台湾(後編)台中・台北:2019/4/20〜2019/4/24
旅は順調、早くも後半に入ってきました。嘉義に1泊をしましたがここでは特に観光はなく、宿泊しただけでしたが、”KANO”で有名なところに泊まった、という事で良しとしました。
台湾の一番暑い時期は5月〜9月、一番寒いのは1月〜2月、一番いい季節はやはり10月〜11月でこの頃はやはり観光客も多いようです。
私たちが行った4月後半というのはまだ暑い!という訳ではなく、ちょうどいい感じでした。

私は外国に行くと神経がピッっと敏感になります。理由はスリとか詐欺、それに交通事故などのいわゆる大袈裟に言うと治安・安全への警戒心からです。
こういうグループツアーは基本的にみんなで行動するので気が緩みがちですが、それでも団体行動中にスリに財布を抜かれたとかの被害は珍しくありません。

ところが台湾は私の体内の”安全警戒受信機”からの信号は常時”青”です。具体的な理由はいろいろある訳ですが、日本にいるのとあまり変わらない感覚になります。
これに対して、私が行ったアジアの全部の国は黄色、フィリピンなどは赤色になる事が多かった。

そんな訳で台湾は個人旅行で来てもいいだろうな、、、という気にさせてくれる外国、という印象の國です。

嘉義のホテルを出発です
嘉義ナイスプリンスホテル(耐斯王子大飯店)はなかなかいいホテルで、後で調べたらここは嘉義にある唯一の5★ホテルでした。
こういうホテルは個人で予約するより旅行会社のグループツアーで泊まる方が絶対お値打ちです。

ツアーでに必要な全ての費用を概算で合計すると、旅行会社に払い込んだ費用よりもずっと高くなります。
やはり旅行会社の力というのは大きいのですね。

カウンターには日本語を話すスタッフがいるようでした。

日月潭に向かいます
この日は台湾八景のひとつである日月潭(にちげつたん)に行き、そこから台北に向かうというスケジュールです。日月潭までは嘉義からバスで1時間ちょっとで行けます。

”潭(たん)”というのは見慣れない漢字ですが、「深く水をたたえたところ」、という意味です。
地図を見ると一つの湖がその入り組んだ形から”月潭”と”日潭”という2つの呼称で分かれており、これをまとめて日月潭と呼んでいるようです。

日月潭は濁水渓を使った水力発電所のダムの水も受けている、大きな湖です。

日月潭:文武廊(1)
1938年(昭和13年)に日月潭のダム工事で水没する村の竜鳳宮と益化堂を現在の位置に移転して文武廊としたそうで、1969年(昭和44年)に再建されています。

”文の孔子”と”武の関羽・岳飛”が祀られているところから”文武廊”となっているそうです。

ここは日月潭のハイライトスポットで多くの人が訪れていましたが、ざわついた雰囲気もなく、ゆっくりと見学する事ができました。
頭門をくぐると階段の手前に巨大な獅子の像があります。

日月潭:文武廊(2)
この付近は1999年9月の台湾大地震では、震源地から10kmちょっとしか離れていないため大きな被害を受け、その後再建が進み以前と同じ状態に戻ったそうです。

廊は前殿、中殿、後殿の3つがありそれらをくぐって奥に入っていきます。

これは中殿(武廊)に上がる階段で左右の階段の間に立派な九頭の龍の彫刻なあります。見事でした。
ここは獅子とこの龍の彫り物が目玉です。

日月潭:文武廊(3)
階段を降りたところにトイレがありましたので、小用を借りました。
漢字と英語で注意書きがありました。

英語の方はまあ普通に書いてあるわけですが、漢字の方は中国語が全くわからない私でも、「ナルホド、、、」、と意味がわかるのでした。

「一歩前進、君のはそんなに長くはない。」、これ日本のどこかの会社のトイレに貼ってあった標語(?)でしたが、この時は私も思わず一歩前に出ちゃいました。

日月潭:文武廊(4)
前殿から日月端を眺めたところです。なかなかの絶景です。ここは台湾の中でも新婚旅行で訪れる人が多く、こうやって眺めているとロマンチックな感じもします。
秋の紅葉のシーズンなんかは最高だと思います。

