英国についてー2(2022−10ー06)
英国そして欧米諸国が、かつて世界中を植民地にした事を、アジアを例にイメージを作るのは簡単である。それは大東亜戦争が起きる前のアジアの地図を見るだけでいい。
フィリピン全土は米国の植民地、インドシナ半島の東側はフランス領、ここの西側からトルコに至る広大な地域は全部英国の植民地である。

支那は19世紀から20世紀にかけて英仏露独に侵略され半植民地となり、当時アジアでまともな独立国は日本とタイくらいである。白地図の上で、日本とタイを赤鉛筆で塗って他は全部植民地、と見れば一目瞭然である。
日本は昭和20(1945)年から昭和25(1950)年の間を除き、独立を失った事はない。

日本は過去に何度も危機的な状況に陥ったが、その中のひとつが明治維新直前にイギリスに領土の一部を割譲、つまり取られそうになった事がある。

文久元(1864)年の下関戦争で英・仏・蘭・米国に敗れた長州藩は、イギリスから彦島(下関)の割譲を迫られたのである。

この時イギリス側と交渉をしたのが高杉晋作(25才)、補佐として大村益次郎と伊藤博文がいた。彦島は11kuの小さな島である。
ボクはこの辺はよく知っている所であり、2年前にも横にある巌流島に行った。

高杉晋作他は英国に占領された香港をはじめ、欧米に食い荒らされていた支那がどういう状態になっていたのかをよく知っており、当時は幕府・各藩、その中の開国派も攘夷派も皆同じ認識にあったのは注目点である。

交渉前に藩主から「領地の租借はやむなし」という意思表示があったというが、高杉晋作は他の多くの条件を呑み、そして責任を幕府に転嫁したりして、英国の要求を最後まで拒否した。

この交渉に破れていれば、彦島は香港島のようになっていた可能性がある。今流に言えば25才の青年が、世界一の大国英国を相手に日本を救ったのである。

明治維新後の日本の英国との関係は更に深い。明治政府は海軍の強化に力を入れたのであるが、日本海軍は英国海軍のコピーとされる。日清・日露戦争で戦った主要艦艇は全て英国で建造された艦である。現在横須賀にある戦艦三笠は英国ビッカース社で建艦された。

何十隻もの戦艦、巡洋艦の建造を英国に発注、延べ何千人の回航要員としての海軍将兵が英国に行き、そして何ヶ月も滞在し、受領した艦と共に帰国をしている。

ボクは福岡に住む80才を越えた医者と、ちょっとしたきっかけで知り合いになった時、その先生の奥さんの曾祖父(軍医)が、ある戦艦の受領・回航員で英国に行っていたというのを教えてくれた。

調べるとその方は後日、艦長などと一緒に高位の叙勲を受けていた。
先生は義理の祖母(軍医の娘さん)が時々、英語の歌を唄っていたのを覚えているそうだ。父親から教わったのであろう、ということだった。

英国では艦の烹炊(炊事)兵がシチューの作り方を覚え、これを日本までの航海中に艦で作った。
ところが人気はイマイチ

そこで牛乳の代わりに、醤油と砂糖で味付けをしたところ大好評、つまり「肉じゃが」というレシピの誕生は英国からの回航中の戦艦の中である、そうだ。

カレーライスも本などには「英国から伝わったもの」と素っ気なく記述されているが、英国のカレーシチューを日本海軍の兵隊が御飯に載せて食べるようになったのが起源とされ、その後シチューが日本風にアレンジされていった。

その他スープ、各種肉料理など、そしてテーブルマナーも英国から日本海軍が持ち帰った。海軍の烹炊下士官の多くは退役後シェフとなり、昭和初期まで帝国ホテル他の日本の一流ホテルのシェフは海軍出身であった。

注目すべきは回航要員は3人とか5人ではなく、延べ数千人のあらゆる階級(士官から下士官兵まで)の人が行った、しかも限られた期間で、といういう点だ。

彼らは一部の高級士官を除き、一般の日本人であった。休みには小旅行をしたり、一般の英国人との触れ合いも多かった。
東洋の小さな国から来た小柄な将兵達は規律正しく清潔で、英国人は驚いたという。

ボクは彼らが英国に残した日本人像を少し調べたが、今の我々が見習うべきものが多いような気がする。
造船所のあった町には日本風にデザインした大きな塔が残っている。

日本海軍は軍艦発注を通じて造船技術も学び、それを発展させて1960年代には世界一の造船国となった。

現代の我々の生活の中でそのオリジン(起源)を辿っていくと英国に突き当たるものがたくさんある。
これらの多くは1800年代後半から1900年代初期に、日本海軍が日本に持ち帰った英国の技術、文化である。

