エジプト旅行(3):2025/12/9〜12/18
エジプト旅行も後半に入り、出発地のカイロへ戻ってきました。
日本発のエジプト旅行で最も一般的なのは5〜6日間のコースで、カイロ(ギザのピラミッドと博物館)と、早朝・深夜便を使ったルクソール日帰りが中心です。

この場合、アレクサンドリアまでは足を延ばせません。私たちの旅程は10日間だったため、少し余裕を持って南端のアブシンベル・アスワンから、北端のアレクサンドリアまでを巡ることができました。最後の2日間は、ハイライトであるアレクサンドリアとカイロを、これも比較的ゆったりと見学することができました。

カイロの朝です
昨夜は液体燃料の注入はありませんでしたが、よく眠れました。 エジプトに来てすでに1週間以上。時差は7時間、時差ぼけはもう完全に抜けています。
最初の2〜3日はかなりきつく感じましたが。

実は、外国で1週間以上“禁・液体燃料”をした経験があります。アメリカにいた頃、サウジアラビアへ出張した時のことです。サウジでは本当に一滴も口にできませんでした。

ジェッダからUAEのドバイに戻った時は、空港から一直線で“日本レストラン”に向かったのをよく覚えています。

カイロ大学
ガイドのナグラーさんは、カイロ大学・文学部・日本語学科の卒業、バスがカイロ大学の前を通ると、「見てくださ〜い!私の母校で〜す!」と嬉しそうに教えてくれました。

そこでナグラーさんに、カイロ大卒業が疑わしいとされる日本の”某女性知事”について「知ってますか?」と聞いてみたところ、一瞬間をおいてから、「知りませ〜ん」。

これは”ガイドとしては話題にしたくない”という反応なんですね、きっと。
あくまで私の印象ですケド。

アレキサンドリアの街外れ
朝7時にホテルを出発し、約3時間(約215km)でアレキサンドリアに到着しました。
最初の訪問地は「カタコンベ(地下共同墓地)」。

市街地の中にあるため、住宅地や商店街脇の道路を通って行くので、車窓からは”エジプト庶民の生活の雰囲気”がわずかに伝わってきます。

アレキサンドリアの中心部は海側にあり、カタコンベとは離れていたが、 今はその間が住宅地で埋まり、街が一体化してしまった、との事です。

カタコンベ(1)
バスを降りて、まずナグラーさんの説明を聞きます。
カタコンベはローマ時代のエジプトにおいて、エジプト・ギリシア・ローマ文化が融合した地下墓所です。

かなり大規模な施設で、ナグラーさんは内部を見学する前に概要を丁寧に説明してくれました。

ナグラーさんの横には、半ばぐったりした犬が何匹も寝そべっていました。12月で気温は20℃と過ごしやすいはずですが、犬たちは動く気配は全くなし。涼しさをかみしめているのでしょう、きっと。

カタコンベ(2)
カタコンベには大きな縦穴があり、階段を使って回りながら地下へ降りていきます。
この縦穴は井戸(シャフト)、または中央井戸(セントラルシャフト)と呼ばれ、 かつてはこの穴を使って遺体や石棺を地下の埋葬室へと運んだそうです。

現在の階段はオリジナルは“緩やかな坂道”でした。安全面の理由から、現代の見学ルートとして階段に作り替えられたとの説明でした。
ここに埋葬されたのは、アレキサンドリアの上流階級の人々です。

カタコンベ(3)
埋葬区画に入ると、人骨などがまとめて展示されています。
この8日間で墓・人間の乾物(ミイラ)などを散々見てきたので、これくらいの展示ではもうビクともしません。

共同埋葬区画には四角い穴が並んでおり、そこに遺体を収めました。遺体はミイラ化されたものと、そうでないものが混在していたそうです。遺体の前では“死者供養の宴”で、飲食がされていたとのこと。
その先は、あまり深く考えないことにしました。

ビデオ:埋葬室付近の別なシャフト

カタコンベ(4)
ここは遺体を安置する墓そのものではなく、いわば“地下神殿ホール”のような空間です。

カタコンベは、エジプト・ローマ・ギリシャの文化が混ざり合った独特の様式です。
神殿風の装飾はギリシャ的、埋葬に関する要素にはエジプトの伝統、墓で会食を行う習慣はローマの風習です。

