スペインの旅(1):2024/06/25〜07/04
私はヨーロッパは出張・個人旅行で17カ国を訪れていますが、スペインには行った事がなく、以前から一度行ってみたいと思っていました。
そこで2020年6月にスペイン旅行を計画していたのですが、3月頃からコロナが世界的に流行を始め、やむなくキャンセル。結局再度計画を立て直して今回の訪問まで4年を待つことになってしまいました。

ヨーロッパの中ではフランス・イタリア・スペイン・ポルトガルは歴史、言語からラテン系、ドイツ以北はゲルマン系でラテン系とは違う、歴史・文化があります。
私はそれまでゲルマン系文化圏の国とは仕事でも、旅行でも割と関係があったのですが、ラテン系の国というのは身近に接する機会がありませんでした。

今回極めて短期間の旅行ではありましたが、やっと念願のスペインを訪れる事ができたので、その様子のハイライトをまとめてみました。

さあ、出発:1日目
出発は中部セントレア空港。
スーツケースは2日前に宅急便にて空港に送ってあるので、これを受け取って旅行会社のカウンターに行って説明とチケットを受け取り、航空会社のカウンターへ。

今回はCPA(CATHY PACIFIC:キャセイ・パシフィック)で私は初めてのエアーラインです。
カミさんは以前にドバイに行ったときに乗ったそうで、悪くはないと言ってましたが、果たしてどうか。

ラウンジは例の共用のショボい感じのところでした。

先ずは香港まで:1日目
香港までは4時間。
今回のツアーは19名と人数が多く、13名がビジネスクラス、4名がプレミアム・エコノミー、2名がエコノミー・クラスという乗機区分でした。

機体はエアバスA330−300というワイドボディーで、ビジネスは1X2X1の4席が8列で32席。
座席はフルフラットになるので、広さは別として一昔前のファーストクラスと同じです。

ちょっと液体燃料を注入すれば、ぐっすりと寝れます。

マドリッドまでの長いフライト:1日目
スペイン・マドリッドまでは先ず香港に向かって4時間、ここで5時間のトランジット、更に香港からマドリッドまでは14時間30分の長旅です。

それぞれのフライトでフルコースが1回、マドリッドまでのフライトは朝食も出ますし、香港のトランジットでもラウンジで何か食べるので、食べる量を調整しないとお腹の調子がおかしくなります。

メニューは中国語と英語で、日本語はありません。朝食は5種類から、飲み物も8種類から選びます。

香香港国際空港:1日目
現役時代は飛行機に乗るのは”移動手段”で、それ自体を”楽しむ”というのは殆どありませんでしたが、こういう旅行では違います。
飛行機に乗って世界中の空港を見たり、ラウンジに入って食事をしたり一杯やる、これらも十分な旅の一部なので、楽しみます。

香港はこれで3回目で、トランジットでは初めてです。空港は大きく、端から端まで歩くと20分くらいかかります。

ラウンジも3カ所あり、時間があったので全部廻ってみました。若い中国人の利用者が目立ちました。

カスピ海、黒海を抜けて地中海:2日目
機はやがてカスピ海から黒海に入ります。
そうです、この北の方では今もウクライナは必死の祖国防衛戦を戦っており、この南ではハマスが何十万人もの民間人を盾にイスラエルと戦争をしているのです。

朝食はお腹にやさしい、中華式のおかゆを食べました。ショウガとネギのきざみが入っていて、さっぱりとしておいしかったです。

機はやがて地中海に入り、スペイン・マドリッドは間もなくです。

マドリッド到着:2日目
空港の名前は正式には「アドルフォ・スアレエス・マドリッド・バラハス空港」というそうで、ここのターミナル4のサテライトに到着しました。
イヤ〜、でかい空港です。
これからいくと成田とか羽田などは、規模だけの比較ではここの足元にも及びません。