ボクは先日、東京に残る旧岩崎邸、旧古川邸等を訪れる機会があったが庭、建物、特に内装は完全な英国風であった。それもそのはず、設計は明治以降の日本建築の基礎を築いたジョアイサ・コンドルという英国人であった。赤坂離宮の設計者である、片山東熊の師匠もジョアイサ・コンドルである。

日本と英国はその外交方針における利害関係が一致し、1902年に日英同盟を結んだ。
1904年からの日本の国運をかけた日露戦争、その中で日本の勝利を決定的にした日本海海戦は、日英同盟がなければ勝利はなかった可能性が高い。

ロシアのバルチック艦隊は、ウラジオストック目指して7ヶ月の大航海を行った。
その航海の中で、艦隊は英国による数々の妨害を受け、大きな問題を抱えたまま対馬沖で、日本海軍の連合艦隊と戦ったのであった。

まずロシア艦隊はスエズ運河の通過を制限され、主力は喜望峰経由の航路をとらなくてはならなかった。
地図を見ればわかるとおり、これはとてつもない遠回りの航路であった。

これで3ヶ月間は航海が伸びた。英国は当初、スエズ運河のロシア艦隊への制限を渋っていたが、日本の巧みな外交によりこれを行わせた。

次にマダガスカル他の寄港地では、英国による石炭搭載の妨害を受けた。
ロシア艦隊は現地での作業員の拠出を拒否されたので、過酷な作業を乗員が行わなくてはならなかった。また英国の妨害によって、良質な石炭の補給ができなかった。

ロシア艦隊は寄港先での乗員の上陸も拒否され、食料搭載も腐敗寸前の肉が積まれたりしたため、乗員の不満は極限に達し、命令不服従・上官反抗などの重大な軍紀違反が頻発した。

艦隊にはドイツ人技師が乗艦し、最新式のドイツ製無線電信機の運用指導を行っていた。

しかしドイツ人達は乗員の士気の低下と規律の乱れを見て、自らの危機を察しマダガスカルで下船したので、艦隊の多くの無線電信機は使えなくなってしまった。

シンガポールでは予定していた艦底の牡蠣落としが英国の拒否で実施できず、このために艦の速力が大きく落ちたまま対馬海峡に向かった。

世界の国と海を制覇している当時の英国の力は強大で、この国との同盟とはかくの如しであった。

速力の遅い艦と、乗組員の志気が完全に低下していたロシア・バルチック艦隊。
これに対し最新鋭の英国製の艦と徹底した訓練を受けた将兵が乗る日本艦隊。加えて日本艦隊は日本が発明した高性能火薬(下瀬火薬)、不発の少ない信管(伊集院信管)、無線電信機(36式無電機)、高効率機関などの技術的優位性も高く、海戦は日本の完勝となった。

これらは当時戦艦三笠に乗艦していた、アルゼンチン海軍観戦武官の本国への報告書を読むと、実によくわかる。日露戦争の勝敗を決定的にした日本海海戦の勝利は、英国なしに有り得なかった。これに反論する人はいないと思う。

日英同盟は1902(明治35)年に結ばれ、その後更新されたが1923(大正12)年に解消された。廃止の理由はいろいろあるが欧米と日本の利害の対立から、日英同盟の廃止を望む米国の意志が強く働いた、と言うのが一番大きい要素である。

英国は米国から日英同盟廃棄の圧力を散々かけられており、米国の誤解を避けるため英国は米国に配慮して、これに従うしかなかったという。

日英同盟解消の中の特記事項として、第一次大戦後にできた国際連盟に対して日本が提出した「人種差別撤廃提案」が否決された事も大きかった。英国は日本に賛成はしていない。

明治以降英国は様々な面の先生であったのは確かで、特に日英同盟の20年間は、日本にとって非常にいい時代でもあった。日英同盟破棄の後、日本はドイツと接近、破滅への道を歩んだのである。

実は日本とドイツは過去も、そして現在も相性は良くない、というより悪い。ボクは常々感じている。

日本と英国が同盟関係を維持していればどういう世の中になっていたか、夜中に書斎から遠くの灯りを見てウイスキーを舐めながら、こういう事を考えるのもボクの趣味、、、かも。

ちなみにボクがオハイオで住んでいた市名は、英国と仲の悪いアイルランドの首都名と同じダブリン(Dublin)で、アイルランドからの移民が作った町だった。