ここは同事に自殺の場所としても有名でやはり神秘的な何かを感じさせるところなのかも知れません。

日月潭の湖畔にはいくつもの観光スポットがあるのですが、私たちのコースでは文武廊のみの見学でした。
巨大な獅子は何となくユーモラスでした。

日月潭:文武廊(5)
この”日月潭”と彫られた碑は写真撮影の一番のスポットとか言われたので、撮ってもらいました。

しかし一つの廊に複数のお祀りがされているというのは日本人の感覚からするとちょっとピンと来ないのですが、台湾ではありなのですね。

ここは台北からもバスが出ており、4時間で来る事ができるそうです。現役の頃、台北への出張者が、「日月潭へ行ってきた」、とか言ってましたが、きっとバスで来たのでしょうね。

左営蓮池潭(3)
湖畔のホテルとかが立ち並ぶ奥のレストランで昼食を摂りました。
広いレストランには2組ほどの客しかいませんでしたが、大変眺めのいいところでした。

グループツアーで出される食事は予めメニューが決まっており、旅行会社が日本人の口に合うものを選んである訳で、私の場合敢えて言うならもう少し辛い味付けがいいのですが、どれもおいしく頂きました。

お茶セミナー
台湾と言えば、”お茶”、これしかない!とかいう人もいるくらいです。
様々な種類があり、不発酵の緑茶と全発酵の紅茶の中間のウーロン茶が有名で、飲みやすいと思います。

グループツアーでは必ず1回はお茶のお店に連れて行かれ、セミナーを受けます。
でも買いません。何年か前に来たときに買ったお茶がまだ冷蔵庫の中に残っていますので。
台湾茶は名前を覚えやすい”東方美人”、これはおいしいと思います。

台北到着:夕食
昼食の後バスに揺られて4時間、お茶セミナーを聞いて夕食レストランへ。
台湾ビール、これは日本統治時代に日本人によって設立された「高砂麦酒株式会社」、というのが前身だそうです。

いろいろな種類があるそうで、私は朝を除く毎食”金牌”というのを飲んでいましたが、この日は賞味期限18日の”生”を頂きました。
台湾ビールはさっぱりとして、台湾料理に合うと思いました。アルコール度は5%なので1本で酔っ払うことはありません。

台北のホテル
台北は2泊で、”シェラトン・グランド・タイペイ”というホテルで大変快適でした。
立地条件も良く、個人旅行で来る事があればここに泊まってもいいな、と思いました。

グループツアーなので受付の様子とかはわかりませんが、とにかく清潔なホテルでした。

今回の旅行で泊まったホテルはいずれも文句なしで、旅行会社には◎をあげたいと思いました。

野柳(イエリョウ)へ
この日は朝から台北近郊の観光です。先ず野柳(イエリョウ)というところに向かいます。
ホテルからバスに乗って台北の待ちの中を通り抜けて行きます。やたらと”補習班”というのが目立ちます。これは日本で言うところの学習塾です。

台湾の学期はアメリカと同じで9月が新学期になり、その前の2ヶ月弱が夏休みです。
塾もいいところは早く申し込んでおかないと入れなくなるそうです
話を聞くと一般的に中学生・高校生は日本よりも勉強している感じです。

土産物屋
野柳に着いたところの駐車場横の土産物屋だと思うのですが、よく思い出せません。
写真を撮ってあるという事は何か印象に残ったからだと思うのですが、、、。
後で、「これ何だっけ?」、最近こういうのが多くなりました。

果物とか、お弁当のようなもの、その他いろいろ売っていたのは記憶にあります。
日本も昔はこういう雰囲気の店があったように記憶していますが最近は見なくなりました。、

野柳地質公園(1)
野柳地質公園は台北の北東25kmくらいのところの”野柳岬”というところにある奇景です。
台湾の中でもかつてはあまり知名度は高くなく、最近有名になって多くの人が訪れるようになったそうです。

この日は火曜日で平日だったのですが、次々とバスが到着していました。
ここには台北からの路線バス(15分おきに出ているそうです)、それに他の観光地とセットになったツアー・バスもあり、これが人気だそうです。

野柳地質公園(2)
入り口を入って道路をずっと歩いて行きます。
途中に姉妹公園、友好公園という事で日本各地の公園と大陸・福建省地質公園の紹介がされていました。

日本の紹介では山口県・美祢市の秋吉台、京都・兵庫・鳥取県の山陰海岸の地質公園、静岡県の伊豆半島地質公園などがありました。

この日は火曜日という平日で、さすがに小学生とか中高生の姿は見掛けませんでしたが、若い男女の観光客が結構多いと感じました。

野柳地質公園(3)
ナルホド、奇景です。
これは岩が海水の浸食と風化によって削られてこういう形になった訳で、非常に脆い性質の岩なので浸食・風化のスピードはものすごく早いのではないかと思います。
10年もすれば景観はかなり変わるという感じです。

