旧満州の旅ー5(丹東・大連) : 2019/9/7〜2019/9/15 |
丹東という地名は今回の旅行をするまでは知ってはいたものの、あまり意識をする事はありませんでした。旅行前に少し詳しく調べたとこr、ここは昔も今も鴨緑江を挟んで朝鮮と満州をつなぐ重要な拠点である事がわかりました。今回は実際にそれを垣間見る事ができました。 この日は朝から鴨緑江にかかる2つの橋を見学、その後万里の長城の東端と言われる”虎山長城”に行き、夕方に大連に向かうというコースでした。 旅もこの日を含めて実質的に2日を残すのみとなったのですが、丹東訪問も非常に有意義でした。 感想などを写真付きで記録します。 |
ホテルの部屋から景色 | ||
ハルピンをスタートしてから5都市目、今までは山らしい山を見る事はあまりありませんでしたが、ここまで来ると風景の中に山があります。 見える建物は殆どがアパートで手前の棟は何十年も経っているのでしょう、かなり古く外壁も窓も傷んでいます。昨夜見たときは部屋の半分くらいに明かりがありましたので、現役で使われているアパートですね。 屋上には太陽光パネルが見え、統一された様子はありませんので個人で設置されたものと思われます。 |
鴨緑江断橋(1) | ||
ホテルからバスに乗って15分、日本統治時代に建設された鴨緑江に掛かる鉄橋に着きました。 1909年に京義線の鉄橋として建設され、鉄道は釜山から京城そして平壌を通ってこの橋を渡り、奉天まで続いていました。 という事は京義線は満鉄に繋がり、満鉄はシベリア鉄道に繋がっていたのでちょっと(かなり)大変ですが、ヨーロッパまで鉄道で行けました。 昭和16年に日本陸軍の山下奉文中将以下20数名の技術調査団が、これを使って東京・ドイツを往復しています。 |
鴨緑江断橋(8) | ||
抜け荷の行列(見たわけではありません)の中に突然大型バスが見えました。一杯人が乗っています。何だろう、中国人の北朝鮮観光?違うようです。 双眼鏡で見て、後で写真を拡大してみました。ほぼ全員若い女の子ばかりです。中国への出稼ぎが戻るのか、昨夜見た”北朝鮮舞踊”の蝋人形の踊り子などもこの中にいるのか。 みんなこちらの方を必死で見ています。出稼ぎに来ている子達と考えてもよさそうです。 |
イミグレーション | ||
北朝鮮は属国ではあるとはいうものの、あれだけ多くの物資が送りこまれ、人も出入りしているので、出入国管理事務所があります。 中国人はパスポートなしで北朝鮮と往来でき、これも北朝鮮が国境にカジノを作りたがっている理由のひとつです。 鴨緑江橋梁の見学を終えてバスに乗ったら、車が混雑して、イミグレの横で停車、すると獰猛そうな警官が出てきて怒鳴り散らしてバスを動かしてしまいました。 その時の運転手、ガイドの怯えた目は忘れる事ができません。 |
虎山長城(1) | ||
丹東からバスに乗って40分、万里の長城の東端とされる”虎山長城”に来ました。 虎山長城の虎山の意味は近くの山が”虎が座っているように見える”(何で猫じゃないのか?)からだそうで、その後にある長城だから虎山長城、という名前になりました。 中国の言うにはこの長城は明の末期に北方(後金)からの侵入を防ぐために作られたそうで、後金(後の清)の勢力下になってから破棄された長城という事です。 |
虎山長城(4) | ||
長城の下をくぐって歩いて行きます。 物売りの人達の風体をさっと観察します。服装はこざっぱりしています。男の頭はスポーツ刈りが多く、長髪はいません。これは都市部でも同じ傾向です。 履き物はかなりくたびれている人が多い。女性の感じは日本の一昔前の農家を思い出せば同じです。 唯一違うと思ったのはイアリングとかのアクセサリーをしている人が多いことです。 昔の日本の農家のオバサン(若い人も含めて)はこういうアクセサリーとは無縁でした。 |
虎山長城(5) | ||
中朝国境です。ウソー、というくらい近い目の前は北朝鮮なのです。これは鴨緑江の中州ですが間違いなく、北朝鮮です。 この川の幅は10mくらいでしょうか。柵は至って簡単、普通の家のフェンスと変わりません。 またもや私は思い出します。”地上の楽園、北朝鮮”、それが目の前にある、、、。 でも中州ですから渡ってもその先に行くには船が要るな、、、楽園に行くのは簡単ではなさそうです。 |
虎山長城(7) | ||
周りを見ると2元で大きな双眼鏡を覗くことができましたので、さっそくこれを借りました。10又は12サンチで20倍、どう見ても軍用です。ものすごくよく見えました。 楽園側は2人ではなく3人いました。国境の監視敞ですから2人というのはやっぱりあり得ませんよね。さかんに動き回っています。こちらを監視している気配は全くありません。きっと雑談でもしているんでしょうね。 この双眼鏡の横にいたオバサンが私達をジーッと見ていました。何をワイワイ言ってるのかと、、、。 |
虎山長城(10) | ||
長城を歩いたのは私達のグループではもう1人だけで皆さんは下でブラブラしていたようです。 途中ですれ違ったこの2人、長城から降りて休憩しているときに再び会ったので声をかけてみました。服装、雰囲気から中国人でなし、半島人でもなし、と思ったからです。 当たり! 台湾から観光に来た夫婦でした。年格好は私よりかなり年配のようで、割と流ちょうな英語をしゃべってくれました。 |
丹東の民家 | ||