観光客が入れるのは地下15〜20mほどの深さまでで、ボクはつい、酸欠を心配してしまうのですが、中央シャフトのおかげで空気が循環し、問題はないそうです。

エジプトのトイレ
エジプトのホテル、レストラン、観光地のトイレは水洗で、全体としてはまずまず清潔です。
備え付けのハンドシャワーで、お尻を洗い流します。

使った紙は流すと詰まって大変なことになるので、横のカゴに入れます。時々、茶色や黄色が見え隠れしますが、そこは見なかったことにしましょう。

ハンドシャワーは注意しないと、分身とともに飛び散るので、注意が必要です。ボクはフィリピンで使い慣れているので問題ありませんケド。

エジプトの一般的なアパート
一般的な中間層が住むアパートでは、10階以上でもエレベーターがないことがほとんどです。ガイドのナグラーさん曰く、高層階の住人は本当に大変だそうです。

家賃は日本円で約2万円。平均的な公務員の月給が3万円ほどなので、住んでいるのは共働きの夫婦や個人商店の経営者といった層になります。

アレキサンドリアでは、高級アパートは海沿いに集中しており、こうした中間層?それ以下の住宅は海岸から離れた地域に多いとのことでした。

セラピウム遺跡(1)
カタコンベから500mほどの場所にある広い遺跡で、周囲は市街地や商店街に囲まれています。

写真のこの柱は、ローマ皇帝ディオクレティアヌス(在位284〜305年)を記念して建てられ、高さ約30m。
花崗岩の一本柱としては世界最大級
との説明でした。

「なぜエジプトにローマの記念碑が?」と思いましたが、当時のエジプトはローマ帝国の属州。
エジプトで起きた反乱を鎮圧した皇帝を讃・記念して、この柱が建てられたそうです。

セラピウム遺跡(2)

記念塔の周囲には神殿跡が広がっていますが、実際には“がれきの山”という印象です。
遺跡巡りもこの頃になると、よほどのものでもない限り段々と感動が薄れてくるのであります。

ここには「図書館跡」の地下遺構があります。壁に掘られた棚に書物が並べられていたのでしょうが、見た限りでは規模は小さく、図書館というより“文書保存スペース”といった感じでした。

書物はよく知られているパピルス製で、閉じた本ではなく巻物の形だったそうです。

セラピウム遺跡(3)
ポンペイの柱の周囲には、かつてのセラピウム神殿の遺跡が広がっています。ローマ帝国が「異教禁止」を進めた際、立てこもった非キリスト教徒との戦で破壊され、今の姿になったそうです。

日本人には“宗教で戦争が起きる”という感覚がつかみにくいのですが、宗教は単なる信仰ではなく、その社会の“秩序そのもの”です。
価値観・法律・政治・経済・生活様式のすべてを規定するため、宗教対立は実質的に“国家間戦争”と同じ意味を持つ、、、そういうことなのでしょう。

 アレキサンドリアの海(1)
アレキサンドリアは紀元前4世紀にアレクサンドロス大王が建設し、その後ギリシャ・ローマ・イスラム・オスマン、そして近代エジプトへと支配者が入れ替わってきた都市です。

そのため、市民は今でも“エジプト人”というより“アレキサンドリア人”という強いアイデンティティを持つ人が多いそうです。
写真の後ろに見える塔は、カイトベイ要塞の前面にある前哨監視塔で、本体のカイトベイ要塞は15世紀に建てられた美しい要塞です。(2枚目)
ビデオ:アレクサンドリアの海岸(1)

アレキサンドリアの海(2)
海は深い青で、近くには多くの漁船が停泊していました。 この8日間、岩と砂漠と石ばかりを見続けてきたので、海の碧さが本当に目に沁みます。

ボクは三重県松阪市の漁師町の生まれで、唱歌『我は海の子』は自分のための歌ではないかと思うほど、海のそばで育ちました。
だからこそ、海を見ると心の底から何とも言えない“ほっとした気持ち”になるのです。

ビデオ:アレクサンドリアの海岸(2)

ランチで入ったレストラン(1)
ツアー中の昼食はいろいろなレストランに入りましたが、私はこうしたツアーの食事にはあまりこだわらず、と言うか、さっと済ませたい方です。

これまでで最も効率が良かったのは、アメリカのグランドサークルの旅。 スーパーで総菜を買い、走るバスの中で食べるという方法でした。

今回のツアーも各地のレストランで食事をしましたが、どれも可もなく不可もなく、といった印象でした。

ランチで入ったレストラン(1)
アレキサンドリアでのランチは海沿いのレストランでしたが、ビールのグラスは欠け、フォークやナイフも脂っぽく、やや残念な印象でした。

エジプト料理は塩気が少なく、全体に油が多いうえ、どこか酸味(レモン?)が強く、味の輪郭がぼやけるのに重く感じるという不思議な料理です。

スパイスは香りこそありますが辛くはなく、これも独特でした。いずれも、興味深い経験ではありました。好み、という観点では日本人の場合、大いに分かれると思います。

グレコローマン博物館(1)
博物館は、プトレマイオス朝(紀元前4世紀)からローマ時代(紀元4世紀)にかけての遺物を展示しています。

プトレマイオス朝とは、アレクサンドロス大王の後を継いだギリシャ人王朝で、 アレキサンドリアは“学術・海洋・文化の中心都市”として栄えました。
続くローマ時代はエジプトは帝国の“穀物供給基地”で、アレキサンドリアはローマに次ぐ東地中海の重要都市でした