キノコのように見える奇岩なども触らないように注意書きがありました。
ここは岬ですがこの日の海は実に穏やかで、太平洋の持つ荒々しさを全く感じませんでした。
この方向約200kmは沖縄・石垣島です。

野柳地質公園(4)
岬の左方向の陸地は金山、陽明山で陽明山は温泉で有名だそうです。
いずれも台北からバスで1時間以内で行けるところで、次の台湾旅行では是非この辺りを訪れたいものです。

ここで有名なのは女王様の頭の格好をしたその名も”女王頭”(クイーンズヘッド)というのがあって、写真を撮ったつもりですがナゼか残っていません。
この女王様も浸食が進んでおり、あと5年で首が折れるという話でした。

野柳地質公園(5)
日によっては太平洋の荒波をモロに受けるところなので見学は非常に大変、と言うかびしょ濡れになる可能性があるところです。

それと足下が結構危ないところもあるのですが、注意書きなどは最低限で立ち入り禁止線も目立たないようにそっと引いてあります。(写真の赤い線)

日本のこういう場所は注意書きの看板だらけのところが多く、”自己責任”という考え方は日本では禁句という妙な事になっています。
台湾は普通の国です。

野柳地質公園(6)
観光客の中からは結構な韓国語が飛び交っていました。
以前上海に行った時に中国人のガイドが、「ここには日本人も韓国人もよく来ますが、韓国人は遠くからでもわかるね。韓国人、どこにでもしゃがむ、ありますね、それにオバサンの女の人、パーマ多いね、、、。」

ナルホド、でも最近は日本人もどこにでもしゃがむのが多いですね、コンビニの前などでは高校生あたりが集団でしゃがんだり、中にはべたっと座っているのもいる。
段々と日本も韓国化してるのかな、、、。

十分(1)
昼食は海鮮の台湾料理を頂き、再びバスに揺られて小1時間、着いたところは山間の小さな町、十分(シーフェン)。
ここは最近人気の観光スポットという事で多くの観光客がいます。

街の中心街は”十分老街”という商店街で、街のど真ん中を現役の線路が走っています。
聞くと電車は1時間に1本くらいの割合で、それ以外は線路をまたいだり、有名なランタン飛ばしをやったり、つまり多目的利用をしているのです。
さすがに線路上にモノは置いてありませんでしたが。

十分(2)
ここに来てらランタン飛ばしをやらない人はいないと思います。ランタン飛ばしはこれをやる事によってご先祖様の加護を祈る台湾の伝統的行事に由来しています。

ランタン屋さんは一杯あって、私たちもある一軒の店に入りランタンを準備してももらい、自分の願いをランタンに書いて飛ばしました。見事にスーッと上がっていきます。
どこまで上がっていくのか、しばらくすると横風でランタンは見えなくなりました。

赤いランタンが大空に上っていくのはなかなか感動的でした。

十分(3)
”Having a lot of money for house for my parents."

ナルホド、自分達ではなく親の家を建ててやりたいのでお金が欲しい、、、感心ですね。
でも”our”じゃなくて”my”になっているのがちょっと気になりますね。

多分シンガポールかフィリピン辺りから来た家族だと思いますが、フィリピンだと子どもがこういう頭をしていて、少し太っているのはお金持ちの子です。

十分(4)
記憶?UP、耳性UP,成績UP,學以致用、とありますので多分学生でしょうか。
その横の面は”??$$”とか書いてあるので、お金のお願いをしているのですかね。

これは台湾人ですね。ランタンの文字を見ているとやはり地元台湾の人が多いようです。

しかしランタンは毎日何個くらい空に上げられるのでしょうか。200個として年間約7万個、ランタンは竹と紙でできているので自然破壊にはなりませんが、,,余計な心配しちゃいました。

