ヨーロッパ(オランダ編):2025/04/20〜04/27
ボクが初めて海外出張に行ったのは、今から遙か40年以上前のヨーロッパでした。
この時はベルギー・ブラッセル郊外のホテルに4ヶ月弱滞在、北はノルウエー、南はスイス、東はドイツ、西はフランス、合計10カ国を上司・先輩の小間使い・雑用係で車と飛行機で飛び回りました。

そのベルギー、いつかは再訪してみたいと思っていましたがなかなか機会を作ることができず、今回やっと適当なツアーを見つける事ができ、再訪が実現しました。
ツアーはオランダ、ベルギー2カ国を実質6日間という短期間ではありましたが、中身は無駄なく大変充実しており、十分に満足のいく旅をする事ができました。

前半のオランダ、旅の様子を写真と簡単な感想でまとめてみました。

成田”東横イン”の朝食風景
いきなりステーキ、もとい、”いきなり朝食”です。
今回の旅行の出発空港は成田、朝が早かったので前日にセントレアから成田に行き、1泊しました。

東横インは現役時代に出張でお世話になったホテルです。
成田の東横インは部屋も広く、清潔で問題はありませんが、ごらんのとおり、アジア人(半分くらい中国人?)で溢れており、無法地帯と化しておりました。

イヤ〜、すざましかったですね、席の取り合いが。皆さんパンなどはせっせとカバンに詰めておりましたよ。

成田NO1ターミナル
今回のフライトはKMLでアムステルダムまで直行、成田ではNO1ターミナルです。

ボクはアメリカ駐在中に日本往復だけでも50往復くらいしていますが、JALだったのでNO2ターミナルでした。
いつだったか今はなきNWに乗った時、NO1ターミナルを使った事があります。

空港の一番隅っこで、宅急便で送ったスーツケースと、旅行会社が手配してくれたヨーロッパで使えるWIFIも受け取りました。
出国手続きは自動ですが、係にスタンプをもらいました。

KLMラウンジ
出国手続きの後、ラウンジへ。
ここはバングラディッシュ航空、ベトナム航空、ブルネイ航空、中国南方航空他数社の共同ラウンジです

中は結構広いく、ガラガラ状態でした。
今回のツアーは14名で、他にもう一組Cクラスの方がいたのですが、見当たらず。

出発は12:35分で、直ぐに食事が提供されるので、ここではワインを一杯とほんの少しおつまみを頂くだけにしました。

アムステルダムまで
KLMに乗るのはヨーロッパ内フライトでは何度かありますが、日本から乗るのは初めてです。

アムステルダム・スキポール空港まで北国経由で、14時間半近くの長時間フライトです。
14時間を越えるフライトは、冬のシカゴから成田で数回経験があり久しぶり(?)でした。

食事をしてワイン飲んだり、映画を見たりしているうちに横になり、目が覚めたら6時間以上寝ていました。
到着前にスマホのSIMを入れ替えます。

アムステルダム・スキポール空港
トランジットで来た事はあるのですが、降りるのは初めてです。大きくてきれいな空港です。
入国審査は顔も見ないで、パスポートをスキャンしてスタンプ押しておしまい。アメリカの一部の空港のように、グチャグチャ質問はなしです。

14名のメンバーと添乗員のIさんは現地誘導ガイドに連れられてバスに。
バスの運転手が全員のスーツケースをあっという間にトランクに放り込み、ホテルに向かいます。

アムステルダム郊外ホテル
ホテルは、初日はこんなものかな、という感じ。質素ではありましたが、十分清潔でした。

海外のツアーでは特別な企画以外の場合、最初の1泊とか2泊はそこそこレベルのホテルで、移動する度に少しずつランクアップをしてゆく、というのが普通です。
これがツアー客を満足させる”コツ”だそうです。

ホテル近くにスーパーがあり、早速何人かの方がそこにお買い物に言っておりました。
私のカミさんも何かを買ってきたようでした。

キューケンホフ公園(1)
07:45現地ガイドのKさんと共に、オランダ観光の定番中の定番、別名チューリップ公園と呼ばれる”キューケンホフ公園”へ。

ホテルからバスで1時間弱で到着。残念ながらの小雨模様です。大きな入場門から中に入ります。
添乗員のIさん曰く、「今はこんなに人が少ないですが、みるみる一杯になりますよ、、、」
ここは集合場所を決めて自由見学です。

入った瞬間、おっと!チューリップだらけ!