各々約400年続いた時代で、日本の弥生後期から古墳初期にあたり、まだ文字を持たなかった頃です。

グレコローマン博物館(2)
プトレマイオス朝の約400年間は、それまでの古代エジプトとはまったく異なる“ギリシア文明の王国”でした。

行政・軍事・学術のすべてがギリシャ式に再編され、言語もギリシャ語が公用語となり、エジプト語は農民などが使うローカル言語へと押しやられました。

支配階級はギリシャ人、エジプト人は被支配階級という構造で、近代の植民地支配に近い状況だったと言えます。

それ以前はペルシャの支配下にあったため、エジプトにとっては“支配者が変わっただけ”とも言えますが、その背景にあったのは圧倒的な軍事力の差でした。

入口にはファラオ像が立っていますが、これはギリシャ人が“ファラオのコスプレ”をしたわけではありません。

エジプトを統治するにはファラオとしての権威が不可欠だったため、ギリシャ人王がファラオの姿を取った、、、。

つまり“ギリシャ人ファラオ”だったということです。

グレコローマン博物館(3):左足の謎
エジプトで見た多くの男性立像で気づいたのは、必ず左足を前に出していることでした。ガイドのラグナーさんに尋ねても、「さて?」、との返事。帰国後に調べてみると、これには深い意味があることがわかりました。

・生きている/動いていることの象徴(生命・行動)
・死後も前進し続ける“永遠の歩み”の象徴(来世への旅)
・左側=心臓側=生命・聖性と結びつく象徴

一方、女性像は足を揃えています。これにもきちんとした理由がありました。

グレコローマン博物館(4)
最初に思ったのは、みんな髪型が妙に整っているので、「美容院の見本モデルか?」、でした。
そうか〜、昔からこんなカタログがあったのか、と感心したのですが、、、完全にハズレ。

これらの像はギリシャとローマの要素が混ざった“アレキサンドリア・スタイル”で、家の神棚に置く守護神や室内装飾、あるいは墓に入れる副葬品だったそうです。

日本で言えば、“仏壇の仏様とフィギュアの中間”ですかね〜。 そう考えると、少し親しみが湧いた次第でした。

グレコローマン博物館(5)
最初は「横になった布袋様か?」と思ったのですが、これも全くのハズレ。 像は饗宴の席で横たわる上級市民・貴族を表した像で、ギリシャ・ローマ時代の作品です。

当時、横になって飲食できるのは富裕層だけで、左手には取っ手付きの杯、右手にはパンのような食べ物です。
こうした姿勢でワインを飲みながら、哲学・政治・詩・女性・人生、そして下ネタまで、あらゆる話題を仲間と語り合ったそうです。

今とほとんど変わりませんね。

グレコローマン博物館(6)
ここに並ぶ像は特定の人物像ではなく、神像・理想化された人体像・市民像などで、古典ギリシア彫刻の典型である“理想的な若者の身体”が表現されています。

2枚目の医神アスクレピオス像の頭にある植物の冠は、薬草を象徴しているそうです。
こういうのって説明を聞かないと絶対にわかりません。

右下にはエジプトのスフィンクスも置かれており、アレキサンドリアの博物館では ギリシア=ローマ展示室にエジプト要素を少し混ぜるのが一般的とのことでした。

グレコローマン博物館(7)
エジプトがギリシャ・ローマの影響を受けたことは事前に知っていました。

アレキサンドリアに限って言えば“ギリシャ=ローマそのものとして設計された都市”だった、 ということが実際に訪れてよくわかりました。

つまり、ここでは“エジプト文化がギリシャ化した”のではなく、“最初からギリシャ都市として作られた”のです。
そしてその中にエジプト文化は部分的に混ざっている、、、の方が正確な表現かもしれません。

グレコローマン博物館(8)
この博物館の展示物を理解しながら見て回るには、1日では到底足りません。
わかったのは、ここは“エジプト文明の延長”ではなく、エジプトの中に突然現れた“ギリシャ都市国家”そのものだったという点です。

つまり、ナイル文明の連続ではなく、最初からギリシャ都市として設計された場所でした。エジプト全体が変わったのではなく、アレキサンドリアだけが“エジプトではない都市”として作られた、、、。
そう理解するのが最も近いと感じました。

