| エジプト旅行(3):2025/12/9〜12/18 |
| エジプト旅行も後半に入り、出発地のカイロへ戻ってきました。 日本発のエジプト旅行で最も一般的なのは5〜6日間のコースで、カイロ(ギザのピラミッドと博物館)と、早朝・深夜便を使ったルクソール日帰りが中心です。 この場合、アレクサンドリアまでは足を延ばせません。私たちの旅程は10日間だったため、少し余裕を持って南端のアブシンベル・アスワンから、北端のアレクサンドリアまでを巡ることができました。最後の2日間は、ハイライトであるアレクサンドリアとカイロを、これも比較的ゆったりと見学することができました。 |
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カタコンベ(3) | |
| 埋葬区画に入ると、人骨などがまとめて展示されています。 この8日間で墓・人間の乾物(ミイラ)などを散々見てきたので、これくらいの展示ではもうビクともしません。 共同埋葬区画には四角い穴が並んでおり、そこに遺体を収めました。遺体はミイラ化されたものと、そうでないものが混在していたそうです。遺体の前では“死者供養の宴”で、飲食がされていたとのこと。 その先は、あまり深く考えないことにしました。 ビデオ:埋葬室付近の別なシャフト |
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セラピウム遺跡(1) | |
| カタコンベから500mほどの場所にある広い遺跡で、周囲は市街地や商店街に囲まれています。 写真のこの柱は、ローマ皇帝ディオクレティアヌス(在位284〜305年)を記念して建てられ、高さ約30m。 花崗岩の一本柱としては世界最大級との説明でした。 「なぜエジプトにローマの記念碑が?」と思いましたが、当時のエジプトはローマ帝国の属州。 エジプトで起きた反乱を鎮圧した皇帝を讃・記念して、この柱が建てられたそうです。 |
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| アレキサンドリアの海(1) | ![]() |
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| アレキサンドリアは紀元前4世紀にアレクサンドロス大王が建設し、その後ギリシャ・ローマ・イスラム・オスマン、そして近代エジプトへと支配者が入れ替わってきた都市です。 そのため、市民は今でも“エジプト人”というより“アレキサンドリア人”という強いアイデンティティを持つ人が多いそうです。 写真の後ろに見える塔は、カイトベイ要塞の前面にある前哨監視塔で、本体のカイトベイ要塞は15世紀に建てられた美しい要塞です。(2枚目) ビデオ:アレクサンドリアの海岸(1) |
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アレキサンドリアの海(2) | |
| 海は深い青で、近くには多くの漁船が停泊していました。 この8日間、岩と砂漠と石ばかりを見続けてきたので、海の碧さが本当に目に沁みます。 ボクは三重県松阪市の漁師町の生まれで、唱歌『我は海の子』は自分のための歌ではないかと思うほど、海のそばで育ちました。 だからこそ、海を見ると心の底から何とも言えない“ほっとした気持ち”になるのです。 ビデオ:アレクサンドリアの海岸(2) |
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| ランチで入ったレストラン(1) |
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| ツアー中の昼食はいろいろなレストランに入りましたが、私はこうしたツアーの食事にはあまりこだわらず、と言うか、さっと済ませたい方です。 これまでで最も効率が良かったのは、アメリカのグランドサークルの旅。 スーパーで総菜を買い、走るバスの中で食べるという方法でした。 今回のツアーも各地のレストランで食事をしましたが、どれも可もなく不可もなく、といった印象でした。 |
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グレコローマン博物館(2) | |
| プトレマイオス朝の約400年間は、それまでの古代エジプトとはまったく異なる“ギリシア文明の王国”でした。 行政・軍事・学術のすべてがギリシャ式に再編され、言語もギリシャ語が公用語となり、エジプト語は農民などが使うローカル言語へと押しやられました。 支配階級はギリシャ人、エジプト人は被支配階級という構造で、近代の植民地支配に近い状況だったと言えます。 それ以前はペルシャの支配下にあったため、エジプトにとっては“支配者が変わっただけ”とも言えますが、その背景にあったのは圧倒的な軍事力の差でした。 入口にはファラオ像が立っていますが、これはギリシャ人が“ファラオのコスプレ”をしたわけではありません。 エジプトを統治するにはファラオとしての権威が不可欠だったため、ギリシャ人王がファラオの姿を取った、、、。 つまり“ギリシャ人ファラオ”だったということです。 |