キューケンホフ公園(2)
日本の、端から端まで歩いて1分という規模の公園とは訳が違います。

東京ドーム8個分、ウーン、ピンときません。
30haとガイドさんが言ってましたので、1kmX0.3km?0.8kmX0.4km?というサイズになりますね。

これが全部きれいに手入れされた公園で、しかもチューリップが植えられているのです。
チューリップは700万球(本とは言わないらしい)くらいで、これが公園中に花を咲かせています。

キューケンホフ公園(3)
ここは3月中旬から5月中旬まで開園し、この間に世界中から120万人以上の人が訪れるそうです。

これ以外の期間は一般客は入園できません。
私たちが入園した日は4月21日なので丁度ど真ん中、一番見頃だった訳で、確かにきれいでした。

写真を撮ってもらった若い夫婦はアメリカのCAから、川のところで会った同年配の夫婦はドイツからと言ってました。
ただ残念だったのは天気で小雨模様、晴れていればどんなに栄えた事か。

キューケンホフ公園(4)
一般的にキューケンホフをグルッと見るには最低3時間は必要と言われており、ツアーでは2時間半の自由行動で、ボクは全体の半分を見たくらいでした。

500種類以上のチューリップが植えられているそうで、確かに今まで見たことのない変わった種類、色のものを数多く目にしました。

”Keukenhof, unique and unforgettable”、もらったパンフレットにはこう書かれており、これは全くそのとおりだと思いました。

チューリップ農園(1)
ツアー期間限定のチューリップ農場見学です。
農場は会社組織になっており、経営者である女性(CEOと呼ぶべきか)が説明をしてくれました。

広さは200ha、つまり400mX500mの広大な農地にチューリップを栽培、ヨーロッパ各国、日本にもたくさん輸出しているそうです。
200haは200町(2000反)、6万坪です。

農繁期には東欧から200人の出稼ぎ労働者を雇う、と言っておりました。畑の土質は目メが細かく、水はけの良さそうな独特の感じがしました。

チューリップ農園(2)
ボクCEO幾つかの質問をしてみました。

Q:輸出はどうやってやるのか
A:BULB(球根)で送ります。花ではありません。
Q:ところで球根は食えるか?食ったことあるか?
A:戦時中は食べました。球根は毒があるので、毒を処理する必要があり、、、(その後の英語は聞き取れず)
パイにして食べましたが、おいしくありませんでした。

最初毒という言葉がわからず、ボクが??の顔をしたら”poison"と言ってくれました。

アムステルダム国立美術館(1)
1800年に設立され、1885年に現在の場所に移転した、とありました。

午前中はキューケンホフ公園でチューリップを堪能、続いてチューリップ農園を見学したあと昼食、そしてバスで1時間、ここにやってきました。

キューケンホフ公園を出る時は駐車場はバスで一杯、見学者で溢れていましたが、美術館周辺も人で一杯。
このシーズン、オランダではチューリップを見に来た観光客が「じゃ、美術館でも、、、」という感じで来るようです。

アムステルダム国立美術館(2)
オランダは比較的治安の良い国だそうですが、中近東系の移民なのか、私の記憶にある昔のオランダに比べると、肌の色の濃い連中が格段に増えたと感じました。

添乗員も現地ガイドも「スリに気を付けるように」と盛んに注意喚起をしてくれましたが、今回の旅行では被害者はありませんでした。

博物館付近は来訪者を狙うスリなどが多いので、要注意と言われました。但し博物館の中は監視システムが充実しているので、比較的安心できる場所と聞いています。

アムステルダム国立美術館(3)
入った瞬間、レンブラントの「夜警」、これは2019年から修復作業が開始されており、作業はこのようにガラスで仕切った中で行われ、公開されています。