グレコローマン博物館(9)
では、現在のエジプトはナイル文明の延長なのか。
私は、ほとんど“ない”と考えます。

まず言語が違います。現代はアラビア語で、古代エジプト語とは系統すら別です。宗教も断絶しています。古代は多神教、現在はイスラム教(スンニ派)。
社会制度も都市文化も古代とは連続していません。

一方、日本は2000年以上、基本的な文化的連続性を保ってきました。外国による長期支配を受けなかったことが大きいのでしょう。 これから先は分かりませんが。

アレクサンドリアからカイロへ
アレキサンドリア郊外に入る手前の、典型的な住宅街です。1階は商店、2階以上は住宅で、バルコニーには洗濯物が干され、生活感があふれています。

手前の道路は工事中のようで、黄色に塗られたブロックが実に“実用一点張り”という印象です。

その前の空き地は工事状況が不明で、社会インフラの整備水準はかなり低いと感じました。
路上では三輪タクシーの“トクトク”をよく見かけます。エジプト庶民の重要な足になっています。

カイロに戻りました
1950年に約150万人だったカイロ都市圏の人口は、現在では2000万を優に超えています。
カイロには一貫した都市計画がほとんどなく、人口増加に後追いで対応してきた結果が現在の姿で、今後も改善は見込みにくいと言われます。

国家人口の約2割以上がカイロに集中しており、この傾向は今も続いていくようです。
私にはそのスケールが、なかなか想像しにくいというのが正直なところです。
ビデオ:カイロの夜景

大エジプト博物館(1)
このツアーの最後は、最大のハイライトである「大エジプト博物館(GEM)」の見学です。
GEMは2005年頃から本格的に建設が始まり、2025年11月1日にグランドオープン、11月4日から一般公開が始まりました。
私たちの訪問は、その約3週間後ということになります。GEMはギザのピラミッドの麓に建てられた、世界最大級の“単一文明博物館”です。

総工費は約1400億円。そのうち日本が約840億円、つまり6割近くを負担しています。

大エジプト博物館(2)
日本は特に、建築と遺物保存の高度な技術移転に大きく貢献しており、GEMは日本の資金と技術で完成したと言っても過言ではありません。

技術移転では、日本の専門家120名が20年にわたりエジプト人技術者2500名を育成しており、これこそが最大の貢献だとされています。

建物は三角形のデザインで、ピラミッドの幾何学を抽象化した“現代的記号”として設計されている、との説明でした。

大エジプト博物館(3)
三角形の巨大な開口部は「文明への入口」を象徴し、ここをくぐることは“古代文明へのゲート”を通過する、ということを意味するそうです。

そしてエントランス中央には、この8日間で何度も見聞きした古代エジプト史を代表する11mのラムセス2世像が、ここで再び姿を現します。

ラムセス2世は古代エジプトで最も権勢を誇ったファラオで、在位65年。エジプト文明の“顔”として、この像がGEMで始まる壮大な物語の幕開けを告げています。

大エジプト博物館(4)
ホールを進むと左側に彫像ギャラリーがあります。

見事な彫像群と練り上げられたレイアウト、照明、そして建物の巨大さが相まって、普通の人は圧倒されて思わず黙ってしまう空間です。
ですからここではペチャクチャおしゃべりしたり、へらへら笑う人がいなくなるのです。

階段の左右にはさまざまな像が並び、下から6層のフロア構造になっていて、階段を上り下りしながら約60体の像を鑑賞することになります。

大エジプト博物館(5)
大階段を上がりきった先には「永遠への旅」ゾーンがあり、葬送儀礼を描いたレプリカ壁画が展示されています。葬儀の行列や供物の準備の場面は見てすぐ理解できました。

エジプトのこうした絵は、前後のつながりや人物の動きを追ってじっと見ていると、意外に具体的な内容が読み取れます。

これはファラオではなく上級貴族の一般的な葬儀を描いたもので、「死→葬送→冥界→再生」というエジプト文明の核心を示す図像だそうです。

大エジプト博物館(6)
紀元前2500年頃に作られた実物の木造船。全長43m、幅6mで、大きいです。
1954年にギザの大ピラミッド南側で発見されました。修復はされているにせよ、4500年前の木造船がこれほどの形で現れるのは、驚きを通り越します。

なぜピラミッドのそばに埋められていたのか、、、理由は「葬送用の儀礼船」説が有力で、構造自体は実用船と同じだそうです。
櫂の取り付けを見て、ボクの経験から見ると漕ぎ手は実に苦労する構造だと思いました。

