません。

王宮礼拝堂(5)
少年達は10才から14才で、声変わりをするとそれ以前でも退団になるのは有名な話です。
つまり天使の歌声を維持するためですね。

確かに見た少年達はみんな本当に子どもでした。
かつては毎年の入団志望倍率が10倍とか20倍だったそうですが現在は2倍程度、はっきり言って団員集めに苦労しているそうです。

人が、集まらない、、、で、何が起きているか。
そうです、ヨーロッパ大好き人間の中国人の入団希望者が押し寄せているのです、今は。

王宮礼拝堂(1)
よく見ると(よく見なくても)東洋人の団員がいます。何だか昔の志那海軍の水兵みたいな子が結構いるのです。
やはりちょっと驚きでした。
合唱団の経営・維持上やむを得ないという事らしく、表には出していませんが比率を決めて採用をしているようです。

ウイーン少年合唱団とは、金髪の白人ばかりの集団、というイメージでしたが変わってきているのです。
ちなみに日本人の団員も2人いるとの事でした。

そのうち”ウイーン国際少年合唱団”、とかいう名前に変わるかも知れませんね。

馬車(ファイアカー)
ここでも大人気です。
気になるお値段やっとわかりました。
4人乗り1台が40分で80ユーロ(約1万円)、20分で55ユーロ(約6500円)でした。

日本の人力車は1、1、1、つまり1人1時間1万円とかいうのを聞いたことがありますので、ウイーンのファイアカーの方が安いですね。

お金で言えばウイーンはどこに入るにも入場料が必要で、親子4人で1日観光すれば結構な費用になりそうです。

どこだったっけ?
ウイーン少年合唱団メンバーの写真を撮ってフォルクス庭園に行く途中の写真が何枚も残っているのですが、どこなのかどうしても思い出せません。メモも残っていません。

グーグルのストリートビューでも使えばわかるのでしょうが、面倒くさい。でも気になります。

ユーロの旗が立っていて、確か市長が執務をする建物だったか、とにかくここだけポッカリ記憶が抜けています。
今までこういう事はなかったのですがね〜、記憶力が確実に低下しています。

フォルクス庭園(1)
これだけ多くのきれいで、素晴らしいところに連れて行かれると感激も薄れてくるのでは?という人がいます。
それは違います。
いくら見ても、どこへ行っても飽きないのです。
それはそれぞれの場所に特徴があり、一見似ているようですが違うからです。

ここは1823年、公の”公園”として作られました。
地図には”Stadtpark”(都市公園)と書いてあります。
ドイツ語で”stadt”は都市、市という意味で”park”は公園で、英語と同じスペルです。

フォルクス庭園(2)
公の公園?もともと公園は公でしょ?と言われそうですが、それまで貴族のための”park”はあっても、庶民の使える”park”はなかったのですね。

ですから”park”の語源に”公”の意味は含まれていません。
難しい話はともかく、1823年になって庶民が使える”park”ができたという事ですね。

ここから見えるこの建物は”美術史博物館”で実に興味をそそられます。
ここを再訪する機会があれば入ってみたい所の一つです。

フォルクス庭園(3)
このベンチ、気に入りました。
細いパイプでで作られ、緑色に塗装され、景観を妨げないように作られています。

こういう工夫というか気配りがあちこちにされているのが欧米の公園などの特徴です。
ゴミ箱も非常に工夫されていて、目立たないようになっています。
景観に関して日本は無神経すぎます。看板、特に旗竿看板(幟看板)が多すぎます。

日本は観光立国を目指すそうですが、看板大国を何とかしないとダメだと思うのですが。

オープンカフェ
夕方になれば多くの人が来るのですかね。
こういうところで友人などととりとめのない話をしながらダラダラとビール飲む、、、最高ですよね、きっと。

もっとリラックスして飲みたいときはその辺の店で生ハムとチーズ、それにワインを1本買ってきてホテルの部屋で飲む、というのも悪くありません。
今回のように往復以外は飛行機に乗らない旅のときはウイスキーを1本カバンに入れておくというのもいい。

液体燃料注入の事ばかり考えています。

移動コーヒーショップ
日本以外ではそもそも自動販売機というものはない、と言っていいと思います。
すぐ見えるようなところには絶対にありません。
このショップ、カプチーノで3.5ユーロ(400円)アイスコーヒー5ユーロ(600円)、こんな感じでした。

”to go”というのは”お持ち帰り”という意味です。日本で言うテイクアウト、つまり”take out”は通じるか?
多分一旦”??”となって、次に”Oh, you mean to go?”とかになると思います。

その場で食べる(飲む)は”for here”です。

ヨハンシュトラウス2世像(市立公園)
ウイーンは町中が「おお!」、というような有名な芸術家のゆかりの建物、像などで溢れています。
この像も結構有名で、大抵の観光コースの中に入ってますね。
この像はヨハンシュトラウス、、、そうです、「美しき青きドナウ」、のヨハンシュトラウスです。
大理石の上に立ってバイオリンを弾いている像です。

この偉人は先祖がユダヤ系の血を引いているにもかかわらず、ヒトラーも大ファンだったそうです。
ちょっと恥ずかしかったのですが、ツーショットを添乗員さんにお願いしました。

ウイーンからブダペストへ(1)
ウイーンの観光も終わり、列車でブダペストに向かうためにウイーン駅に行きます。近代的な駅です。
スーツケースとかの荷物はこの前と同じくバスで別途運んでくれます。

ここまでで私はお土産はチェコで1個買っただけです。皆さんもお土産を買う人はあまりいません。
というかこのツアーは土産物屋には、チェコと最後のハンガリーの2カ所だけ寄るというコースでした。
某旅行会社のツアーみたいに観光は適当にやってあちこちの土産物屋に1時間半缶詰、とかいうのはありませんでした。

ウイーンからブダペストへ(2)
列車は2等席ですが、まずまず快適です。
この前みたいに変なオバさんに席を占領されたりもありませんでした。
席で一緒になったAさん、いろいろ話をするとレントゲン技師を60才で定年退職、その記念でこの旅行に来たと言って見えました。
営業の仕事でずっと転勤転勤、やっと定年になったので旅行に来たという方も見えました。

皆さんそれぞれ現役の時からちょこちょこ旅行は楽しんでおり、本格的には今回が初めてという方が多かったように思います。現役の間は10日間とかの休みはとれませんものね。

ブダペスト駅
立派な駅です。殆どの国際列車はここが発着駅で、ブダペスト最大の駅です。
駅は19世紀末に建てられ、この屋根(天井)は当時の大きな駅共通のデザインです。
ミラノ中央駅、パリ東駅とかもこのデザインでした。

やはりヨーロッパは電車に乗るのもいいものです。バスとかでは見れない風景もありますし、第一こういう駅が何とも言えません。
駅で日本以外全部共通しているのは、放送が一切ない点です。時間が来たら静かに発車。静かに到着します。車内放送もありません。

ウイーン観光、2日間ではどう考えても少なすぎます。
でもハイライト的な場所はさっと回ることができましたし、どこに何があるか何となくわかりました。とにかく今も芸術に溢れている街です。
次に来る機会があれば美術館巡りをしたいですね、ゆっくりと。
ここまで体調も良く、事故もありませんでした。最後の2日間はハンガリー・ブダペスト、これも期待通り、大いに楽しむことができました。