十分(5)
ランタンはお願い事の内容によって色が違うそうで、欲張っていろんな事を一遍に書きたい人用に、4面に違う色を組み合わせたものもありました。

街の端には渓谷に掛かっている吊り橋があり、この近くには”十分瀑布”という大きな見応えのある滝があるそうですが今回は行くことができませんでした。

吊り橋の付近にいいた若者グループにどこから来たのか聞いたら、香港からという返事が返ってきました。

十分(6)
台湾の観光地ではこういう日本語で書かれた土産物屋とか食べ物屋をよく見掛けます。
それだけ日本人観光客が多かった、という事でしょう。

ここで敢えて”多かった”という過去形にしたのは、私が見た限りでは日本人と思われる観光客はあまり見掛けなかったからです。

ここ10年くらいは外国からの観光客としては中国人が圧倒的に多く、それに韓国人です。これは日本の外国人観光客と同じ傾向ですね。

台湾にとってかつては外国からの観光客と言えば日本から、という事だったので、こういう日本語のお店はその名残なのかも知れません。

それとたまに会う日本人観光客は明らかに年配者(多くは退職者?)が多く、中国人・韓国人・その他アジアからの観光客は割と若い人が多い、という感じでした。

日本人の若者は外に出なくなったのか? というより日本にはもう若者がうんと少なくなったからですかね。

九フン(1)
初めて台湾に観光旅行で来てここに来ない人はいない、というくらいに定番の観光地です。
以前に台湾に来た時も訪れましたが今回は”阿妹茶酒館”の下にある駐車場にバスが入ったので、ここから上がって入りました。

九フンは1800年代後半から金の採掘が始められたところで、その後の日本統治時代に藤田組によってその最盛期を迎えたというのは有名な話です。

従ってその時代の建物などが多く残っており、何となく日本の香りが漂うところでもあります。

九フン(2)
九フンの金山は1971年に閉山され、その後は寂れた街になっていたのですが1989年に”非情城市”という映画でここが描かれ、それから台湾の人に注目され、観光地になったというところです。

この映画は台湾の日本統治が終わって国民党が台北に遷都するするまでの台湾社会を描いたもので、その時に起きた228事件というのは今でも台湾でこれをおおっぴらに語る事はあまりないそうです。
228事件とはズバリ白色テロで、虐殺された本省人は約3万人います。(一説には10万人)

私はこの映画を観たことがありませんが、日本人で228事件にいついて知る人は殆どいないと思います。
事件の後、李登輝は地下に潜伏、直木賞作家の邱永漢は日本に脱出して生き延びたのでした。

その台湾、今は中国共産党に占領・狙われている訳で、親日国台湾の歴史と今の事情を、我々日本人はもっと知ってもいいのではないかと思います。

以前に来た時は見えなかったのですが基山街の端から海がきれいに見えました。

九フン(3)
九フンは狭い通りの左右に飲食店・土産物屋が並んでいる基山街が中心になります。
ここはB級グルメ満載、イートインもできる店もあり、人気集中です。

ここは煙一杯の液体燃料注入を誘う夜市とは違う、スイーツのお店が多いので私にはイマイチです。

でもあの台湾ぜんざい、特に冷たいのはおいしそうです。食べてみたいと思うのですが、まだ口にしていません。

九フン(4)
基山街の終わりに近いところの十字路を更に階段を上がると突き当たりに学校がありました。
九フン國民小學、となっていました。

ここは正門なのか、裏門なのかわかりませんが階段に腰を掛けて景色を眺めるには丁度いいところです。

時間は既に夕方5時を過ぎており、生徒の姿は見えません。
建物は一体いつ頃に建てられたのでしょうか。
門・門扉も凝った感じで、ひょっとしたら日本統治時代のものかも知れません。

九フン(5)
学校の階段をまっすぐに降りていくと九フンを代表する”阿妹茶酒館”があるわけですが、更にその下は広場になっており、夕暮れの赤提灯は何とも言えずキレイです。

この広場はかつては九フンで最も賑やかなところで、広場横には横には”昇平座”という劇場があり、当時流行のバロック形式の建物です。

建設は昭和九年(西元1934年)となっています。台湾では日本統治時代の年号は和暦が優先されて書かれ、()で西暦が書かれている場所がたくさんあります。

シェラトン・グランド・タイペイ
広場横の結構雰囲気のいいレストランで夕食を頂き、その後ホテルに帰ってきました。
ホテルは吹き抜けの周囲を部屋が囲む、アメリカではよくある形式です。
エンバシースーツ系にこのスタイルは亜多かったように記憶しています。

吹き抜けの一階はレストラン、ロビー、その他になっており、朝食はこのレストランで頂きました。
タイペイでは旧ホテルニッコーにも泊まりましたが、ここもお勧めのホテルだと思います。

帰国の朝
いつもの事ながらこういう旅の時間の過ぎるのは早いものです。特に4泊5日というツアーはあっという間です。
3日目頃から最初は少し緊張気味だったメンバーもお互いに打ち解けて和気あいあいになります
今回は割と旅慣れている方が多かったように思いました。