ターミナル4とそのサテライトは国際線専用で、ワンワールド加盟エアーラインとイベリア航空が使っています。
入国審査は40分程並ばされました。

マドリッドからグラナダへ:2日目
空港で入国審査、荷物の受け取りを済ませ11:00、待っていたバスに乗ります。
バスは大型でひとりで2席、ゆったりです。
この日は400km南のグラナダまで向かいます。

空港からフリーウエーで郊外に出ると、赤茶けた土地と草原が拡がり、緑色をした低木が無限に植えられています。これらは全てオリーブの木で、広々とした風景が広がります。
オリーブは乾燥に強く、日当たりのいいところを好むそうで、スペインにはピッタリの木というか、作物なのです。

コンスグエラ(1):2日目
空港を出てから2時間弱、人口8000人の”コンスグエラ”という村でバスを降りて、昼食。
レストランに行き着くまでに行き交った人はなく、数台の車とすれ違っただけでした。

家々の窓は頑丈なブライドで閉められており、中はおろかガラス窓さえ見えません。

我々の感覚でいくと空き家そのものですが、これは家の中への熱風の侵入を防ぎ、そして遮光をする事によって室内の気温を上げないためです。

コンスグエラ(2):2日目
レストランはわかりにくいところにあり、日本のような看板は一切なく、案内なしで行き着けるかどうか。
簡単なスペインの田舎料理を頂きました。

中庭では10人くらいの地元風ではないグループが食事をしており、トイレに行った時にすれ違ったご婦人にどこから来たのか聞いてみたところ「マドリッドから来ました」、という返事でした。

食事を終えてレストランを出ましたが来たときと同じく、人と行き交うことはありませんした。

ラマンチャの風車(1):2日目
”ラマンチャの風車”として最も有名な風車がコンスグエラ村の郊外にあります。
風車は11基あり、最も高い丘の部分には6基があり、1基は中も見えるようになっていました。

これらは16世紀〜19世紀、つまり日本の江戸時代に作られ、穀物の粉轢きに使われていました。

風車群はセルバンティスの小説「ドン・キホーテ」に登場する事で有名で、レストランで会ったマドリッドから来たグループもこれを見に来たのでしょうか。

ラマンチャの風車(2):2日目
風車の丘からの風景は、恐らく何百年も前と大きくは変わらないだろう、と思いました。

赤い大地と緑に見えるのは葡萄畑でしょうか。しばらく道路を見ていましたが、車が通ることもなく、本当にスペインの田舎風景です。

夏の間、特に7月は雨が少なく乾燥しており、畑も周りの草も茶色に枯れたようになっており、これらが緑色になるのは10月以降だそうです。
この季節に来れば、風景は全く違うのでしょう。

グラナダのホテル(1):2日目
中部セントレア空港を飛び立ってから34時間、スペイン南部のグラナダに着きました。
飛行機もバスも快適・ゆったりで疲労はほとんど感じませんが何となく目がチカチカ、時差ボケ突入です。

ホテルはグラナダ郊外のシンプルですが清潔なホテルで、ま、こんなもんかな?という感じです。

宿泊客は他に東洋人のグループがいたので、どこからか聞いたところ「中国、北京から」という返事でした。
食事のお行儀を心配したのですが、問題ありませんでした。

グラナダのホテル(2):2日目
セントレアからグラナダ到着まで、ラウンジ2回、機内で3食、コンスグエラで昼食、つまり大小併せて6食を食べて、今夜の夕食で7食目です。

スペインはワインでも有名、早速1本注文してみました。
ホテルでは20ユーロ(3500円相当)、街で買えば8ユーロくらいかな?というワインでしたが程々の酸味、まろやかな美味しいワインでした。

