旧満州の旅ー4(鞍山・丹東) : 2019/9/7〜2019/9/15
旧満州の旅も後半に入ってきました。この日は瀋陽から製鉄で有名な鞍山、更に北朝鮮との国境の丹東まで向かいます。地図を見ると随分南まで来たな〜、という感じです。

今回の旅はホテルでかなり退屈しました。テレビは戦争もの(日中戦争と国共内戦)が多くパス。他の番組は日本語はおろか、英語の番組も殆どありませんので見ても全く面白くありません。
ツアーの他のメンバーも同じ事を言っており、仕方なく毛沢東をこれでもかというくらいヨイショしている、国共内戦の戦争番組を見てる、と言ってました。

言葉はわからないもののニュースを暫くみていましたが、もちろん香港の民主化デモについての報道は一切ありません。中国14億の民は強力な情報統制の下に置かれている訳ですが、日本などにいる中国人から多くの情報が入ってきており、これが政府の悩みでもあるようです。
こういうやり方がいつまで通用するのか、、、。

ホテルの部屋から朝の景色
瀋陽ではシェラトンに2連泊、ホテルは市の中心から少し離れており、道路には通勤客を乗せたバスとか車が走っていますがラッシュという感じではありません。

写真ではよく分かりませんが周りはとにかく建築ラッシュです。見える範囲の建物の半分くらいが建設中です。
完成している建物も半分以上あり、駐車場の中に車はありません。

一体これだけ多くのオフィス・ビルは誰が使うのか、それだけの需要があるのか、不思議です。

朝食レストラン
レストランは混んではいません。テーブルは20%〜25%くらいしか使われていません。
これだけ大きなホテルですからレストランもそれなりにデカいのですが、宿泊客は多くはなさそうです。

洋食・中華2種類のビュッフェ形式で、日本食はありません。この日はチャーハンと麺を食べてみました。麺はそれなりにおいしいのですが、スープが温いのが残念。

今回の旅では朝食を含めて、食べものは1カ所を除いて全部○でした。1カ所とは?大連で食べた日本食でした。

ホテル周囲の散歩
朝の8時ちょっと過ぎ、車は時々通りますが多くはありません。建物は立っていますが、人の気配を感じないのです。

使われているのか、使われていないのか、道路際に立っている建物は商業施設のように思われますが看板があるのはほんの数えるほどです。

バス停もありますが、時刻表とか路線地図を貼る立て看板にはビニールカバーがかかっています。
これらの建物がいつ使われるのか、誰が使うのか、需要に基づき作られたのか、疑問です。

高層マンション群
30階建て以上の高層マンション、写真を拡大して見ると住んでいるのは10%〜15%程度、残りは住んでいる気配はありません。
中国ではある人の推計によると既に中国人口の2倍分、30億人が住めるマンションが建てられているそうです。
これは資本主義経済のように需要予測に基づく建設ではなく、中央組織からの指示による主としてGDPの維持のための建設で、これが15年以上中国では続いているのです。

今回の旅行の中で、注意深く観察するとそういう部分を幾つも、というか大量に垣間見る事ができました。

鞍山製鉄所(1)
鞍山製鉄所は1918年(大正7年)にに満鉄が鞍山の鉄と撫順の石炭を利用して作った大製鉄所です。昭和8年には”昭和製鉄所”と改名され、八幡製鉄に次ぐ生産量でした。

そして終戦、更に中共内戦後、中国共産党の重要な生産拠点として現在に至っています。

私達は正門の前でウロウロするだけで中には入れませんでしたが、私は可能な限りの観察をしてみました。正門の前には線路が何本も敷かれていますが、使われているのは1本だけ。残りは全部赤く錆び付いていました。

鞍山製鉄所(2)
門右奥の赤屋根の建物は、明らかに満洲国時代に建てられたもののようです。
煙突から煙は出ていません。

ここは終戦後、全部の設備を占領したソ連軍が奪取、空っぽになりその後共産党が再建したのですが、中国共産党にそんな技術者がいるわけはなく、日本人技術者を抑留し、これらの日本人によって再興されました。