煉瓦造りの家です。庭に小型の衛星テレビのパラボラアンテナが設置してありました。 道路側の緑は何かの野菜のようでした。 家の周りはいわゆる”手入れ”がされているという感じではなく、雑然としていました。 こういう家をジロジロ、写真を撮ったりしているとガイドの周さんは”何かありますか?ただの家ですよ”、と急に公安警察になるのでした。 |
丹東から大連へ | ||
再び高速鉄道に乗り、大連に向かいます。大連までは2時間50分、これが今回の旅で乗る最後の高速鉄道です。 毎度の事ながら中国の高速鉄道もデカいスーツケースを持った観光客には辛い乗り物です。この時ばかりは体力のあるガイドの周さんに頼るしかありません。 いくつもの大きなスーツケースを預かってくれてどこかにぶち込み、到着先ではそれをちゃんとまた引っ張り出してきます。大したものです。 到着した大連駅は巨大で、きれいな駅でした。 |
この旅最悪の食事 | ||
夕食で連れて行かれたのは日本レストラン。 ツアー会社としては今までずっと中華料理で飽きたでしょう、ま、久しぶりに日本食でもいかがでしょうか、という事だと思います。 しかし、です。酷かった〜。3種類くらいの定食から選べ、私は一番無難な”塩鯖定食”でしたがご飯が最悪、小学生がキャンプで飯盒で炊いたご飯の方がマシ。超大盛り。おまけにカッパ巻きまでついてます。 絶対に中華にすべきです!○○○りさん。 |
レストランの回り | ||
私の先輩のSさんにも友人のTさんにも言われた事があります。「中国へ行って海の幸は注意すること。中国沿岸100kmは死の海になっており、そこで獲れる魚介類は重金属の塊と考えて下さい。」 まあ、常食するわけではないので1回の塩鯖定食くらいいいんじゃない、という判断でした。 レストランの周囲はご覧のようなクラブ・スナック・パブ、大連には8000人くらいの日本人が住んでおり、出張者も山ほど来ているので、きっと商売繁盛だと思います。 |
大連夜景観賞(2) | ||
私は夜景の美しさをお楽しむと同時に別な観点での観察を行います。つまりビルは一杯あるのですが、やはり使われていないと思われるビルが非常に多いことです。 イルミもなく真っ暗なビル、イルミはあるが窓から灯りが全く見えないビル、これが非常に多いのです。灯りがあっても半分から上が全く灯っていないとか。 で、ガイドの周さんに聞くと、彼は急に中国共産党員になって、「工事中ですから使ってません!当たり前でしょ?」、という返事でした。 |
夜市散策(2) | ||
それぞれの屋台はきれいに区切られたスペースの中で商売をしています。 並べて売っているものは魚介類が殆どです。 ですから魚介類は好きではない、興味がない、という人は来ても面白くないと思います。 私は”われは海の子”の唱歌と同じような育ち方をしていますので、こういうところで調理される魚介類を見るのは大好き、というが半ば興奮状態になります。 いい匂いが漂ってきます、、、。 |
夜市散策(3) | ||
どれもこれもみんな基本的に日本と同じですが、2つの大きな違いがあります。 ひとつは煉り物が少ない、もう一つは串焼きなどのサイズが日本に比べると2倍以上ある点です。 煉り物は探したのですが殆どありません。 数件見つけましたが中国らしく色粉で染め上げていました。これは私は苦手です。 サイズは殆どが大きいです。私が思うに日本のサイズがどこに行っても小さすぎるのだと思います。 |
大連駅 | ||
路面電車に載るために大連駅の前までやってきました。 駅は現在位置に旧満洲国時代の昭和12年(1937年)に建造されています。 それまでの大連駅は、この東側にあったそうです。 この駅を見てパッとどこかの駅が目に浮かぶ、、、そうです、東京の上野駅がデザインのモデルだそうです。大きさはこちらの方がうんとデカいですけど。 今回は中に入ることはできませんでしたが、中の構造も煮ているそうです。 いい雰囲気ですね、この駅。 |
路面電車(1) | ||
路面電車は明治42年(1909年)に満鉄が始めて、昭和20年時点では11路線ありましたが、現在は2路線のみが残っているだけです。 このうちの1路線は全ての車両が日本車輌の3000型で、昭和12年製造のものです。 こういう話しは愛国者の周さんはやりません。”日本が作った”とかいう話しは頑なにやりません。 それはともかく、みんなレトロな電車がやってきで大喜びでした。 |
路面電車(2) | ||
電車はゆっくりと走ります。乗り心地は悪くはありません。車内の手入れも行き届いており、リニューアルされていますが、昔の雰囲気があります。 車両というのは大体が見えるところに製造会社、型式、製造年月の銘板があり、探してみましたがこれもどこにもありませんでした。全部外したものと思われます。 今から20年以上前にボストンに行った時に地下鉄に乗ったら、ちゃんと日本語の銘板が見えるところにありました。 |
ガイドの周さんは時には公安警察になったり、苦力になったり、時々中国共産党員になったり、ひとりで何役もこなしているなかなか忙しい人でした。私の質問に苛立つのがよくわかりました。 多分私が結構きわどい質問をするので彼の愛国心(?)が鎌首をもたげたのかも知れませんが、私の今回の旅の目的は物見遊山・観光ではないので、質問をしないわけにはいきませんでした。 でも殆どは日本人なら誰でも疑問に感じる事だと思っています。悪気は全くないんですがね、、、。 この日は丹東から大連、大連では夜の散策オプショナル・ツアーにも参加して大変満足でした。 |