料理はとにかく量は多いです。サラダ・スープは日本流からいくと3人前、メインは2人前以上、全部は絶対に無理。

モンテフリオ(1):3日目
翌朝のホテル出発は07:30、アンダルシアの”モンテフリオ”に向かいました。約1時間で到着。

標高900mの険しい岩山の上に気付かれた白い村、スペインで最も美しい村の一つだそうです。

生憎の曇り空、雨もポツポツです。こういう時添乗員に「雨で残念、天気がよかったらもっときれいでしょうね」、とか言っても絶対に相づちは打ちません。
皆さん、運が悪かったのです、という印象を与える事を避けるためでしょう。

モンテフリオ(2):3日目
ここには青銅器時代から人が住んでいたそうで、その後ローマ人、イスラム教徒、キリスト教徒が支配したスペインの歴史そのものの村です。

では何でこんな岩山の上に村ができたのか、これは天然の要塞で外的から防御がしやすかった、自分たちの命を守るために都合のいいところだった、今流でいうと安全保障上の理由による、という事ですかね。

岩山は水資源も豊富で、村の周りは農耕ができる土地も広がっており、ナルホドと思いました。

モンテフリオ(3):3日目
村の最高地点には城跡があり、これは13世紀に建てられたそうです。

街全体は確かに美しく、中世の佇まいを残しています。とにかく坂道が多く、履き物には要注意です。
標高900m、涼しく湿気もないので、随分歩きましたが汗だくになる事はありませんでした。

9時前なのでBAR(カフェ)も営業開始前で、開店を待っているのか、老人達があちこちにたむろしていました。

ドライブインにて(1):3日目
バスでの移動ではトイレ休憩にドライブインに入ります。
ドライブインもトイレは普通は有料のところが多いのですが、ここは無料でした。

コーヒーは「コーヒー」、と頼むとエスプレッソが出てきます。カフェ・アメリカーノ、と言えば我々に馴染みのが出て来ます。これはエスプレッソにお湯を注いだものです。

コーヒーを飲んでいたら隣にトラックの運ちゃんが来たので、何を食べるか見ると、たっぷりのオリーブオイルをかけた大きなトーストと、生ハムを食べていました。

コルトバでランチ:3日目
モンテフリオからコルトバへ、2時間半です。
スペインのレストランは13:30くらいからしかしかやっていませんが、旅行会社が契約しているレストランは、少し早く開くようにお願いしているようです。

この日のランチは日本人観光客御用達のレストランのようで、飲み物メニューは日本語で準備してありました。

飲み物の値段は店によりますが、水が3ユーロ(500円相当)〜4ユーロ(650円相当)、ビール・グラスワインなどが4ユーロ(650円相当)〜6ユーロ(1000円相当)です。

コルドバ/メスキータ(1):3日目
コルドバは宿泊しているグラナダの北西150kmくらいの場所にあり、アンダルシア地方第3の都市です。
ローマ時代はヒスパニア・バエティカの首都として栄え、多くの学者・詩人を育てたところだそうです。

その後711年にイベリア半島にイスラム教徒が侵攻、ここコルドバに首都をおき、900年頃には人口50万の都市になり、東ローマ帝国のコンスタンティノーブルとその繁栄を競った、とあります。
この時代に200年間をかけて作ったモスクが現在も残るメスキータの基礎となった、という事です。

コルドバ/メスキータ(2):3日目
メスキータ−に入るには全長230mの”ローマ橋”と呼ばれる、実に立派な橋を歩いて渡ります。

橋は1世紀頃にローマ帝国によって作られ、その後何度も改築されたという事なので、ガイドに「今の形になったのはいつ頃か?」と聞いたところ19世紀だという事でした。

メスキータ−までかなりの距離を歩き、途中で幾つもの観光グループと出会います。
このグループもガイディング・レシーバーを耳にして、ガイドの説明を聞いておりました。

コルドバ/メスキータ(3):3日目
メスキータの北側にはユダヤ人街が残っています。迷路のように入り組んだ一角で、ここも通って行きました。

ユダヤ人はイスラム教徒の支配下にあった時代(8世紀〜13世紀)に多くのユダヤ人がここに住み、商業・学問・医療などの分野で活躍したそうです。

その後、スペインはイスラム教徒からキリスト教徒の支配に変わり、1492年にキリスト教徒である王がスペイン全土からユダヤ人を追放する令を出し、街のみが残ったという事です。