中共内戦の中で翻弄された多くの日本人技術者とその家族、山のような話があります。

旧近江屋ホテル
鞍山には多くの人が働いており、職員等3900人、工員等17000人で職員の多くは日本人であっと思われます。
鞍山には満鉄直営のヤマトホテルはなく、助成旅館と言うことで満鉄が資金・不動産を貸し付けした”近江屋ホテル”というのがありました。
満鉄はヤマトホテル以外に、直営ホテル、このような助成ホテルを満州全土で経営していました。

近江屋ホテル跡はこここです、と駅の近くで言われたのですがその跡地の写真がナゼか残っていません。代わりに駅の写真を残します。

ちょっとだけ市内散策
製鉄所は正門からの見学で、ここの生産量についてガイドに質問したところ「国の事は分かりません」とピシャリ。
こういう質問には中国では答えないのが普通なようです。

中国政府公表では全土で9億トンで断トツ世界一、日本は1億トン。
この9億トンという量が実は大問題で、超簡単に言うと、”使い道がない”のです。

さてバスは製鉄所を離れて街のど真ん中に停まりました。ここでちょっとだけ街の散策です。

街の風景
車の走り方のマナーはそれほど荒っぽいというわけではありません。バイクも時々走っていますが、ヘルメットは着用していません。
車は圧倒的に乗用車が多く商用車、トラックなどはあまり見掛けません。これはどこでも同じです。タクシーは割と走っています。

地下のショッピング街に入ってみました。様々な店があるのですが、いずれも客は非常に少ない、というか入っているのが希です。
売っているモノは安く、品質はそれなりでした。

郵便局(1)
バスを降りた横の建物は、明らかに旧満州国時代に建てられたものです。
”CHINA POST”(郵便局)以外に"POSTAL SAVING BANK OF CHINA”という看板もありました。こういうのを見ると中に入ってみたくなります。

その前に歩道を歩いて行く人の服装などを観察してみました。女性は若い人のほんの一部を除き、化粧はしていません。それに結構太った人が多いです。
靴は運動靴のようなのが多く、靴下は殆どの人がはいていませんでした。

郵便局(2)
まず入り口に大きな看板です。毎年10万(元?)5年間、一生保障、最低25年保障、、、、ウ〜ン、何となくわかるような、やっぱりわかりません。

養老保険:年投5万、月領2316、とかいうのもありました。赤い柔軟の右に扉があり、中を覗くと窓口が並んでいました。客は1〜2人いたと思います。

入り口に置いてある電気釜とか電気ポットは何だろう、、、やっぱりガイドがいないとわかんない。
オ〜イ、週さ〜ん!

電動バイク
自作かと思いましたが、製品として売っているもののようです。電動バイクでペダルも使えるようですが”電動アシスト”タイプではないようです。
サドルの下に大きなバッテリーがあり、鎖で巻いてデカい南京錠で封じてあります。中国らしいですね。

中国では電動バイクが非常に普及していて盛ん、と言われていますが今回の旅では多くは見掛けませんでした。

鞍山も他と同じく歩道があっても信号はないところが多く、渡るときは細心の注意が必要です。

日本人住宅街(1)
昔は”台町”という地名で、多くの日本人が住んでいた家が当時のまま残っています。家は空き家ではなく、今も中国人が住んでいます。

改装がしてある家、殆どやってない家、様々ですがどれも日本の家の雰囲気をちゃんと残しています。
生け垣はいずれも鬱蒼と茂っていて、中を覗くと家庭菜園をやっている家もありました。

