MSCベリッシマのクルーズ10日間(2):2023/10/17〜10/26 |
クルーズの後半は釜山、鹿児島、高知、そして横浜帰港まで。 クルーズも5日目くらいからは船内の様子も大体わかり、レストランなどではちょっとした会話をする顔見知りもできたりして、「クルーズを愉しむ」、という感覚も自然と出て来ました。 寄港先の釜山、高知は私にとっては初めてのところで、天気にも恵まれそれなりに愉しめました。 ベリッシマは朝入港、夕方には割と早く出港するというスケジュールが殆どなので寄港先では結構忙しく、寄港地のメジャーなところを少しでも多く訪れたいという場合は、ガイド付きバス観光を申し込むのが良いと思いました。 |
釜山入港(2) | ||
今まで気が付かなかったのですが、入港すると先ず真っ先に車椅子の乗客を下船させるのですね。しばらく見ていましたが、15名以上みえたようでした。 乗船客は3700名、の90%は60代〜80代のシルバー・ジェネレーションなので、船内でも杖を使ってみえる方をちょくちょく見掛けました。 ベリッシマが接岸したのは巡視船も使っているバースで、釜山の巨大な港から少し離れたところにありました。 |
寄港地での観光チバス | ||
寄港地では何種類もの観光バスが準備されており、事前に申し込んでおくわけですが、乗船後も空きのあるコースについては案内があります。 クルーズは入港時間が短いのと、入出港時間が厳密に決められているため、初めてのところはこういう観光バスを使った方がいいと思います。 釜山でも無料の循環シャトルバスが運行されますので、これを使って自力で廻る、と言う方法も勿論あります。 |
甘川文化村(1) | ||
何とも独特の景観で、東洋の香りが全くしません。 ここは朝鮮戦争で北から避難してきた人たちが、山肌に建てたバラック群が始まりだそうです。 この独特の景観が芸術家達の目にとまり、2009年頃から町おこしの材料の一つになり、今のような観光地になった、という事でした。 このようなカラフルな屋根と壁は、その町おこしの目玉商品だった、とガイドは言っておりました。 |
甘川文化村(2) | ||
バスを降りて土産物屋などが並ぶ道を歩いて行きます。 バスの乗客は40人くらいで、ガイドは1人。バスの中はマイクを使うのでよかったのですが、バスを降りるとガイドの説明はよく聞き取れませんでした。 この日は日曜でもあり、韓国人の若い連中の観光客も多く、そこにバス数台分のベリッシマの乗船客が押し寄せたので、大変な人混みでした。 土産物は若者向きのアクセサリーが主体でした。 |
甘川文化村(4) | ||
着替えの様子を覗き見したのではありません。道路から見えるところの貸衣装屋の様子です。 一緒に来たと思われるカップルの相棒は、携帯いじくって興味なし、というのから、自分の彼女が変身していくのを見守っているのとか、様々だったのでシャッターを切った次第です。 韓国の伝統的なデザインを取り入れた衣装を着た女の子(たまに男も)を、あちこちで見掛けました。 |
甘川文化村(5) | ||
ちょっと喉が渇いたので道路並びの店に入り、ジュースを一杯頂きました。 最初、「Shaved ice」はあるかと聞いたら「?」、で通じなかったので、「Snow cone.」と再度聞いたらやはり「?」、通じませんでした。 甘川文化村の通りはゴミ箱がなく、かつトイレも少なく女性用は長蛇の列でした。 ガイドも「トイレは少ないですよ〜」とか言ってくれました。何せトイレが近い世代のグループですからね〜。 |
釜山の飲み屋街 | ||
チャガルチ市場から集合場所に向かう途中の路地、釜山には居酒屋、その他白粉の香りのする飲み屋などが無数にあるそうです。 時間があれば居酒屋にでも入ってみたかったのですが、余裕がなく、パス。 それと韓国は英語と同じくらい日本語が通じるそうで、片言でも英語が喋れれば、言葉の壁はそれほど高くはないという話でした。 もしそうだとすれば個人旅行でも、それ程心配ないという事になりますが、実際はどうなんてしょうかね〜。 |
釜山出航 | ||