ユダヤ人はスペイン以外に移り住むか、キリスト教に改宗せよ、という事だったらしいのですが、改宗しても依然として差別は残ったそうです。

スペインからのユダヤ人の追放は、彼らは商業・医学・金融・哲学など重要な部分を握っていたので、スペインからの追放はこれらを失う事を意味した、と説明がありました。

つまり中世スペインではイスラムとユダヤ人(今のイスラエルと言うべきか)は融合していた、、、こういう事なんですね。
これは私は認識していない事でした。

コルドバ/メスキータ(4):3日目
このユダヤ人街の中に写真スポットとして”超有名”な”花の小道”というのがあり、あらゆる観光案内に写真が紹介されています。
幸いにもそれと全く同じアングルで、写真を撮ることができました。

狭い路地を抜けて小さな広場に出ると「は〜い、後ろを振り返って下さ〜い!」、というとこのような風景が目に飛び込んできます。
スペインだけでなく、世界中で迫害を受けたユダヤ人がイスラエルという国家を持ったのは1948年です。

コルドバ/メスキータ(5):3日目
メスキータとは要するにイスラム教のモスクを利用して作られたキリスト教会、と解釈しました。
水と油の関係のイスラム教とキリスト教が融合している、、、これも私は認識していませんでした。

ベースとなっているイスラムのモスクは巨大で、完成したときは2万5千人が収容できるものだったそうです。

中に入ると”円柱の森”と呼ばれる延々と広がる広間、昔は1000本の柱があり、今でも850本が残っています。この二重アーチの列柱は典型的イスラム様式だそうです。

コルドバ/メスキータ(6):3日目
このようにして13世紀にコルドバをキリスト教徒が再度征服、イスラム教のモスクを利用して聖堂に”改築”した、という事ですが、抵抗はなかったのか?

メスキータはイスラム教の重要な施設であり、これを利用して(その上に)聖堂を建てるというのは。彼らの勝利と支配を意味する、という事だそうです。

メキシコに行くとあらゆる教会・聖堂はスペインが征服した時に、メキシコの土着宗教施設の上に建てた、というのをメキシコ旅行で聞いたのを思い出しました。

コルドバ/メスキータ(7):3日目
キリスト教の本堂、もとい、礼拝堂です。ここはイスラム時代も、礼拝空間の中心であった場所です。

これらのデザインもイスラム教のモスクを流用した関係上、周りとバランスをとるために他の祭壇と違うそうですが、イスラム教徒でもキリスト教徒でもない異教徒の私には、違いがよくわかりませんでした。

ただアーチ状のデザインがやたらと多いような気がしないでもありませんが。

コルドバ/メスキータ(8):3日目
串団子状の手すりのデザインは、一般的な聖堂・教会では見た事がありません。
非常に特徴的でした。

ガイドの説明ではタイル、モザイク、天井装飾などはイスラム教モスクの影響を受けて引き継いでいる、という説明で、それは理解できたのですが、祭壇付近の影響についての説明はなく、私も質問をするチャンスを逃しました、

いずれにしても、”仏教寺院の中にキリスト教会を作った”くらいの事であった、と理解しました。

コルドバ/メスキータ(9):3日目
イスラム教とキリスト教の融合、普通では考えられない例がここにはある、非常に考えさせられる見学でした。

ローマ帝国からイスラム教徒、その後キリスト教徒による支配、ユダヤ人の迫害、そして15世紀からスペインは世界中の地域・国々を植民地化した大航海時代。

そういう国だったスペイン、、、では今は、、、。

建物の外に出ると多くの観光客がいて、近くには土産物屋がたくさん建ち並んでいました。

グラナダに戻りました:3日目
コルドバからバスに乗って3時間、グラナダのホテルに戻って、食事です。
明日はアルハンブラ宮殿に行くということで”Alhambra Especial ”というビールを頂きました。
柔らかい味で非常に飲みやすいビールでした。