この作品は過去にも何度か修復されており、その影響とか絵の具の劣化とか、AI技術を使ってやられているそうです。
また16世紀に、市庁舎へ移管されたされた時に切り取られた部分の再現も、AIを使ってやるそうです。

ところで修復はいつ終わるのか?発表はされていません。作品はこうやって見れるので、ま、ゆっくりやって下さい。

アムステルダム国立美術館(4)
ここは80の展示室で8000点の絵画・美術品が展示されており、95万点の所蔵品があるそうです。

作品鑑賞にはそれぞれベストポジションがある訳ですが、これを占有するためにはかなりの待ち時間が必要で、限られた見学時間の中ではなかな難しい事になります。

日本ではほぼ100%禁止されている写真撮影も、フラッシュなどを使わなければOKです。
かつては欧米人はこういうところで写真撮影する人は皆無でしたが、今はみんなスマホで撮りまくっています。

アムステルダム国立美術館(5)
フェルメールの名前は多くの日本人が知っており、フランスの画家、と記憶している人が多いようですが17世紀(日本で言えば江戸時代初期)のオランダの画家です。

「手紙を読む女」をボクが最初見て「?」と思ったのは、当時のオランダ女性の識字率は20%以下であり、さてこのモデルは誰か?という事でした。
モデルはしかるべき階層の女性、服装とか部屋の調度品などからそれが読めます。

「牛乳を注ぐ女」は、様々な評があります。

アムステルダム国立美術館(6)
ボクは絵画に少し興味があるのですが、今回”ファン・デル・ヘルトス”と言う画家を知りました。

レンブラントとほぼ同時期の画家で、彼のような暗い雰囲気ではない明るい感じで、レンブラントの人気を奪った、とあります。

しかしボクはレンブラントの、あの暗い中の光が好きです。

ここにはオランダとアジアの繋がりを示す、”アジア館”というのがあるそうですが、行く事はできませんでした。

アムステルダム国立美術館(7)
ゴッホもオランダ生まれで、画家としての活躍はフランスなので、フランス人と思っている人が多いようです。

展示されていた自画像は1887年とあり、彼の34才の顔という事になります。37才で拳銃自殺しており、いわゆる精神病を患っていた画家です。
ボクは2005年頃、シカゴ美術館で大々的な「ゴッホ展」を見た記憶がありますが、大変な人気でした。

アムステルダム国立美術館、じっくり見るには最低半日は必要な感じでした。

アムステルダム運河クルーズ(1)
これも定番の観光コースで、ボクも初めての経験です。
観光ボートはツアー貸し切りで、エンジンの音も殆ど聞こえずゆくりと静かに航行します。

運河が作られたのは16世紀から17世紀、そもそも何で作られたのか、これの説明がなかったので調べてみました。

まずアムステルダムは湿地帯にあるので、水を管理して都市開発をする必要があった、それで運河を掘って水を通し、土地を確保した、これが一番の理由だそうです。

アムステルダム運河クルーズ(2)
オランダの黄金時代(18世紀)にアムステルダムは貿易の中心地であり、交通と物流の効率化のために運河が必要だった、という事らしいです。

運河の深さは2〜3m程度で、この深さを保てるように排水管理と水門管理が行われ、排水管理は例の有名な風車が使われていた、とあります。

風車はここにはありませんが、水門は確かに幾つかを遠くに見ました。
オランダは国土の4分の1が海面下にあるそうです。

アムステルダム運河クルーズ(3)
ハウスボートはかつては低所得者層の住居だった、というのは大体が万国共通ですよね。

しかし今のオランダでは、高級住宅としての位置付けだそうで、1隻(軒)最低5千万円相当、中には1億円相当以上のハウスボートもあるそうです。
確かに窓からチラチラと見えるインテリアは、なかなかのものでした。