バスは19:30頃に港に着き、港で出国審査をして乗船。ベッリシマは22:00に出港、釜山の港を離れました。 日本の船舶法は外国船による日本発着の旅客・貨物などの輸送を禁じています。 従ってベリッシマは横浜を出て、日本各地のみを廻って横浜に帰る、というクルーズはできないのです。 つまり航海中にどこか外国の港に寄る事によって、この法律に抵触しないようにしなければならないのです。 |
遅い夕食 | ||
釜山観光から帰って部屋に戻ったのが20:00ちょっと前、レストランのラストオーダーは20:30なので急いで入りました。 同時にレストランに飛び込んできたのが、観光バスで同じだったHさんご夫妻。せっかくだからという事で、4人で一緒に食事をする事にしました。 食事が終わる頃は、それまでいた2〜3組の夫婦もいなくなり、レストランは我々4人だけになってしまいました。その後、4人でラウンジに行き、話の続きをしました。 |
読書エリア | ||
ここは1500冊の本があるそうですが(そのようには見えませんでしたが)読みたい本がなかったので使いませんでした。横を通ると常時数人の方がいました。 私はこの界隈でお世話になったのは、奥にあるバーでワインを頂いたのみです。 図書室は飛鳥U、パシフィック・ビーナスなどのラグジュアリー船では一部屋を使ってしっかりと作られており、落ち着いて時間を過ごすにはうってつけの場所でした。 |
6Fエッジカクテルバー | ||
バーのソファーはいつ行っても満席状態でした。皆さんを見ていると飲み物はコーヒー、たまにビール、または飲み物なし、という方が殆どで、談話コーナーとしての利用者が多かったように見受けました。 バーで日本酒を頼む場合、「氷なし」とはっきり言わないと、ロックで出されます。 「日本酒とワインは親戚、ワインに氷入れて飲むのは完璧なマナー違反、田舎者であると言うではないか、これと同じ事やるんじゃない。」、と私は言いたいのであります。 |
仙厳園(3):御殿に入ります | ||
”御殿”とは島津の殿様とその家族が住んでいた建物で、殿様が客と会うための「謁見の間」など25余りの部屋が残っています。ここを見ると島津家の暮らしが伝わってくるような気がします。 建てられたのは江戸時代初期に(1658年)に島津家19代光久によってですが、その後拡張改修がされ、今残っているのは明治中期の頃のものだそうです。 築かれところです。 中には何名かの説明員がいて、見学者の質問にも丁寧に答えてくれます。 |
仙厳園(4):鳳印の間(玄関の間) | ||
30代島津忠重はここで生まれ、この部屋で12才まで過ごしました。 書架台とか文机があるところを見ると、忠重がここで勉強をした事がわかります。 床の間に甲冑が置いてあるので、後で調べたところ、ロシアのニコライ2世が訪れた際に島津忠重が身に付けていたもののレプリカだそうです。 左にある壺はニコライ2世にも献上された薩摩焼の壺です。 |
仙厳園(5):中庭 | ||
この日は多くの白人の観光客がここを訪れていました。どこから来たのか聞いてみたところ、オーストラリアからだという返事でした。 一昔前ではこういう地方都市の観光地に普通の外国人が来るというのはかなり限られていたと思うのですが、このように団体で訪れているのですね。 中庭を見る位置には腰掛けが置いてあり、ここに座って中庭を見ている夫婦も白人の観光客でした。 |
仙厳園(6):篤姫 | ||
NHKの大河ドラマで有名になった篤姫(天璋院)は島津一族の生まれで、島津本家の養女として徳川家定(第13代将軍)に嫁いだ人です。 大河ドラマは2008年放送で、私はこの時はアメリカにいた時で、”JAPAN TV”というケーブルテレビで毎週観ていました。17才で薩摩を出て江戸に行き、その後生涯一度も薩摩に帰ることがなかった、、、と言う部分が特に印象に残っています。 明治16(1883)年に47才で亡くなったというのを、今回初めて知りました。 |
仙厳園(7):庭と桜島 | ||