大エジプト博物館(7)
いよいよGEMの中心展示、ツタンカーメンの墓から出土した5000点の遺品エリアです。

まず、副葬品は「豪華な宝物」だけではありません。 古代エジプトでは来世は“現世の延長”と考えられ、王は来世でも食べ、飲み、生活すると信じられていました。

そのため墓には数百点規模の生活用品が副葬されています。GEMの展示は従来の“宝物中心”ではなく、“王の生活全体”を再構成している点が特徴です。
各々の用途は、見れば大体想像がつきます。

大エジプト博物館(8)
GEMの説明書きはアラビア語・英語・日本語で表記されています。
GEMは日本の資金と技術で完成した経緯があり、エジプトが日本を特別扱いしている表れです。

ただ、この船の模型の説明は、ツタンカーメンの墓からの出土品にしては一般的すぎるので、後で調べてみました。

これは「死者が来世へ旅するための象徴的な乗り物」としての船であり、船には他にも多くの象徴的意味があることが分かりました。

大エジプト博物館(9)
これは“ツタンカーメン王の死後世界を支える2大カテゴリーの副葬品”の展示です。
王の復活を守る神々の小像群で、中央のコブラは“王を守る炎の女神”の象徴。炎を吐いて王を守る存在で、王冠にコブラが付く理由でもあります。

2枚目は“シャブティ(ウシャブティ)=死後の労働代行者”。 死後の世界では王も働くとされ、その代わりに労働を担う者たちです。
よく見ると、農作業や土木作業のための道具を手にしています。

大エジプト博物館(10)
いよいよツタンカーメン王墓のエリアです。
棺の構造は模型で示されており、厨子4重→石棺→棺3重→ミイラという順です。

厨子は神を祀る小神殿で、王の遺体を神域として封じ、多重化することで守護力が高まると考えられていました。

構造はまさにマトリョーシカで、「王の遺体を守る多重防御構造」と言えます。2枚目の写真は、4つの厨子のうち外から2番目と3番目が写っているはずです。

大エジプト博物館(11)
1枚目は最外層の厨子で、巨大です。奥に2つ目の厨子が見えます。埋葬室は広くなく、この厨子だけでほぼ一杯になったそうです。
2枚目は「儀礼寝台」で、動物の姿が象られ、それぞれに意味があります。

寝台と死が結びつくのは、エジプト人にとって“死=眠り”、“復活=目覚め”だったためで、寝台は「死と再生のプロセス」を象徴します。
さらに神の力を動物の姿で付与するため、このような形になっているわけです。

大エジプト博物館(12)
これは二重目の棺だったと思います。つまりマトリョーシカの六番目に当たります。
この中にミイラが収められ、そのミイラにはさらに黄金マスクが載せられていた、、、。
ここまで来ると、ボクも少し混乱しそうになります。

ところで、この写真には白人のご婦人が写り込んでおり、目が合ったので互いにニッコリ。
声をかけるとドイツから来たとのことで、前年に私たちは“ドイツのクリスマスマーケット巡り”をした話などを少し交わしました。

大エジプト博物館(13)
この棺は金でできており、重量は110KG。
もちろん国家級の文化財であり、金の価値だけで推し量れるものではありません。

しかし、です。
学会でも時々議論になるそうですが、もしこれがオークションに出たらいくらになるのか、、、。

恐らく1兆円は軽く超えるだろう、という話だそうです。

棺の本体は金ですが、目・眉・装飾部分にはラピスラズリや石英、インレイには彩色ガラスが使われています。
そして、すべてのファラオが金の棺に入れられたわけではなく、金無垢の棺に納められたのはツタンカーメンだけ。

普通は木や銅の棺に金箔を貼ったものだったそうです。
では、なぜ19歳という若さで亡くなったツタンカーメンだけが金無垢なのか。
理由はいろいろ推測されています。

構造としては、この棺の中にミイラが納められ、最後に黄金のマスクが載せられていた、、、こういうことです。

大エジプト博物館(14)
ミイラの上に直接置かれていたマスクです。金:約10kg、青:ラピスラズリ、白目:石英、瞳:オブシディアン、首飾り:彩色ガラス+半貴石です。では、なぜツタンカーメンのマスクだけがこれほど有名なのか。

・完全な状態で発見された唯一の王墓であること
・純金とラピスラズリの圧倒的な美しさ
・ツタンカーメンが“少年王”として象徴化されたこと

王は死後オシリス神として復活すると信じられていたため、顔はツタンカーメンではなく、「オシリス神」の顔です。

大エジプト博物館(15)
ツタンカーメンのミイラは徹底的に科学分析され(骨格分析)、その結果をもとに科学的なモンタージュが作成されています。

調査では、ツタンカーメンがマラリアや結核、その他の感染症に苦しんでいた可能性が高いことが判明しています。
また骨折の痕もあり、それらが19才という短い生涯につながったと考えられます。