何年かごとの点検メンテナンス、運河使用料などの税金もあり、やっぱりお金持ちでないと住めないようです。

アムステルダム運河クルーズ(4)
様々な建物の間を流れる運河をゆっくりと進み、左右の建物などを見学する運河クルーズ、いいものでした。

ボートの船頭は白人女性(年の頃40才前後の大女)でしたが、久しぶりに見た白人独特の蔑視的目つき。
ボクは下船の時に「ありがとう」を言ったのですが、目をそらして顔も少し横向き。

皆さんが鈍感なのか、ボクが敏感なんのかよくわかりませんが、オランダには日本に恨みを持っている人が結構いる、というのは理由と共に知っておくべきでしょう。

バスでの移動
今回のツアーで一番長かった移動は2時間、というのが1回、あとは全て1時間程度以内でした。

大型バス1台に、14名のツアー客+添乗員+現地ガイドの16名が乗車ですから、ゆったり。
ボクは殆ど一番後の隻に座っていました。

オランダの高速道路は時間帯で制限速度が違い、日中(06:00〜19:00)は100kmhですが、どう見ても120kmhくらいで流れています。
ドイツみたいに”速度制限なし”の区間はないそうです。

ハーグ・国際司法裁判所
国連機関のひとつで、現皇太后の父上が2009年〜2012年まで所長(裁判長)を務められました。

ガイドさんは小和田氏の話、また雅子皇后陛下が皇太子妃時代に当地に長期滞在をされた件は、オランダ皇室が大いに係わっていた、などについて話がありました。

ところで国際司法裁判所って何をするところなの?
国家観紛争等に対して判決を出すが、その執行はそれぞれ当事者の任意の意思によって行う、、、だそうです。

ハーグ・マウリッツハイス美術館(1)
国際司法裁判所から歩いて美術館に到着。

ここは一般入場より早く入館できる手続き、というか割り増しの見学料が払ってあり、従って入館した時は誰もいませんでした。
入り口では看板娘のフェルメール”真珠の耳飾りの少女”が出迎えてくれました。

正式名称は”マウリッツハイス王立美術館”で建物は17世紀に建てられ、美術館としての開館は1822年、外観は小ぶりの美術館です。

ハーグ・マウリッツハイス美術館(2)
入館すると何人かの美術館スタッフが出迎えてくれます。やはりエキストラの入館料のせいか?などと勘ぐったりしてしまうのはボクの悪いクセ。

ここのコレクションの多くはオランダ初代国王のコレクションが中心だそうで、それで”王立美術館”となっているのかな〜、などと思ったりします。

入館したときは本当に誰もいなく、まずレンブラントの”ディルブ博士の解剖学講義”の前へ。
ガイドのKさんの説明、非常にわかりやすかった。

ハーグ・マウリッツハイス美術館(3)
この作品は3回日本に来ており2012年が最後です。
その後マウリッツハイス美術館は貸し出しを禁止したので、今はここに来ないと見れない作品です。

青いターバンは当時のオランダでは一般的なファッションではなく、これはトルコ風だという説があります。
モデルは不明で、フェルメールが自由に描いた”トローニー”ではないか、とも言われてます。

ちょっとややこしいのは、ベルリン美術館に同じくフェルメールの”真珠の首飾りの少女”がある点です。

ハーグ・マウリッツハイス美術館(4)
ルーベンスとブリューゲルの合作「楽園の園と人間の堕落」で、アダムとイブが禁断の果実を手にする瞬間です。
イブに「リンゴを食えよ」と勧めているヘビの目はは憎たらしく画かれています。

ルーベンスはドイツ生まれで画家としての仕事はベルギーで行われ、この絵はオランダにある、、、ナルほど
ブリューゲルはベルギーで生まれた画家です。

なお聖書には“リンゴ”という記述はなく”禁断の果実”という表現になっているそうです。

ハーグ・マウリッツハイス美術館(5)
帰る頃には多くの見学者が入館しており、広くはない館内はかなりごった返してきておりました。

ガイドさん曰く「日本人の団体見学者はある程度まとまって見学しますが、白人達は広いスペースを占有して見学をするので、すごく邪魔、というか迷惑。」

ボクは人と人の間合いについて、白人は明らかに間合いが遠いのは感じます。
逆に一番近いのは韓国人。後ろから平気で他人の肩越しにモノを取ったりします。

ランチ(1)
この絵はルーベンスによる、「蝋燭の光の中の老婆と少年」という作品です。
構図のバランス、蝋燭に照らされた顔や手元の明暗表現は何とも言いようがありません。