寒い地方ですから暖房も考えて、しっかりと作ったから今でも使えるのでしょう。

日本人住宅街(2)
家はいずれも厳重な高い鉄格子などで囲われており、防犯対策が重要である事がわかります。

これらの家は昭和製鉄の役職者が住んだところのようです。ここ以外に長屋風の昭和製鉄職員家族宿舎、単身者用宿舎など何カ所も住まいはあったそうです。

終戦当時10才の子も今では85才、そういう人であればここの風景を思い出す事はできるでしょうが、当時現役で製鉄所に勤めていた人でご存命の方はいるのか、、、。

日本人住宅街(3)
何と”鯉のぼり”です。かなりくたびれていますが、色彩は十分です。今から75年前のものなのか、それとも住人がその後どこかで手に入れたものなのか。

いずれにせよ、旗竿に付けて庭に立ててあるということは、これが何であるかを知っている人だろう、、、そう思えてなりませんでした。
鞍山の昭和製鉄は終戦直後のソ連軍による占領で技術者は拘束、設備の多くをソ連が略奪、その後八路軍(共産軍)、さらに国民党政府による支配、そして再度共産軍による支配とめまぐるしく変わりました。

日本人住宅街(4)
ソ連は設備の略奪が終わるまでは厳しく製鉄所を警備、設備を持ち出した後は警備も殆どなくなり一般の中国人、それに共産軍の兵士が製鉄所内に入ってきて、盗めるものを根こそぎ持っていったそうです。

その後多くの日本人職員・技術者は八路軍に抑留、日本人の持つ技術は中国共産党にとって貴重な”戦利品”でした。そして家族だけが先に日本に帰ったのでした。

庭には大きな瓢箪がぶら下がっていました。中国人に庭に瓢箪を植える習慣はあるのか、なければ日本人が植えたものかも、、、。

日本人住宅街(5)
庭の松もこんなに大きくなって道路にはみ出しています。剪定はされていません。
これを見ると日本人が住んでいた家であるのが本当によくわかります。
終戦1年後、帰国しなかった残留者が6500名、これらの世話をする医師・看護婦、それに学校の教師も残留をしたそうです。その中に中学生・女学生が150名、小学生が200名がいたからでした。

日本人はソ連軍、共産軍、国府軍に翻弄され、全ての人が帰国していなくなったのは1953年(昭和28年)だそうです。

旧鞍山満鉄病院(1)
旧満州各地には満鉄が建てた病院がありました。鞍山にもあり、救急外来から中に入って中を見せてもらいました。
満鉄というのは鉄道会社ではなく、半官半民の国策会社で、鉄道はもちろん、炭鉱、製鉄、汽船、電業、ホテル、映画、そしてこういう病院まで手がける大コンツェルンです。
他にシンクタンクの機能も持っており、政治・経済・地誌等の調査・研究もやっていました。

入り口には数人の人がいるだけで人は殆どいません。
まずここでトイレを使わせてもらいました。中国にしてはきれいなトイレで、まずまず快適に使う事ができました。

旧鞍山満鉄病院(2)
受付横の待合室です。救急患者はここで受け付けて、奥の診察室で診てもらうようです。

内部は大変きれいにされていますが、ちょっと横の通路に入るとそこは中国、ウーン、という状態になります。奥の椅子には女の子が寝そべっていました。
診療費用もカード決済ができるようになっていました。電子マネーに関しては中国は日本より進んでいるかも知れません。
中国には国民が誰でも加給できる公的健康保険制度はありません。入れるのは都市部の勤労者だけです。

旧鞍山満鉄病院(3)
中国は保険料を多く払っている人は窓口での支払い費用は少なく、保険料の少ない人は多く払うという仕組みです。
また日本のような高額医療負担制度などあるわけがないので、大きな病気の場合の自己負担は巨額になるようです。

