ベトナム駆け足の旅(2):2023/09/05〜2023/09/11 |
外国について、それぞれの国と人について、ボクらは多少なりの知識はあると思います。その知識は、実際にその国に行くことによって目で見て、接して、感じたりすればより具体的になります。 そういう事を経験して、日本とはどういう国なのか、日本人とは一体何なのか、こういった事を考えるのが実はボクの旅行の目的のひとつ、というか趣味のひとつなのです。 その国を知るには、やはりその国と人がどんな道を歩んできたか、これがポイントである、つまり歴史を知ること、ボクの持論です。 外国へのツアーの中身の大半は、その国の名所・旧跡の訪問で、これはその国の「歴史」を訪れている、と同義語です。今回のベトナムツアーも結局は、その中身の殆どは「ベトナムの歴史探訪」でした。 グループツアーはこれら歴史のスポットを実に効率よく回ってくれます。そしてその充実度は一緒に行ってくれるガイドによって大きく違ってきます。今回のツアーは北部・中部・南部で3人のガイドが入れ替わりました。ボクの過去の経験から3人とも○、又は◎でした。 これはかなりラッキーだったと言えます。 そんなベトナムの旅、後半のフエからサイゴン(ホーチミン)のスナップショットとボクの感想です。 |
お土産屋 | ||
ツアーによっては土産屋に毎日訪れる、というのもあるようですが、今回のツアーでは全部で2カ所、それぞれ40分程度でした。 いずれも店員の何人かは日本語がしゃべれ、店には日本人が好みそうな土産が並んでいます。 行くと結局は皆さん、何かしら買うのですね。ドライフルーツなどをどっさり買う人も何人かみえました。帰ったらみんなに配ってベトナムの話をするのでしょうね、きっと。 運転手と、補助員の2人も熱心にブレスレットなどを見ていました。1個で彼らの日当以上だと思います。 |
フエ(グエン朝王宮:2) | ||
ところがその半年後に日本は連合国に降伏、直ちにベトナムは地下に潜っていた社会主義勢力によって革命、13代目は退位させられ、グエン王朝は終わってしまった、、、。 フランスは一応戦勝国で、再度ベトナムを植民地化するために戻ってきたのですが、ベトナムは戦いでフランス軍を破って1953年に独立を勝ち取った、、、。 これらの中心人物が筋金入りの共産主義・革命家のホーチミン。従ってこの人はベトナム建国の父で、神様みたいなもの、いやそれ以上かも、この国では。 |
フエ(グエン朝王宮:3) | ||
王宮入り口の王宮門の前で、王宮衣装を着たべっぴんさんからカミさんが声を掛けられました。 「日本人ですか?」 「はいそうです。ところで、日本語が上手ですね。」 「私は日本の愛知県と三重県で6年間働いていました。」 「エーッ!私たちは三重県から。三重県のどこで?」 「鈴鹿市の介護施設です。」 「エーッ!!私たちは鈴鹿から来ました。」 ビックリなんてものじゃありませんでした。 |
フエ(グエン朝王宮:6) | ||
太平楼、皇帝が休憩や読書をするところだったそうです。 1919年〜1921年に建てられたと言いますから、それほど古い建物ではなさそうです。 この王宮はベトナム戦争の1968年1月の北ベトナム軍とベトコンによるテト攻勢で大きく破壊され、その後再建されたものが多くあります。 どれがオリジナルで、どれが再建なのかよくわからないのですが、この太平楼は2015年に再建されたとガイドのアンさんは言ってました。 |
フエ(グエン朝王宮:8) | ||
王宮内は大変広く、歩くだけでも大変です。また説明書きは英語が少なく、外国人にはちょっと辛いところです。 ここに皇帝がいたのは日本の江戸時代後期から明治、大正、昭和という時代です。 ここは皇帝の住まいで、あとは各種儀式のみが行われただけではないかと思います。 皇帝で実際の権力を握ったのは一代だけで、あとは貴族と官僚が実権を握っており、フランスの植民地になってからは当然、フランス植民地政府のロボットでした。 |
宮廷音楽で昼食(2) | ||
料理は”宮廷料理超簡易・超廉価バージョン”といったところでしょうが、ボクは食べ物ではあまり文句は言いません。ただ食器には少しだけこだわりがありますけど。 本格的な宮廷料理を頂くには、それなりのお金を出す必要がありそうです。 観光案内によるとフエには宮廷料理を食べさせるレストランが幾つもありました。 食事の前に皇帝、皇后の服を着ての写真撮影があったのですが、ナゼかううまく撮れてませんでした。ザンネン! |
ティエンムー寺(1) | ||