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| グレコローマン博物館(5) | ![]() |
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| 最初は「横になった布袋様か?」と思ったのですが、これも全くのハズレ。 像は饗宴の席で横たわる上級市民・貴族を表した像で、ギリシャ・ローマ時代の作品です。 当時、横になって飲食できるのは富裕層だけで、左手には取っ手付きの杯、右手にはパンのような食べ物です。 こうした姿勢でワインを飲みながら、哲学・政治・詩・女性・人生、そして下ネタまで、あらゆる話題を仲間と語り合ったそうです。 今とほとんど変わりませんね。 |
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| カイロに戻りました | ![]() |
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| 1950年に約150万人だったカイロ都市圏の人口は、現在では2000万を優に超えています。 カイロには一貫した都市計画がほとんどなく、人口増加に後追いで対応してきた結果が現在の姿で、今後も改善は見込みにくいと言われます。 国家人口の約2割以上がカイロに集中しており、この傾向は今も続いていくようです。 私にはそのスケールが、なかなか想像しにくいというのが正直なところです。 ビデオ:カイロの夜景 |
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| 大エジプト博物館(2) | ![]() |
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| 日本は特に、建築と遺物保存の高度な技術移転に大きく貢献しており、GEMは日本の資金と技術で完成したと言っても過言ではありません。 技術移転では、日本の専門家120名が20年にわたりエジプト人技術者2500名を育成しており、これこそが最大の貢献だとされています。 建物は三角形のデザインで、ピラミッドの幾何学を抽象化した“現代的記号”として設計されている、との説明でした。 |
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| 大エジプト博物館(10) | ![]() |
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| いよいよツタンカーメン王墓のエリアです。 棺の構造は模型で示されており、厨子4重→石棺→棺3重→ミイラという順です。 厨子は神を祀る小神殿で、王の遺体を神域として封じ、多重化することで守護力が高まると考えられていました。 構造はまさにマトリョーシカで、「王の遺体を守る多重防御構造」と言えます。2枚目の写真は、4つの厨子のうち外から2番目と3番目が写っているはずです。 |
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大エジプト博物館(20) | |
| これはアヌビス神(死者の守護神・ミイラ作りの神)を象った厨子で、ツタンカーメンの墓室を“守る番犬”です。 ツタンカーメンの墓では、このアヌビス像は 入口近くの通路に置かれており、墓荒らしを威嚇する、王のミイラを守る、冥界への旅を導く、という役割があるという説明でした。 デザインの完成度は見事としかいいようがなく、ボクはしばしこの前で見入ってしまいました。静止しているのに、今にも動き出しそうな緊張感を伝えるこの犬、芸術は3000年の時空を飛び越える、そう思いました。 |
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| 大エジプト博物館(21) | ![]() |
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| GEMの3階(LEVEL3)にはギザのピラミッドを望む絶好の窓があり、左にクフ王の大ピラミッド、右にカフラー王のピラミッドが見えます。 展示の圧倒的な迫力に半ば酔うような感覚になり、そのまま窓越しにピラミッドを眺めると、これだけでエジプトに来た価値があると感じます。 GEMは単なる博物館ではなく、“古代エジプト文明を身体で浴びる建築”として建てられ、そして窓からは本物のピラミッドが見れる、、、見事な設計です。 |
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エジプトの小学生たち | |