私はあちこちに行った時は「この地方で一番人気のあるローカルのビールは何か?」と聞く事にしています。

しかし相変わらず、食事の量はけた違いに多かった。サラダの量、ナイフ・フォークと比べると一目瞭然です。

アルハンブラ宮殿(1):4日目
4日目は08:00出発でアルハンブラ城跡へ。
08:30から入場できる事になっていましたがここはスペイン、15分遅れで入る事ができました。

グラナダと言えば”アルハンブラ宮殿”、日本人でも多くの人が名前を知っている有名なところです。
特にギター演奏曲の”アルハンブラの思い出”は誰でも一度は聞いた事のある曲だと思います。

ここもスペインがイスラム教徒の支配下にあった13世紀から14世紀に建設された要塞で、中に宮殿があります。

アルハンブラ宮殿(2):4日目
入場チェックを受けて進むと城壁があるので、これを抜けるときれいに剪定された糸杉の道が続きます。
糸杉はヨーロッパ、北米でもよく見かけますが、日本では見かけません。
理由は根が張らないので強風に弱いからかも知れない、、、こういう情報をある方から頂きました。

アルハンブラ宮殿はイスラム教徒が建て、宗教的な部分(モスクなど)が限られていたので、キリスト教徒の時代になってもそのままの形で残されたと考えられます。

アルハンブラ宮殿(3):4日目
アルハンブラ城内には2000人以上の人が暮らしていたそうで、いわゆる城塞都市でもありました。
従っていわゆる”宮殿”以外の建物などの遺跡もあちこちで見ることができました。
敷地は14万uだそうですが、歩いてみるともっと広いように感じました。

城跡の敷地内には”パラドール・デ・グラナダ”というホテルがありました。
ホテルは超人気で予約も難しく、利用料金も一泊500ユーロ(8万円相当)以上するそうです。

アルハンブラ宮殿(4):4日目
ナスル宮殿の外観の一部ですが、やはり要塞ですね。
アルハンブラは要塞としての軍事的な役割も大きく、グラナダのイスラム支配を支える重要な軍事拠点でもあったことがわかります。

この辺の説明はあまりありませんでしたが、アルハンブラは政治・行政の拠点、それを支える軍事拠点、王などが住む宮殿、の3つの目的によって建てられたものであった、と言えます。
つまり”千夜一夜”の世界ではなく、もっと現実的な、権力の中枢と象徴の場所であった、、そういう事ですね。

アルハンブラ宮殿(5):4日目
ナスル宮殿と呼ばれるこの付近がアルハンブラ宮殿の心臓部です、、、」とかのガイドの説明を聞きながら、メモを取りながら、写真を撮りながら、早足で歩きながら、毎度のことですが超忙しい。

ここはナスル宮殿の中でも更に中心部になる”コマレス宮”というところです。
南北に細長い池があり、その両側に同じような建物があり、写真は南側のものです。
池には建物が鏡のように映って非常にきれいでした。

アルハンブラ宮殿(6):4日目
コマレス宮の中、”大使の間”、だったと思います。壁の模様があまりにきれいだったので何枚もの写真を撮りました。
天井にも大変きれいな複雑な模様があったのですが、写真が残っていません。

模様は全てと言ってもいいほど壁などに彫られており、”アラベスク模様”というそうです。

調べたところ、アラベスク模様とは植物模様で、葉・茎・花などを組み合わせて反復させた模様、とありました。
イスラム独特です。

アルハンブラ宮殿(7):4日目
ナスル宮殿の中の”二姉妹の間”で、ここの天井には晴らしいとしか言いようのない、鍾乳石飾りがあります。
私はこんなに美しい飾りは見た事がありません。