19才のあまり実績のない王が、なぜこれほど立派な棺に納められたのか、、、興味は尽きません。

大エジプト博物館(15)
ツタンカーメンのミイラの胸元に置かれていた王家専用の装飾首飾りで、死後の王を神として守護し、永遠の生命を象徴する儀礼用の胸飾りです。

両端の隼の頭はホルス神で、オシリス神となった王を守護する存在として表されています。
この首飾りはミイラの胸部、、、来世で審判を受ける最重要器官である心臓――を守る役割を担っていました。

エジプトの王や貴族にとって現世は限られた時間で、死後こそが永遠の人生であるという思想をよく示しています。

大エジプト博物館(16)
ツタンカーメン王墓(KV62)から出土した6台の戦車のうちの1台で、儀礼用・狩猟用・軍事用のいずれかに使われたと考えられています。

死後の世界は「生前の延長」とされ、王は来世でも戦車を必要とすると信じられていました。これは実際に使用されたものが副葬されたとみられています。

ボクは戦車の性能を左右する軸受けをじっくり観察したわけですが、潤滑には動物性の脂が使われていたとありましたが、構造上ごく短距離しか走れなかったと思います。

大エジプト博物館(17)
副葬品の中には枕と儀礼用ベッドがあります。
枕は日本の江戸時代にあった、いわゆる「首枕」です。

ただし、日本の首枕は髪型を崩さないために使われたのに対し、エジプトでは風通しを良くして涼により、安眠を得ることが目的でした。
ベッドは今見ても使えそうなほどモダンなデザインです。

全て実際に使用されていたものと同じ作りで、当時の暮らしぶりをよく示しています。 どれも見事な出来栄えで、とても2300年前の品とは思えません。

大エジプト博物館(18)
大量のサンダルです。様々な種類があって、草草履(パピルス・葦製)、革製、ファラオ専用として金箔・金糸入りなどがあります。ツタンカーメンのサンダルには、実際に履いていた痕が複数確認されており、これらは科学的に分析されています。

・現代人と同じ、踵接地型の歩き方
・足の内側に体重がかかる歩き方(軽い内股傾向)
・左右の摩耗の差が大きい(左足に障害)
・革紐の穴の伸び(足の甲が高かった可能性)

何千年前の人の特徴が浮かび上がってきますね。

大エジプト博物館(19)
軍隊の部隊指揮、儀礼用に使うラッパです。銀製と、銅製の2本が発掘されました。写真は4本ありますが、2本はそれぞれのレプリカです。

銀はエジプトでは金より貴重で、儀礼用に使われたのはこちらではないかと推測されています。

現存する最古級の金属製トランペットで、何と1939年に英国軍楽隊の軍曹が吹き、世界中にラジオ放送されたそうです。ラッパはその後破損、再演は不可能になりました。

大エジプト博物館(20)
これはアヌビス神(死者の守護神・ミイラ作りの神)を象った厨子で、ツタンカーメンの墓室を“守る番犬”です。

ツタンカーメンの墓では、このアヌビス像は 入口近くの通路に置かれており、墓荒らしを威嚇する、王のミイラを守る、冥界への旅を導く、という役割があるという説明でした。

デザインの完成度は見事としかいいようがなく、ボクはしばしこの前で見入ってしまいました。静止しているのに、今にも動き出しそうな緊張感を伝えるこの犬、芸術は3000年の時空を飛び越える、そう思いました。

大エジプト博物館(21)
GEMの3階(LEVEL3)にはギザのピラミッドを望む絶好の窓があり、左にクフ王の大ピラミッド、右にカフラー王のピラミッドが見えます。

展示の圧倒的な迫力に半ば酔うような感覚になり、そのまま窓越しにピラミッドを眺めると、これだけでエジプトに来た価値があると感じます。

GEMは単なる博物館ではなく、“古代エジプト文明を身体で浴びる建築”として建てられ、そして窓からは本物のピラミッドが見れる、、、見事な設計です。

大エジプト博物館(22)
GEM(大エジプト博物館)は、世界有数の博物館の仲間入り、デビューを果たした、これは間違いありません。

NYのメトロポリタン美術館、シカゴ美術館、大英帝国美術館、故宮博物館、フランスのルーブル、その他イタリア、チェコ、ドイツ、スペイン、ハンガリー、、、ボクは世界各国の美術館・博物館に行く機会がありましたが、GEMがこんなに素晴らしいとは思ってもいませんでした。