仙厳園の庭は日本庭園そのものです。しかし京都、その他で見る庭と全く違う点が、庭の先に広々としたスペースが広がっている点です。 そのスペースの先は錦江湾に繋がり、その先は桜島まで繋がっているのです。 つまり仙厳園の庭は御殿の前だけではなく錦江湾、そして桜島までを含んだ雄大な日本庭園なのです。 今回私は仙厳園とは、どこまでを仙厳園というのか、これに気が付いたのです。 |
仙厳園(9):雪隠と風呂 | ||
雪隠、つまり厠、今はトイレと言います。中に入ることができませんので、詳しくはわかりませんが、6畳程度もある大きな部屋でした。 風呂も簀の子がある洗い場と、いわゆる脱衣場を含めるとかなり広いスペースです。 当時の風呂は別な場所でお湯を沸かし、それを運んで湯船に入れるという方式でした。殿様の湯浴みには、多くの下男下女が必要でだったのは確かです。 |
仙厳園(10):大変広いところでした | ||
仙厳園ではベリッシマの乗客の見学者も多く、殆どの人が首からベリッシマのIDカードを下げたままなので、すぐにわかりました。 旦那さんが奥さんの手を引っ張っている人、その逆の人、やはり歳を重ねるとどちらかが、足腰が弱くなってしまう、、、仕方のない事ですね。 でもこうやってクルーズ船に乗って寄港先ではあちこち観光ができる、クルーズ船はいいですね。 年代としては半分以上は私より先輩の方々でした。 |
山形屋本店 | ||
鹿児島、宮崎に5店舗ある鹿児島の老舗デパートです。鹿児島の大繁華街の天文館エリアの中にあります。 鹿児島に来ると必ずここに寄っていましたが、今回は時間がなく外から眺めただけでした。 8年前に薩摩切り子を勝ったのはここでした。 鹿児島は冬は暖かく、住みやすそうなところです。食べ物は独特なところがあります。寿司屋で「酒」と注文したら「焼酎」が出て来た事がありました。 またそのうちブラッと来てみたいところです。 |
開聞岳に沈む夕日 | ||
16:00に鹿児島を出航、ベリッシマは今回のクルーズの最終寄港地、高知に向かいます。 16Fの右舷に出ると、開聞岳の向こうに正に今沈もうとする太陽が見えます。 雲もなく見事な日の入りでした。 その時上空には大型ヘリが1機低空飛行、見るとギアーを出しているので着陸態勢のようです。左舷後方には高隈山が見え、海上自衛隊の鹿屋基地はその近くです。 |
ナイト・チョコレート | ||
ちょっとしたホテルで配られるナイト・チョコレート、これは”ターンダウンサービス”時に置いていきます。 部屋の掃除は朝と夕方(ターンダウンサービス)の2回で、それぞれ部屋を出るときにスイッチをオンにしておけば素早くやってくれます。 廊下にバトラーか清掃係がいれば「清掃お願い」と声をかけておくこともあります。冷蔵庫の飲み物の補給もその時にやってくれます。 でも私は夜はチョコレートは食べなかったですね〜、、、。 |
高知入港 | ||
高知はカミさんは2回、ツアーで来たようですが、私は初めてです。高知というと板垣退助、山内容堂、武市半平太、坂本龍馬、岩崎彌太郎、等の明治維新に関係する人たち、それに皿鉢料理と日本酒、あとは、、、と言う程度の知識しかありません。 高知は個人的にはずっと昔、ある高知人に煮え湯を飲まされた事があって、それがトラウマで、どうも関心が持てなかった、というのが本音です。 ま、それはともかく天気もいいので下船上陸してみました。 |
高知城(1) | ||
循環シャトルバスで市内のど真ん中に出ます。 桂浜の坂本龍馬像も見たいな、と思っていたのですが、前々反対方向というかエライ遠い。バスもありませんでした。 ま、それはともかく城に向かってブラブラと歩きます。 追手門は城攻めに遭ったときに防御の第一線で、決して唯の門ではありません。 攻め手に対し弓矢・鉄砲で頭上攻撃を加えるための陣地として見なさい、とある先生から教えられましたので。 |
高知城(2) | ||