今回のツアーでは添乗員がガイドのマイクを取り上げて勝手にしゃべり出す、みたいな事が頻繁あり違和感を感じた以外は特に問題もなくスムーズでした。

ホテルのロビーは大変広く、いい感じでした。

故宮博物院(1)
最後の日の午前中は故宮博物院に行きました。バスは官庁街を通って博物館の駐車場へ。

到着したときは見学者はそれ程多くはなかったのですが、あっという間にごらんのとおり。

館内案内の図を見てもよくわかりませんのでとりあえず行き当たりばったりで見学をする事にしました。

私は中国の美術品に関する知識は殆どありませんが、水墨画とかには少し興味があるので、そこを重点的に見学をしました。

故宮博物院(2)
先ず陶磁器の作品、いずれも14世紀〜17世紀のもので中国で言うところの”明清”時代。
多色のものと単色のものがあり、形はいずれも大変に洗練されている、というか泥臭さが全くありません。

いずれも陶器なのか磁器なのか説明にはありませんし、見ただけではなかなかわかりにくいのですが、肉薄のものは磁器だと思います。

陶磁器は明時代に大きく発展し、当時の日本にもかなりの数が輸出されたようです。

故宮博物院(3)
こういう中国の水墨画を見ると、日本がこういうものにいかに影響を受けていたのか、一目瞭然です。
私が見た水墨画は清朝時代のものが多かったように思います。

水墨画の歴史は古く、殷時代からあったそうで、山水画の技法のひとつです。

西洋画との違いは背景を描かず、光源を一定にせず、対象を主観的に描く、というところにあります。
そういう説明を聞いたり読んだりするとナルホド、、、と納得です。

故宮博物院(4)
水墨画にはこのような超大物もあり、圧倒されます。書も多く展示されていましたが、漢字ではなくその前の象形文字(?)による碑文のようなものもやはり圧倒されました。

大した予備知識なしでこういう立派な博物館に来た私、”猫に小判、ブタに真珠”状態になってしまう自分に少々情けなくなってしまいました。

説明は英語で併記されているものの、普段使わないような単語が多く、スムーズに理解はできませんでした
ここはシカゴ美術館のように何回も通わなくてはダメですね、やはり。

故宮博物院(5)
故宮博物院の始まりは清朝の末裔”溥儀”を北京紫禁城から追い出した馮玉祥が1925年(大正15年)に清朝が持っていた美術品などを一般公開したのが始まりだそうです。

その後蒋介石は日本軍との戦乱に巻き込まれるのを防ぐために重要文物を上海、南京と移動させ、更に南京が日本軍に包囲されそうになったので四川省の3カ所に退避。

日本軍が大陸から退いた後の共産軍との内戦で不利になった蒋介石は多くの美術品を台湾・台北に避難させ、結果今の故宮美術院に収められている、という歴史です。

故宮博物院(6)
大陸に残った元々清朝が持っていた美術品などは未だに各地に分散されています。
国共内戦の中、蒋介石が台北に持ってきたものは約70万点で、(当初紫禁城にあったのが120万点)、全部ではありませんが逸品の殆どが含まれているそうです。

実際の展示品は8000点ほどで3〜6ヶ月ごとに超有名品の数百点を除き、4000点ほどが入れ替えされているので、何度行っても楽しめそうです。

土産物屋は一般品とその奥にある高級品売り場に分かれており、部屋に飾るような見栄えのするモノは奥の部屋に行くと買えます

帰りのチェックインカウンター
駆け足の故宮博物院の見学を終えて昼食を頂き、空港に向かいました。
チェックインを済ませ、現地ガイドの周さんに別れを告げて、ラウンジまで。
今までチャイナエーアーの桃園空港ラウンジは何度も使った事があり大満足だったのですが、JALのラウンジはイマイチでした。

約3時間のフライトで19:40にセントレア空港到着、自宅に帰ったのが22:30でした。
アクシデントもなく、大変スムーズな旅行でした。

台湾旅行は何と言っても手軽さが最大の特徴です。
面白いのは看板とか何もかも漢字で書いてあるので、それらが目に入ると頭が自然に文字を読もうとするのです。
が、殆ど読めません。

気が付くと段々と頭の中にストレスが溜まっているのがわかるのです。
そこで、「あ〜、ここは外国なんだ、、、」、と当たり前の事に気が付く、こんな感じでした。

台湾は特別なところ以外は治安も良く、食べものも口に合います。それに何と言っても親日的な雰囲気、これが何とも言えません。
この次は個人旅行でミドルステイでもしたいと考えています。