見学のあと土産物屋に寄ってみましたが、感激が大きすぎると土産など買う気にならないのですね、ホントに。

サラーフッディーン城塞
カイロの丘に築かれた「サラーフッディーン城塞」は、12世紀に十字軍に備えて造られた中世イスラムの要塞です。
2枚目の写真は、その内部にある19世紀建立のモハメッド・アリ・モスクで、この頃のエジプトはオスマン帝国の支配下にありました。

エジプトがイスラム教国家となったのは7世紀、アラブ軍の征服によるものです。
中世の城塞と近代のモスクが隣り合うこの場所は、GEMで見た古代世界から一気に数千年をワープしたような感覚を与えてくれました。

エジプトの小学生たち
見学を終えて駐車場へ向かう途中、先生に引率された小学生の団体がバスから降りてきました。
エジプトは中学校までは多くが男女共学で、高校になると別学が増えるとナグラーさんが教えてくれました。

女の子の方が背が高く、男の子はまだ幼く見えます。
ちょうど11〜12歳の成長差が出る時期なのでしょう。おそらくサラーフッディーン城塞の社会見学です。

ミイラや古代遺物ばかり見てきた目には、こうした“現代のエジプトの子どもたち”がとても新鮮でした。

ハーン・ハリー市場(1)
14世紀に成立したカイロ最古のバザールで、イスラム地区の中心にあります。
通路は迷路のようで脇道も多く、表通りは観光客向けの店ばかりですが、奥へ入ると地元の人が日用品を買いに来る店が並びます。

私とカミさんで少し奥へ入ってみると、カフェの客は全員地元の人でした。治安は悪くないものの、スリやぼったくり、強引な客引きは普通にありそうです。
その後、ナグラーさんに案内され、日本人観光客御用達の店に入りました。

ハーン・ハリー市場(2)
1枚目は日本人御用達の土産物屋、2枚目は普通の土産物屋で、品揃いが見事に違いますね。

日本人用の店はパッケージが統一され、ショールーム的な陳列、値段はきっと高め、値段交渉なし。ガイドにきっちりとマージンが入るお店ですね。(ナグラーさんはニコニコ顔)

一般観光客用はバザール型、と言えます。山積、雑然、値引き交渉あり、全般的に安い(と、思う)。
最近はどこに行っても土産物は1点か、2点くらい。全部自分用です。

ハーン・ハリー市場(3)
1枚目の写真は表通りの店で、観光客もいますが地元の人も多く見かけます。

ナグラーさんによれば、ここは地元の人も普通に買い物に来る場所だそうです。
持ち物が少なく買い物袋を下げているのが地元の人、リュックでキョロキョロしているのが観光客という感じです。

日本では観光客と地元客の両方を相手にする店は、あまり見かけません。
ボクはこういう場所をブラブラ歩くのが大好きです。

ハーン・ハリー市場(4)
アラビアンナイトに出てくる典型的な魔法のランプ、あちこちの店で見られました。でもチョット待てよ、、、アラビアンナイトはエジプトとは関係ないだろう?

世界の人はアラジン、魔法のランプ、砂漠、ラクダ、ピラミッド、アラビア語、ベリーダンス、つまりエジプトは中東っぽい中に含まれているのです。

ボクは若い時、アメリカ・カナダに行って、日本・中国・香港を一括りにしている人が多いのに驚いた事がありますが、これと同じようなものですね。

カイロ市内(1):カイロ中央駅付近
空港に行く前にバスでカイロ市内をグルグルまわって車窓からの見学です。
これは高架道路の上からの撮影ですが、確か「ラムセス中央駅」付近という説明だったと記憶しています。

ラムセス中央駅はカイロの「ハブ駅」でここを起点に各地に鉄道が延びています。
写っているのは露天商で、雨が少ない、というより年中降らないので、露天商が盛ん、、、だと思います。

ビデオ:カイロ市内(1)

カイロ市内(2):オペラ広場付近
オペラ広場、、、というのが記憶にあったので、そこで見た像について調べてみました。
これはイブラヒム・パシャという人物の像で、19世紀のエジプト軍を率いた名将、 シリア遠征などでオスマン帝国に対抗した人です。
街の雰囲気はこれは20世紀初頭の、カイロのヨーロッパ風の都市計画の名残です。

2枚目はカイロの典型的な顔で、カイロ2000万都市の生活のリアルが伝わってくる感じです。
ビデオ:カイロ市内(2)

カイロ市内(3):カイロの生活
カイロ旧市街の、ごく普通の通りで1階は商店、2階は住居で、人と車が行き交います。中心部でもこういう密度の高い生活空間が延々と続きます。