| 見学を終えて駐車場へ向かう途中、先生に引率された小学生の団体がバスから降りてきました。 エジプトは中学校までは多くが男女共学で、高校になると別学が増えるとナグラーさんが教えてくれました。 女の子の方が背が高く、男の子はまだ幼く見えます。 ちょうど11〜12歳の成長差が出る時期なのでしょう。おそらくサラーフッディーン城塞の社会見学です。 ミイラや古代遺物ばかり見てきた目には、こうした“現代のエジプトの子どもたち”がとても新鮮でした。 |
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| ハーン・ハリー市場(3) | ![]() |
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| 1枚目の写真は表通りの店で、観光客もいますが地元の人も多く見かけます。 ナグラーさんによれば、ここは地元の人も普通に買い物に来る場所だそうです。 持ち物が少なく買い物袋を下げているのが地元の人、リュックでキョロキョロしているのが観光客という感じです。 日本では観光客と地元客の両方を相手にする店は、あまり見かけません。 ボクはこういう場所をブラブラ歩くのが大好きです。 |
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| カイロ市内(1):カイロ中央駅付近 | ![]() |
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| 空港に行く前にバスでカイロ市内をグルグルまわって車窓からの見学です。 これは高架道路の上からの撮影ですが、確か「ラムセス中央駅」付近という説明だったと記憶しています。 ラムセス中央駅はカイロの「ハブ駅」でここを起点に各地に鉄道が延びています。 写っているのは露天商で、雨が少ない、というより年中降らないので、露天商が盛ん、、、だと思います。 ビデオ:カイロ市内(1) |
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カイロ市内(2):オペラ広場付近 | |
| オペラ広場、、、というのが記憶にあったので、そこで見た像について調べてみました。 これはイブラヒム・パシャという人物の像で、19世紀のエジプト軍を率いた名将、 シリア遠征などでオスマン帝国に対抗した人です。 街の雰囲気はこれは20世紀初頭の、カイロのヨーロッパ風の都市計画の名残です。 2枚目はカイロの典型的な顔で、カイロ2000万都市の生活のリアルが伝わってくる感じです。 ビデオ:カイロ市内(2) |
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| カイロ市内(3):カイロの生活 | ![]() |
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| カイロ旧市街の、ごく普通の通りで1階は商店、2階は住居で、人と車が行き交います。中心部でもこういう密度の高い生活空間が延々と続きます。 2枚目は旧市街(イスラム地区)に入る典型的な”門”の様子です。これは旧市街の商業ゾーンへ入る“境界” のような場所で、 カイロではこうした「門+市場」の構造が多い、となっています。 カイロ市内をバスで巡った中で、ボクは信号機を見かけませんでした。(実際はいくつかあるそうですが) ビデオ:カイロ市内(3) |
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カイロ市内(4):カイロの生活 | |
| 大量の絨毯のような積み荷の上に人が乗って、移動。その向こうにはバルコニーだらけの中〜高層住宅。 バスの車窓からの市内見学で、生活の臭いを写真に収めようとしましたが、この程度が限界でした。 2枚目でもわかるとおり、カイロは物流道路・生活街・商業街がどこに行っても混在で、人口密度の高さからなのか、どの生活道路にも必ず住宅の壁が迫っていましたる ビデオ:カイロ市内(4) |
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| 会社のYさんの一言がきっかけで訪れたエジプト。予想をはるかに超える充実した旅でした。途中いくつかハプニングもありましたが、こういう出来事こそ旅の記憶を強くしてくれるものです。 今回は成田発のツアーだったので、メンバーは僕ら以外は全員が関東圏からの参加だったと記憶しています。ツアーではいろんな人との出会いもあり、これも旅の楽しさの一つでした。 4000年前に存在した、あの信じられないほど高度なエジプト文明。では、なぜ滅んだのか。冷静(のつもり…)に考えると、「産業(農業)の崩壊」、「官僚組織の腐敗」、「軍事的防衛力の低下」に行き着きます。 逆に2000年以上続いた理由は、これも「強力な産業(農業)」、「強固な行政システム」、「強固な軍事的防衛力(外敵が侵入しにくい地理)」。 これは現代国家の成立条件と同じで、今回の旅でそれを“目で見て、肌で感じて、話を聞いて”実感しました。 エジプトツアー、本当に充実してました。95点、いや98点でした! |