老婆の顔は少し狡猾さを感じます。長い人生を歩んできた末に身につけたもの、という事でしょうか。
少年にそういう感じはなく、ただ純粋に画かれています。

この絵は何を表現しているのか、、、。

蝋燭の火は間もなく消えゆく老婆の命を例え、その火を少年の持つ蝋燭に移そうとしている、つまり世代のバトンタッチを意味しているのではないか、、、。

老婆は何かを少年に伝えたい、渡したい、、、少年は老婆の孫であろうか、では老婆はナゼ息子娘ではなく、孫である少年に何かを引き継ぎたいと思っているのか、、、。

”老いと若さ”、そして”終わりと始まり”、というようなテーマなんでしょうか、、、。

デルフトの風景(1)
ハーグからバスで20分、デルフトに着きました。
ここはオランダ南部にある歴史的な都市で、フェルメールの故郷でもあります。

街を歩くと若者がやけに多い、
ここデルフト工科大学があり、建築・土木・機械宇宙、製造部門では世界トップクラスで、ここに並ぶ日本の大学は東京大学と京都大学のみで他はありません。

私たちが歩いたところはキャンパス内で、トラムまで走っている広大な敷地のようでした。

デルフトの風景(2)
猛スピードで行き交う自転車、場所によっては30kmh以上、40kmh近くのスピードです。

オランダでは他の国と同様、自転車専用道路があり、歩行者は自転車をよける必要があります。
もしここで自転車と衝突してケガをしても責任は基本的に歩行者にあります。

運河を渡り歩いて行くと”実にオランダらしい風景”が目に入ったのでシャッターを押しました。
ボクでもこんな写真が撮れるのだ!!。

デルフトの風景(3)
1632年にフェルメールが生まれそして過ごし、1675年に没した街デルフト。
日本の時代で言うと、江戸時代初期です。

フェルメールの作品は女性、または男性をテーマにした風俗画ですが風景画も数点あり、その中のひとつが”デルフトの眺望”です。

フェルメールが描いたデルフトの風景画は何の変哲もないようですが、水門とその向こうに立つ教会、これらは当時のシルエットのままです。
作品は全くの写生ではなく、自分に関係のある建物などをキャンバス内に凝縮してあるそうです。

現在の街を400年前の絵に投影できる位置が観光スポットになっています。日本にこういう事ができる絵と、街があるか、、、ボクは思い当たりません。

絵は1661年に描かれたとありますので、フェルメール29才の作品です。

ボクはフェルメールがこういう絵を描いて、そして有名になっているのは知りませんでした。

ロイヤル・デルフト(1)
デルフト焼きの唯一”昔ながらの製法”で作っているのが”ロイヤル・デルフト”です。
設立が1653年、1919年に王室からロイヤルの称号を授与された、王室御用達の会社です。

ここはデルフト焼きに関する博物館もあり、その変遷の歴史などを見ることができますが、ツアーではくわしく見る時間はありませんでした。

デルフト焼きは中国の影響を強く受けている、というより最初はその模倣と言えそうです。

ロイヤル・デルフト(2)
デルフト焼きは、17世紀に”オランダ東インド会社”を通じて中国から輸入された磁器の影響を受けた、とあります。

明時代、青花磁器に人気があったが、これの輸入が途絶えて、オランダの職人が陶器として模倣を始めたのがデルフト焼き、という事です。

博物館にはデルフト焼きで作られたレンブラントの”夜警”があり、これはアムステルダム国立美術館で見た実物と同寸ではないかと思います。

ロイヤル・デルフト(3)
オランダは長崎の出島を通じて多くの伊万里焼を本国に持ち帰っており、明の青花磁器が入らなくって以降、伊万里焼の影響を大きく受けるようになったそうです。