追手門の手前に板垣退助の銅像がありました。板垣の業績は大きくは3つ。 1.戊辰戦争: 土佐藩兵を率いて新政府側で戦い、大きな戦果を得て会津藩を降伏に追い込んだ。 2.自由民権運動推進: 国民の自由・権利を求め、政治参加の基盤を作った。 3.明治憲法制定: 立憲改進党の代表として、明治憲法の草案作成に多大な貢献をした。 自由民権運動に反対する元土佐藩士に襲われた岐阜事件で、「板垣死すとも自由は死せず」という言葉を発したのは有名です。 |
高知城(3) | ||
追手門を入って左に見える天守閣に向かいます。この坂道も城攻めに対する防御から考え抜かれて石垣と坂道が作られています。 石垣の上からは死角がなく、攻め上がってくる兵に対して攻撃が加えられるようになっています。これは彦根城が非常にわかりやすい作りになっていました。 城を作ったのは関ヶ原の戦いで武勲を挙げた山内一豊、妻の千代の内助の功は超有名な話ですね。 |
高知のお土産 | ||
はりまや橋に行く途中の小さな古道具屋、店先をふと見ると徳利が段ボールの中で何本も転がっています。 中に1本、買ってくれ!と語りかけているのがあります。私は焼き物には詳しくはありませんが、九谷焼きにこういう地味な色合い、模様があったような、、、。でもそんな事はどうでもいい。値段を聞くと300円、買っちゃいました。 店の奥さんが「どこから?」と聞くので「三重県です。」と答えたところ、奥さんは愛知県出身との事でした。 高知のお土産はこの徳利になりました。 |
高知出航 | ||
15:00、最後の寄港地の高知港を出港です。 出港時にはどこの港も大なり小なりのセレモニーをやってくれますが、高知では”よさこい”で見送りでした。 船室の16Fのデッキからよさこいを見せてもらったのですが、あまりにも高すぎて踊り手達が豆粒にしか見えません。 そうは言っても思い切り元気よく踊ってくれている様子は伝わってきました。 「ありがと〜〜!」 船は岸壁を離れ、増速していきます。 |
お世話になりました | ||
あっという間に9日間が過ぎてしまいました。明日は下船、最後に船内の主要なところを廻ってみました。 18Fの部屋を出て通路に出たところの正面がレストラン、螺旋階段の下が16Fのラウンジ、上に行くと19Fサンデッキ、朝食などが頂けるクリルバー。などよっとクラブ専用エリアです。 写真の背後は広々としたエレベータールーム、船内全部と通じています。 全て使い勝手のいいレイアウトだと思いました。 |
新幹線で名古屋まで | ||
下船は3時間くらいかかる事がある、とか言われていたのでそれを見越した時間で新幹線の予約をしましたが、実際は20分で全ての手続きが終わり、時間をもてあましてしまいました。 結局はダラダラと食事をしたり喫茶店でコーヒー飲んだりして14:00のこだまで名古屋まで。 相変わらず座席はガラガラ、名古屋に着く前にはとうとう車両には私たち2人だけになってしまいました。 自宅には18:00ちょっと過ぎに到着。クルーズは無事終える事ができました。 |
クルーズの後半は天気にも恵まれ、下船上陸も充実したものとなりました。 寄港地の観光はガイド付きの観光バスでグルグル回るのも過去に経験しましたが、今回は初めての釜山を除き、的を絞って欲張りせず、のんびりと自分たちで歩いて見学をするという方法をとり、これは正解でした。 今までのクルーズと比較してベリッシマの場合違う点がいくつもありました。 洗濯はコインランドリーがなく、自分でするかランドリーサービス(20点で30ドル、40点で50ドル)を利用する、のいずれかになります。 日本人は部屋の中に物干しの紐を張り巡らせて、洗濯物を乾したりする人が多いですが、日本以外に人は部屋に洗濯物は乾しません。船室はリビングと同じ扱いで、普通の家でもリビングに洗濯物を乾さないのと同じです。 洗濯を自分でやって乾かす場合は、洗面所かシャワールームというのが一般的な方法になります。 レストランとかその他のバトラーは日本船に比べると「気が利かない」になります。しかしはっきりと「して欲しいこと」を言えばやってくれます。そんな事言わなくてもわかるだろ?はダメです。 この辺も日本船と違うところだと思いました。 その他いろいろあるわけですが、これは別コラムでコメントしておきたいと思います。。 |