とにかく日本の健康保険制度はグローバルスタンダードから言えば例外、これは我々は知るべきじゃないでしょうか。
はっきり言えば世界中、”命=お金”、ですね。

この病院は医者が70名以上いるようで、我々がおじゃました病棟の裏には巨大な本病棟が建っていました。

旧鞍山満鉄病院(4)
ちょっと奥に入ると結構大きなメガネ屋もあります。診察してもらってその結果を持ってここでメガネを買う、こういう事らしいです。値段は安いのが7000円くらい、一番多いのが12000円くらいでした。
アメリカにいたとき、私の入っていた保険では目が悪いのも”病気”、だから保険でメガネが手に入りました。
メガネは1年か2年に1個、コンタクトは1年に4組だったか、値段の制限とかはありましたけど。

ちなみに私はまだメガネは必要ないので縁はありませんでした。そろそろ老眼鏡は要るかな?という感じはしますが。

旧鞍山満鉄病院(4)
メガネ売り場の中で特別に囲った陳列棚の中、値段が29800元!!何と40万円以上のメガネです。
よく見ると”白金”とか”14K”とか書いてあり、産地”日本”となっていました。

他のメガネの30倍とかの値段ですから、やっぱりスゴイですね。置いてあると言う事はこれを買う人がいる、という事なんですね。
球を薄茶色にしたら李克強のメガネに似てるな、、、。イヤ、李克強とかは400万円くらいのを使っているのかも、、、。

病院の前の長屋
本病棟の方を見学できれば外来患者などもまだいる時間でしたから、もっと興味深い市民の姿を垣間見る事ができたのでしょうが、それはなしでした。

救急外来入り口正面には駐車場を挟んで長屋が建っており入院患者が必要な雑貨品、添い者が必要な物などを売っている店が入っていました。
ベビー服なども売っていましたので出産した赤ん坊へのお祝いですね。
本日の昼食はこの長屋の左端にあるレストランで頂きました。

昼食
このレストランは肉まんで有名です、と添乗員さんが言ってました。私は肉まんにはあまり興味がない方なので、フーン、という感じで頂きました。
全体としての味は悪くはありませんでした。

ここで飲んだビール、ちょっと変わった味がしましたが何という名前だったか、、、、。

店の中は昼食で入ったレストランの中では一番中国らしいレストランで、テーブルクロスはビニールでちゃんと穴も空いていて、ビールグラスも曇りガラスになっていました。

雑貨屋
食事のあと少し時間があったので、長屋の雑貨屋に入ってみました。
飲み物とカップ麺が目につきました。カップ麺はとにかくデカいのが多い。日本の大盛りが普通サイズのような感じです。

それとちょっと馴染みのないお菓子類。食べてみればそれなりに美味しいのでしょうが、あの色には腰が引けます。

一応この店が一番客が多くて3〜4人、支払いするところを見ていると、こんな店でも電子マネーでした。

ソラシオ汐留
腹も一杯になったところで、バスに乗って丹東まで。今回のツアーの中で一番長いバスの旅で、約4時間です。丹東は旧満州国時代は安東と呼ばれていたところです。

高速に乗ると田舎風景が続きます。集落が見えたと思った草原が続き、工場群が見えたと思ったら小高い丘の間に入ったり、変化のある風景と地形です。

平和な地方の風景が次から次へと流れます。反対車線を走る車もあまりありません。道路の舗装の状態も悪くなさそうで、シートへの振動もあまりありません。。

料金所
料金所を見ていると全体の交通量の少なさがわかります。バスの車窓からの印象では高速道路を走るトラック、その他商用車などが少ない感じでした。
国土が広いので目立たないだけなのか、しかし走ってきた道路は幹線道路の一つだと思うのですが、車は少なかったです。

それはともかく高速道路の最高スピードは120km、追い越し車線では100kmだったか110km最低スピード制限があって、これは合理的です。
日本は追い越し車線をトロトロ走る車が多くて困ることがありますが中国はなさそうです。

丹東市内に入ってきました
丹東は北朝鮮と国境を接する”国境の街です。市全体の人口は241万人(15000ku)、市区人口は78万人(560ku)です。
と言ってもピンと来ないので私は東京23区の面積620Kuと人口1000万人を覚えておき、これと比較します。