ボクも伊万里焼の徳利を時々使っているので、デルフト焼きを見たとき、伊万里焼と雰囲気が何となく似てるな〜、と一瞬感じた次第です。

工房はかなり広いのですが、平日にも係わらず仕事をしている人の姿は数人程度でした。
ランチ時間に近かったせいかも知れません。

ロイヤル・デルフト(4)
工房の隅っこでは職人が絵付けをやっていました。
ここで気が付いたのは顔料が黒色である事で、後で調べたら焼成でブルーに変わるとありました。

デルフト焼きのルーツ:
・中国の磁器 ⇒ オランダ東インド会社 ⇒ オランダ
・日本の伊万里焼 ⇒ 長崎出島 ⇒ オランダ

というのがわかり、歴史研究を趣味とするボクにとってはナルホド、と頷いた次第です。
実は長崎出島、3週間前に訪れたばかりでした。

ロイヤル・デルフト(5)
デンマークのロイヤルコペンハーゲンは磁器で透明感のある青です。昔デンマークに行った時に、ある方からプレゼントされました。
これも日本の伊万里焼の影響を受けています。

工房見学の最後はお決まりのお土産販売コーナー、ちょっとしたコーヒーカップと皿が1組、2万円相当とか、いずれも非常に高価でした。

ここでお買い物をされたツアー・メンバーもみえ、ボクも風車を描いた”デルフトタイル”を買いました。

ロッテルダム(1)
デルフトからバスで30分、ロッテルダムに着きました。ここはヨーロッパ最大の貨物取扱量の港です。

ロッテルダムは第二次大戦初期にドイツ軍の徹底した爆撃を受け壊滅しています。
戦後は破壊を免れた幾つかの建物を残し、歴史的な街並みの復元ではなく、近代的な建築で再興をした都市です。

ボクはここに40年以上前にベルギーから車で来たことがありますが、夜にホテルでビールとワインを一杯飲んだ以外、何も覚えていません。

ロッテルダム(3)
都市の中に村を作る、というコンセプトで1984年に”キューブハウス”が作られ、観光名所にもなっています。
巨大なサイコロが斜めに接着されて置いてある、という感じです。
入場料は3ユーロ、受付のオバサンがやけにニコニコ顔で腰が低い。
1日に300人で約1000ユーロ、年間36万5千ユーロ、つまり5千7百万円相当。
1軒が5千万円相当で売られているそうなので、見学ビジネスとしては悪くはないな〜。
こういう計算を直ぐやるのはボクの職業病か、、、。

ロッテルダム(4)
中は3階構造で、1Fは玄関・階段、2FはLDK,3Fはベッドルームで、床面積は100uだそうですが、壁が斜めなので実質的にはかなり狭いと思います。

動き回って見学させてもらいましたが、頭をあちこちにぶつけてしまいました。ボクの場合、頭をぶつけるとダメージが大きいのです。
ベッドなんか「地震だ!」とかで飛び起きたら、壁に激突間違いなし。あ、オランダは地震はないのか〜、、、。

見るのは楽しいですが、住みたいとは思いませんでした。

ロッテルダム(4)
オランダでは1人で2台とか3台の自転車を所有して、用途で使い分けている人も多いそうです。

国中に専用道路があり総延長距離は2万km以上(!)あり、道路は自転車優先で、人は自転車をよける義務があるので要注意です。
自転車は一般に猛スピードで30kmh以上はざらです。