2枚目は旧市街(イスラム地区)に入る典型的な”門”の様子です。これは旧市街の商業ゾーンへ入る“境界” のような場所で、 カイロではこうした「門+市場」の構造が多い、となっています。
カイロ市内をバスで巡った中で、ボクは信号機を見かけませんでした。(実際はいくつかあるそうですが)
ビデオ:カイロ市内(3)

カイロ市内(4):カイロの生活
大量の絨毯のような積み荷の上に人が乗って、移動。その向こうにはバルコニーだらけの中〜高層住宅。

バスの車窓からの市内見学で、生活の臭いを写真に収めようとしましたが、この程度が限界でした。

2枚目でもわかるとおり、カイロは物流道路・生活街・商業街がどこに行っても混在で、人口密度の高さからなのか、どの生活道路にも必ず住宅の壁が迫っていましたる

ビデオ:カイロ市内(4)

カイロ国際空港に着きました
エジプトに来て9日目、いよいよ帰路につきます。空港は近代的で綺麗ですが、カウンターの効率が悪く、CクラスのカウンターにYクラスの客が並ぶなど雑然としていました。

ここで、ツアー初日から今日まで案内してくれたガイドのナグラーさんともお別れです。

今回の見学を通じ、エジプト旅行はガイドの説明なしでは見学地での理解が難しく、個人旅行では移動も困難・非効率なのがよくわかりました。


ナグラーさん、本当にありがとうございました!!

カイロからドーハ
ドーハまでは4時間弱のフライトです。Cクラスの席は利用率50%ほどでしょうか。
ここで最後のエジプト風の機内食を頂きました。油気が強く酸味があり、香辛料は香るが辛くないという、なかなか特徴的な味でした。
エジプトでは米料理も普通に出ますが、インディカ米を油で炒めてから炊き、香辛料を効かせて食べます。

久しぶりにワインも頂き、ようやく一息。ツアー中は液体燃料をゆっくり楽しむ時間はなく、ビールを1本さっと流し込む程度でしたからね、、、。

ドーハ国際空港から成田へ
このターミナルを結ぶ動く歩道を見ると、45年前にシカゴ・オヘアで体験した“SFのような地下通路”を思い出します。あのネオンの通路は当時のボクには衝撃でした。

ドーハの通路は構造こそ似ていますが、雰囲気はまったく異なります。木目の天井に光のアイコン、並ぶ国旗。派手さより落ち着きと品格があり、空港全体がキラキラしつつ重厚さを保っています。
ここでは空港が単なる移動の場ではなく、旅の質を高める“空間”として成立しています。日本の空港には、この雰囲気はほとんどありません。

成田から都内で一泊
10日目の1800、成田空港に無事戻ってきました。
入国手続き、スーツケースの発送など1900頃に終了、添乗員さんと皆さんにお別れして、都内のホテルまで。

そのままでも帰宅はできない事はなかったのですが、ホテルでゆっくりして翌日帰る事にしてありました。

2100頃、遅めの夕食、ホテル近くのいつもの寿司屋に行って、済ませました。
刺身で頂く日本酒は五臓六腑に染み渡りました。やっぱりボクは日本人であります。

東京から名古屋経由、鈴鹿まで
翌朝はゆっくりと東京から名古屋まで。名古屋駅に着いた頃がちょうどお昼の時間です。

ま、せっかくだから(何がせっかくなんだ?)ウナギでも食べていこうと、これもいつものうなぎ屋へ。
ボクは丼が出てくるまでの間、お銚子を1本だけ頂くことにしていますので、このルールを遵守しました。

新幹線の中、近鉄特急の中でアラビア文字のペットボトルの水を飲みながらカミさんと旅の思い出を語りながら、、、。
いい旅でした。

会社のYさんの一言がきっかけで訪れたエジプト。予想をはるかに超える充実した旅でした。途中いくつかハプニングもありましたが、こういう出来事こそ旅の記憶を強くしてくれるものです。

今回は成田発のツアーだったので、メンバーは僕ら以外は全員が関東圏からの参加だったと記憶しています。ツアーではいろんな人との出会いもあり、これも旅の楽しさの一つでした。

4000年前に存在した、あの信じられないほど高度なエジプト文明。では、なぜ滅んだのか。冷静(のつもり…)に考えると、「産業(農業)の崩壊」、「官僚組織の腐敗」、「軍事的防衛力の低下」に行き着きます。

逆に2000年以上続いた理由は、これも「強力な産業(農業)」、「強固な行政システム」、「強固な軍事的防衛力(外敵が侵入しにくい地理)」
これは現代国家の成立条件と同じで、今回の旅でそれを“目で見て、肌で感じて、話を聞いて”実感しました。

エジプトツアー、本当に充実してました。95点、いや98点でした!