これからいくと面積は23区と大体同じで人口は1/13ね、という事で何となく分かったような気に無理やりしちゃいます。
実際は市区の中の更に一部に人は集中しているので単純な比較はできませんが、まあそういう細かいことは抜きです。

ハングルが見えます
ここは少数民族の朝鮮族が2万人住んでいて、街のあちこちでハングル文字を見掛けます。ちなみに日本人の在住者は15名程度だそうです。

満州事変(1932年)ではここを日本軍が直ちに占領、その後多くの日本企業が進出して栄えましたが、終戦により共産軍により接収されてしまいました。

南朝鮮の釜山から列車で京城(今のソウル)を通り平壌(今のピョンヤン)を通り、この丹東を通って奉天(今の瀋陽)まで行く、というのが昔の日本から満州までのルートの一つでもありました。

安東神社跡(1):錦江山公園
安東神社は鎮江山公園を日本が造り、その麓に作られた神社です。
鎮江山公園は安東に軍政を敷いていた日露戦争時に無名のはげ山に日本人が付けた名前で、その後計画的に2万本の植林がされ、見事な緑豊かな山(公園)になりました。

公園の広さは30万u(500m四方より少し大きい感じ)で朝満を通じて一等の森林公園と言われていました。

神社は最初市街地のど真ん中にあったそうですが、1924年(大正13年)に鎮江山公園の麓に移されたそうです。

安東神社跡(2):錦江山公園
神社の鳥居は既になく、中国式の入り口になっていますが鳥居を利用したと思われます。

入り口横の広場で20名くらいのグループが例の公園体操をやっていました。
するとその中のインストラクターとおぼしき女性が我々の方に寄ってきて、「皆さんもやりましょ〜!」、とかいう感じで仲間に入れさせられました。

このあとガイドの周さんによる追加の指導もありました。
みんなごらんのようにインストラクターの指導を受けて楽しくやりました。

安東神社跡(3):錦江山公園
安東神社本殿跡にはモニュメントが建てられて何もなく、今は”太平台”という名前になっています。

日露戦争で戦死した1091名の将卒を祀ったのが始まりの”表忠碑”跡は”遼東解放烈士塔”という中共内戦の共産党の愛国碑に変わっていました。

公園内には石橋とか石柱が多く残っており、それらには表面に不自然なセメントによる消し込み跡があります。
よく見るとそれらを奉納した人の名前が消されているようでした。”三浦”とか”山口”とか消し忘れた人の名前を確認できました。


安東神社跡(4):錦江山公園
かつて公園内には八幡宮、金比羅宮、稲荷大明神などの神社がありました。
公園は1929年(昭和4年)の大連新聞主催の満州八景の人気投票で第一位になっています。

そのお陰でこの公園は有名な観光地になり満州から、朝鮮から多くの人が訪れたそうです。
確かに公園内はその面影は十分で、非常に日本的な雰囲気でした。
”鎮江山公園”という名前は1965年(調和40年)に”錦江山公園”という名前に変えられています。

丹東市内
夕方のラッシュです。交差点で動けなくなっているようでした。
中国は信号のない交差点が結構多く、一旦渋滞すると動けなくなってしまうようです。
見ていると人・バイク・自転車も結構勝手に横断したりしますので事故も多いんじゃないかと思いました。

写真は高架道路を走るバスから撮ったので、バスもノロノロ運転でした。
後で写真を拡大して看板などを見ると、やはりハングルがちらほら見えました。

晩飯です
江都酒店、ですね。夕食のレストランです。今夜は今回のツアーの目玉の一つの、北朝鮮からの出稼ぎ姫達の舞踊を見ながらの朝鮮料理という事で、少し期待です。

ここから2、3km先には鴨緑江があり、その先は北朝鮮です。丹東には多くの朝鮮料理のレストランがあり、北朝鮮から多くの人が外貨稼ぎで来ています。

出稼ぎ者の行き先はロシアなども17カ国と言われ、10万人はいるとされます。1人が年間50万円(5000ドル)送金すると500億円、北朝鮮の重要な外貨獲得手段です。