駐輪場も整備されており実に自転車王国です。
オランダ以外、ベルギー、チェコ、ハンガリー、デンマークなども自転車専用道路があり、普及していました。

ロッテルダム(5)
”マルクトハル”、ロッテルダムの象徴的な建物のひとつ、という説明でした。
入り口を入った天井には巨大なアートワークで覆われており、圧巻です。

内部にはマーケット、レストランなどがあり、アーチ状の部分に窓が見えるのは、住宅になっているからです。
ここはさっきのキューブハウスよりはマシ、かもですね。

確かにロッテルダムは近代建築の街ですが、中世教会もひとつだけ戦災を免れて残っているそうです。

ロッテルダム(6)
内部のマーケットはそれぞれ専門店です。レストラン併設の店もあります。

中のひとつにラーメン屋があったのにはびっくり。丁度従業員が出てきて、目が合って「こんにちは」。
ボクを瞬時で”日本人”と識別したのですね。

グループの集合前に入り口付近のパブで、ツアーグループのIさんとスペインビールを頂きました。
他にもイギリス風パブ・レストラン、ベトナム・レストランもありました。

ロッテルダム(7)
地下には普通のスーパーマーケットがありましたので、入ってみました。
何の変哲もないスーパーですが、野菜とかの売り場は狭く、保存食のような食品の品揃えを多く感じました。

全体の値段は円換算すると、日本の1.5倍くらいかな〜、という感じでした。
日本は物価高、とか言われますが為替レートで換算して外国と比較すると、メチャ安の国です。
20年以上前はこの逆でした。つまり日本(人)は貧乏になった、という事です。簡単に言うと。

ロッテルダム(7)
液体燃料事情について。
オランダビールと言えば”ハイネケン”ですが、他に種類は無数にあります。

レストランでメニューを見ると殆どの場合、4%〜9%という具合にアルコール度が併記されています。
ボクは銘柄に関係なく、いつも9%程度のものを頂きましたが、実に美味しかった〜!

オランダはワインの生産量が非常に少なく、ボクは銘柄を知りません。オランダワインは希少価値があるそうです。

ロッテルダムのホテル(1)
ダブルツリー・バイ・ヒルトン。ツアーではチェックインなどは全部添乗員がやってくれるのでラクチンです。

我々がホテルに着いた後、40名以上の白人の団体が到着、それ以外に中国人、韓国人も結構見掛けました。

今回の旅行期間中に最後まで他の日本人は殆ど見掛けませんでした。
やはり旅行者の絶対数が少ないからでしょう。費用的にも台湾旅行などの4倍(Yクラスで)以上になってきた、というのも減ってきた理由かも知れません。

ロッテルダムのホテル(2)
ホテルの部屋からの眺めはよく、クルーズターミナルが見え、MSCの巨大船が入港していました。
ボクも1年半前にMSCベリッシマに乗りましたが、これと同型船のように見えました。

眼下の交差点では、自転車がどのように走っているのかよく観察できました。

オランダの都市部では車の使用、乗り入れの制限をやっており、これがどんどん厳しくなる方向だと聞きました。
目的は環境対策と交通渋滞緩和だそうです

ロッテルダムのホテル(3)
朝食時、隣に60才前後の白人の女性が2人。
ひとりが持ってきたバンにバターを塗ってハムを挟みサンドイッチを作り、ナプキンでそれを包んで、バッグへ。

するともうひとりの女性も「私も」という感じで、材料を取りに行きサンドイッチを製作して同じくバッグへ。

ボクはひとりの方を見てにっこり、どこから来たのか聞いてみました。「ドイチェランド」という答えでした。
これはアメリカでも時々見掛けた光景です。
楽しそうな二人でした。

キンデルダイクの風車(1)
ロッテルダムから10kmちょっと、キンデルダイクには世界遺産に登録されている風車群があります。

ボクはここも43年振りです。ベルギーからデンマークに行く途中、寄り道をして見ていきました。

09:00前に着いたので、少し待って入場。
ここには19基の風車があり、先ずボートに乗って風車群を運河から眺めます。

風車は巨大で、今でも人が住んでいる風車があります。

キンデルダイクの風車(2)
ボートからは途中で下ろされて、内部が見学できる風車に入ってみました。
狭い急な階段を上ってゆくと1950年頃の灯台守、ではなく”風車守”が住んでいた居住空間が再現されています。