1601年に建てられた、フエで最も古い寺です。 ティエンとは「天」、ムーとは「姥」の意味だそうで、ある老婆の伝説がこの地にあり、それに由来して名付けた寺、という説明でした。 この八角形七層の塔は佛教の悟りを意味する「蓮」を象っており、塔の正式な名前はトウニャン(慈仁)塔と言います。高さは21m、1845年に建てられた、とありました。 ベトナム戦争当時(1963年)、アメリカ大使館の前で焼身自殺をした僧がおり、この人はティエンムー寺の僧で、当時の南ベトナム政府の佛教弾圧に抗議しての事でした。 その僧がサイゴンまで行った車(オースチン)が境内の車庫に展示されていたのにはビックリ。 僧の名前はティック・クアン・ドック、身体が燃え尽きるまで姿勢を崩さず、心臓だけが残り、それがこの寺には展示されているそうです。 今回は残念ながら、心臓は見ることはできませんでした。 この僧侶の焼身自殺は有名で、ボクはその写真を今でも良く覚えています。 |
アンさん、ありがとう | ||
ガイドのアンさんには2日間お世話になりました。日本語も問題なく、ボクの質問が一番多かったと思いますが、これにも丁寧に答えてくれました。 またベトナム中部に来る事があれば、その時はガイドをお願いできるように、名刺をもらっておきました。 運転手、同行した雑用係り(特に大した仕事はなさそうでしたが)も感じが良い人達でした。雑用係りにチップを渡したら、目を丸くしていたとカミさんが言っておりました。 ダナン、ホイアン、フエと中身の濃いツアーを十分に楽しむ事ができました。 |
ダナンからホーチミン(サイゴン)へ | ||
1時間40分の国内線ですが、軽食というか、少しお腹に入れるものが出ます。 ホーチミン到着後、夕食になるのでボクはビールと前菜のみを頂きました。 昔、ベルギーを拠点に近隣諸国を飛行機で飛び回った事があるのですが、フライト時間が1時間ちょっとなのにそこそこの食事が出ました。 飛行機が着陸態勢に入っているのに「コーヒー!」とか頼んでいる客がいたりして、斜めになっている機内で踏ん張ってたCA、可愛そうだったな〜。 |
見よ、あれがサイゴンの灯だ | ||
高度を落とした飛行機から見える夜のサイゴンは、やはり大都会です。サイゴンはこれで3回目で、エネルギッシュな街であるのは、ネオンを見ただけでわかるというものです。 ベトナムの首都はハノイですが、最大の都市はホーチミンです。ホーチミンは経済の中心都市でもあります。 背景はフランス植民地時代に資本が投下されたこと、ベトナム戦争当時はアメリカが資本を投下したこと、などで商業・経済基盤が発達したからです。 そんな訳でサイゴンを中心とする南部は、ベトナムのGDPの半分近くを占めるそうです。 |
ホテルニッコー・サイゴン | ||
以前に来たときと全く同じレイアウト、雰囲気です。 このホテルは大変快適で、ホテル内にいいレストランなどもあります。 ただサイゴンの中心から少し離れているので、出掛ける時はタクシーになります。 (無料のシャトルがあるそうですが。) ボクは現金の両替はホテルではやらない主義ですが、ここで両替やった方の話ではレートは悪くなかったそうです。 |
鉄の三角地帯・クチ(1) | ||
サイゴンから北西に70km、クチにあったベトナム戦争時の、地下壕を中心としたVC(ベトコン)の拠点です。 サイゴンに行ってここに行ってないと言うと、「エーッ!」となる、超有名観光名所です。 何を見せているかと言うと、VCがどんな風にベトナム戦争で戦ったかの紹介、とでも言っておきましょうか。 ボクはここは2回目ですが、1回目はの時は半日かけてじっくりと見学をしており、今回の1時間ちょっとの「ショートバージョン」、かなり無理を感じました。 |
鉄の三角地帯・クチ(6) | ||
展示されているブービートラップは回転機構を持つものが殆どです。 しかし実際は小型の地雷・爆発装置、例えばロープを張ってそれに足を引っかけると手榴弾のピンが抜ける、とかのトラップが多かった、という記録を見たことがあります。 こういう事からもここで見せているトラップは、見世物的要素が大きいと言えます。 見学に来た全員がこれを見るわけですが、どんな感想を持ったのでしょうね。 |
今日のランチ | ||
連日の昼夜のベトナム料理、やっぱり飽きてくると言うか「ウーン」となります。 美味しいのは間違いなく、日本人の口に合います。 ボクは50代くらいまでは日本食以外の連続は何でもOKでした。30代の時に、ヨーロッパで3ヶ月間日本食を食べなかった事もありました。 しかし、です。 そろそろ日本食が食べたいな〜、となる自分を発見。やっぱり年令を重ねるとこうなるのですかね〜、、、。 |
統一会堂:旧大統領官邸(1) | ||
誰かが統一教会とか言ってましたが、一文字違います。 1975年4月30日に、解放軍の戦車が鉄柵を突破してベトナム戦争終結の象徴的シーンとなったところです。 現在は国賓を迎える時、何かの会議などの時以外は一般見学に開放されています。 ここは一般企業でも、お金を出せばレセプション・会議に使えるそうで、日系企業で時々使うところがある、とガイドのヒューさんが言っておりました |
統一会堂:旧大統領官邸(4) | ||