北朝鮮舞踏ショー
建物の中は非常に綺麗で、一見豪華です。我々は一番奥の個室に通されました。

ここでガイドの周さんから説明。「現れた姫には絶対に声を掛けない事、写真撮影は禁止、大きな声で騒がないこと、チップは渡さないこと、拍手はOK、、、」

何だそりゃ?という事で、みんな一発パンチを食らったという感じでした。これは中国人の客に対しても同じ要求なのか、日本人だけなのか、過去に何かトラブルがあったのか、大いに拍子抜けでした。

隣の大部屋
で、料理が持ち込まれ食事を始めるとやがて北朝鮮の舞姫2名が入場。何か顔が引きつっています。ひとりがスピーカーとPCを置いた台車を押しています。

部屋に入ると先にいた姫がPCを操作して、北朝鮮音楽(と思います)が超安物のスピーカーから昔のラジオみたいなガーガー音で流れてきました。
すると2人は手足を怠そうに動かし始めました。これを舞踏というのか、、、。
舞踏と言えばそにょうにも見えるし、中国人が公園でやる体操とあまり変わらない動きです。

戦利品
3〜4分で音楽は終わり、2人の舞姫は礼もなしで、部屋を出て行きました。

ガイドの周さんは中国共産党の回し者みたいな態度、言動がしばしばあり面倒なので質問はしませんでしたが、このショーくらい我々をバカにした出し物は、ありませんでした。皆さんも同じ思いらしく、しばし無言でした。

食事と”北朝鮮舞踏ショー”を見終わって土産物売り場に行くとそこにはアメリカ陸軍のジープが置いてありました。朝鮮戦争での戦利品という事のようでした。

メイドイン・北朝鮮
土産物は食べもの、その他日用品みたいなのが多かったように思います。
これは低反発枕に似ていましたが、どういう謳い文句で売っているのか、興味はありましたが残念ながら字が読めず。

それにしても大きな建物で広くて大きなレストランもあるのですがとにかく客がいません。

今日は日本人が来るから他の予約をストップしたのか、、、まさかそんな事はないと思うのですが、これで採算がとれているのか、不思議なところでもありました。

丹東福瑞徳大飯店(1)
そんな訳で北朝鮮舞踏ショーは少々ガッカリしましたが、ま、これもツアー、という事で納得させました。

今夜のホテルは完全な中国系のホテルのようです。床はピカピカに磨かれているのが印象的でした。

この日まであちこちの観光地を回りましたが、日本人グループには只の一度も会ってません。それだけ旧満州方面に旅行に来る人は少ないのでしょう。
白人も殆ど見掛けません。ハルピンのホテルでで数人見ただけです。

丹東福瑞徳大飯店(2)
部屋は適当な広さで快適でした。バスト・イレルも清潔で申し分なしでした。
もうテレビは見る気もしないのでスイッチは入れません。

今日は先ほどのレストランで周さんに、「液体燃料を買いたいのだけど」、と言うとどこからか箱に入った”白酒”(パイチュウ)を持って来てくれました。
結構立派な瀬戸物の瓶に入っていましたが1000円相当も払わなかったと思います。

さっそく部屋でこれをチビチビと頂きました。

この日もなかなか充実した1日でした。気候はどこに行ってもさっぱりとしていて、湿気を感じません。気温も汗をかくことがないレベルで快適でした。

しかし鞍山製鉄所では南門からの見学で正門には行かず、満鉄病院も本病棟ではなく救急外来のみの見学という工合でこっそり隅っこだけを覗いた、という感じは否めませんでした。理由はいろいろと考えられますが。
ま、こういうグループ・ツアーは文句を言えばキリがありませんので、全てよし、まあ順調、という事で自分で納得させるのが大事かも知れません。

しかし、カミさんにとってははあまり面白くない旅だろうな〜、あと少し我慢してね、、、こんな感じでした。