この風車自体は1630年頃に作られたとありましたから、既に400年が経過、補修などを繰り返しながら今に至っているわけですが、信じられません。

ここでドイツからの子連れ夫婦に写真撮影を頼まれたたので、少し話をしました。

キンデルダイクの風車(3)
風車は巨木の骨格(フレーム)に、風車の軸回転を伝える木製の歯車とカムなどが組み付けられている、という構造です。
そしてこれの外側をレンガと木の板の壁で丸く囲ってある、というのが風車の外観です。

説明には風車を常に稼働させるために、高度な技術を持った風車守が必要だった、とありました。

風車の高さは20mから30mくらいで、地域によって最も効率のいい高さで作られ、キンデルダイクの風車は28m、比較的大きい方のようでした。

キンデルダイクの風車(4)
見学用の風車の横には小さな家も建っており、風車守の家族は風車の中だけで生活していたわけではなそうでした。

風車の周りは野菜を植えたり、食用の動物などを飼っていたようで、それも再現してありました。

風車は18世紀にはオランダ全土で1万基以上あり、現在でも約1千基が残っており、そのうち約50基が実用稼働だそうでびっくりでした。
現在の用途は製粉、油絞り、そして干拓地の排水バックアップ用、となっていました。

キンデルダイクの風車(5)
風車の建設には多くの木材が必要であったわけですが、オランダにこのような巨木を切り出せる森林はありません。
では一体どこからもってきたか、調べてみました。

巨大な歯車とかカム機構部分には摩耗に強い、堅い木材のオーク・ブナなど、これはバルト海沿岸地域(スカンジナビア、バルト海3国)、ドイツ、ポーランド、イギリスからの輸入木だったそうです。

では誰がこのような高価で手間のかかる風車を建設したのか、それは水利組合、裕福な商人、大地主などでした。
水利組合とは、そこに住む人々が費用などを分担する、自治的共同体です。

ですから風車守はどこから収入を得ていたのか、これもわかります。

国土の4分の1が水面下にあるオランダ、水車で国土を守り、そして築いてきた訳ですが、風車について調べていくとオランダの歴史・経済が鮮やかに見えてきます。

オランダの風車は意外と奥が深いのです。

オランダのトイレ事情
他の国と同様、オランダでもトイレは観光地でもドライブインでも殆どが有料です。
料金は1〜1.5ユーロ(160円〜240円)で、現金は殆ど使えずクレジットカードで払います。

かつてはトイレの入り口にオバちゃんが座っており、前に置いた洗面器にお金を放り込む、というのがスタンダードでしたが、今でも東欧に行けばこのやり方はあるそうです。

支払いにもたつくと、写真のように後ろに行列ができる事があります。

オランダでの食事
オランダでの食事は3食全てコースに組み込まれていて、いずれもおいしく頂きました。
オランダの家庭料理”ヒュッツポット”というのも頂きましたが、美味しかった。

いずれも量が半端ではなく、普通の日本人はこの半分以下でいいと思います。これを完食できるのは高校、大学の運動選手だけです。

朝食について、ボクは普段は食べないのですが、旅行では少しだけ頂きます。

オランダは大航海時代のポルトガル、スペインが衰退後の17世紀には欧州最大の海上商業国家でした。
世界中に植民地も持っており、特にオランダ領東インド(現インドネシア)は350年間も植民地として支配、カリブ海諸島は1600年代から現在もオランダ王国を構成しています。

オランダは日本の江戸時代に於ける唯一の貿易取引国であり、更に重要な点は江戸幕府は世界情勢をオランダを通じて得ていたという点でした。
ボクはこの旅行の3週間前に長崎に行って出島・シーボルト記念館などを具に見て、オランダは日本にとって重要な国であったというのを実感してきました。

今回のオランダ旅行は、ほんの短い期間ではありましたが、オランダは国土は小さいものの、実にキチンとした国である、というのがよくわかりました。
小国ではあるが、歴史と文化のある国、そして日本とはある意味で繋がりの深かった国、というのを実感する事ができた次第です。