ボクはグエン・バン・チュが2001年に亡命先のアメリカで死去した時、彼の下で副大統領であったグエン・カオ・キがテレビに出て、長いインタビューを受けていたのを思い出します。 グエン・カオ・キはカルフォルニア南部のリトル・サイゴンでビジネスマンとして大成功していたようでした。 統一会堂の庭にソ連製戦車T54が突入する写真は、一国が消滅する瞬間の写真として有名です。その戦車は裏庭に展示してありますが、今回は見れませんでした。 突入した場所は、今はきれいな芝生になっています。 |
出ました! |
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泣く子も黙る、そうです「丸亀うどん」です。 店の前はバイクで埋まってましたから、大繁盛しているのでしょうね、きっと。でも値段が気になります。 ボクはフィリピンではBGCに住んでいましたが、ここにもありました。肉うどんが200ペソ(当時で500円相当)で、普通の人は昼飯に60ペソ以上は出せないな〜、と言ってたので、食べれる人は限られていたと思います。 他に日本食レストランらしい看板をいくつか見ましたが、「なんちゃって日本食」を出す某国の連中がやっている可能性大ですね。 |
サイゴン・オペラハウス | ||
フランスの植民地時代にフランスが建てた劇場です。 開業は1900年で、1955年からはベトナム共和国(南ベトナム)の下院議場で南北統一の1975年まで使われ、その後再び劇場になったそうです。 ボクは中に入ったことはありません。 東南アジアはタイを除き、全てヨーロッパの植民地になって、その時代に白人が建てた建築物などが結局は観光の大きな対象です。中南米も同じでした。 ベトナムは植民地前の、ベトナム独自の遺跡などが割と多く残っている国だと感じました。 |
ホーチミン人民委員会庁舎 | ||
フランスの植民地時代の1908年に、行政庁舎として建てられたそうです。 これもサイゴンの一番の中心地にあります。 内部は公開されていませんが、写真撮影するには絶好の建物です。 サイゴンは東洋のパリ、と言われたそうですが、こうやってフランスが植民地時代に建てた建物を見ていると言い得て然り、という気になります。 正面には「我らの英雄ホーチミン」の象が立っています。 |
ドンコイ通り | ||
華僑・華人の経済力は、ベトナムでも他の東南アジアの国々と同じで大きな影響力があるようです。 それはともかく、サイゴンもあちこちを見て回ったののですが、日本人の姿を殆ど見ません。 これについてヒューさんは「以前はドンコイ通りも日本人が一杯でしたが、コロナで激減。3年たって韓国人、西欧人はかなり戻ってきましたが、日本人は戻ってきません。」 前はドンコイ通りも日本語の看板があったりしたのですが、今はどうなんですかね〜、、、。 |
タンソンニャット空港 | ||
正式にはホーチミン・タンソンニャット空港と言います。帰国のフライトはここからセントレアまで。 ベトナム航空の国際線ラウンジは幾つかあるようで、私たちが入ったラウンジにやはり日本人はいませんでした。 代わりに中華系と思われる、20代くらいの若い連中が結構いたのには驚きました。 ラウンジの飲み物、食べ物は貧弱でした。 ベトナムのツアーもあっという間に終わって、ナイトフライトで帰国となりました。 |
着陸1時間半前 | ||
朝食という事で、出てきたのがこれです。 まあ食べれなくはないのですが、ボクが今まで乗ったフライトの中での評価からいくと10点満点の3点、いや2点を差し上げたい。 今度ベトナムに行く時はベトナム航空は遠慮します。 セントレア到着は予定どおり、ラウンジで一服して高速艇で津まで。 津の港からはタクシーで自宅に着いたのは午前11時前でした。無事事故も何もなく帰れました。 |
ベトナム旅行、いろいろと見ることができ、また考える事も多かったです。ツアーメンバーは11名+ガイド1名、これが大型バス1台でしたので1人2席以上(?)、ゆったりでした。 飛行機での移動も時間が遅れることもなく、スムーズでした。 毎日の歩行は最低で1万3千歩くらい、最高1万8千歩以上でしたから、割と歩行の多い方のツアーだったと思います。メンバーは1名を除き、ボクらと同年代又はそれ以上、皆さん本当にお元気でした。 ああいう元気があるからこそ、ツアーに出掛けてくるのでしょう、なければ行けませんからね。 ボクの夢はサイゴンのサービス・アパートメントに長期滞在して、ここを拠点にあちこちブラブラ、、、元気なウチにやりたいですね。 それと以前と比べて日本人を見掛ける事は希でした。デフレ・円安で、既に日本人からは海外に出掛ける経済力が失われ、逆に海外からは「何でも安い日本」という事で、旅行者を受ける国になった、という事なんでしょうか。 いずれにしましても、とにかくいい旅でした。 |