壁の模様も大変きれいで、部屋の名前のとおり女性が使った部屋なのでしょう、そういう雰囲気でした。

ここでも見取れていると、ガイディングレシーバーからのガイドの声がノイズ混じりに変わります。
ガイドの電波が届きにくい距離になった、つまり皆から距離が開きつつある、というサインです。

アルハンブラ宮殿(8):4日目
宮殿からはグラナダ最古の街並みが残る、”アルバイシン”が見えます。
ここは11世紀に作られた街で、敵の侵入を防ぐ城郭都市なので、道は迷路のようになっているそうです。

15世紀まではイスラム教徒が住み、今はユネスコの世界遺産に指定されており、観光客に人気の街だそうです。
実に美しい街に見えます。

アルバイシンの丘から逆にアルハンブラ宮殿を見てみたいですね。

アルハンブラ宮殿(9):4日目
ここはアルハンブラの城外にある”ヘネラリフェ”という夏の別荘で”太陽の丘”というところにあります。

ナスル宮殿からはかなり離れており、上り坂でもあったので、かなりの汗をかきました。

太陽の丘には幾つものこのような別荘があり、現存するのはこの一つだけです。
ここは1931年に補修が開始され、第二次大戦を挟んで1951年に今の姿になったそうです。

アルハンブラ宮殿(10):4日目
アルハンブラの城内には修復・補修されていない建物などが多く残っています。
城内にはメディナと呼ばれる居住地区があり、そこの住居跡・公衆浴場跡など、また兵舎跡・見張塔跡なども当時のまま残っています。

こういうのはいつかは修復・補修されるのか、そういう話は特にありませんでした。
アルハンブラは”人”が住んでいた所であり、もう少し”生活”に直結した部分が再現されていてもいいんじゃないか、と思った次第です。

アルハンブラ宮殿(11):4日目
アルハンブラ宮殿の見学は約2時間、相当な距離を歩いたのは間違いありません。

入場見学は人数制限があり、予約以外の当日券は直ぐに売り切れてしまう時が多いそうです。
この日は現地ガイドの話によると、「見学者の数が非常に少なくて皆さんはラッキー!」、との事でした。

ガイドはスペイン人の公認ガイドが英語で話し、それを添乗員が日本語で訳して説明する、という方法でしたが、添乗員の英語レベルが高く、割とスムーズでした。

本日の夕食:4日目
アルハンブラの宮殿の見学を終え、バレンシアに向けて500kmのバスの旅。
私は風景を眺めたり、行き交う車の中の日本車を数えたり、決して飽きる事はありませんでした。

ホテルについて早速食事。
この日も味はともかく、量はスゴかった。スープ、サラダ、牛肉の煮込み、全部直径30cm近くの皿にドーン!
デザートもスゴかった。

私は半分くらい食べてギブアップでした。

バレンシア市内散策(1):5日目
8時にホテルをチェックアウト、AMはバレンシア市内観光をやって、その後高速列車でバルセロナに向かいます。

話は変わります。
かなり前にあるアメリカ人に、「日本人の観光客は100m先から簡単にわかるよ」、と言われた事があります。
理由は、ご婦人方の10人中9人が帽子を被っているからだそうです。

それを言われてから私は気になって観察するのですが、今回も全員のご婦人が同じような帽子を深く被っていました。

バレンシア市内散策(2):5日目
バスを降りてしばらく歩き”セラーヌスの塔”という、バレンシアが城塞都市であった頃の名残を通って、中心部に向かいます。

この塔は14世紀末に建てられましたが、バレンシアは8世紀から13世紀までイスラム教徒の支配下にありましたので、くイスラムの香りが残っている感じがします。
こういうのを”スペイン・ゴシック”と言うそうです。

塔を入った先の右側の建物に、16世紀に作られた扉が残っています。

バレンシア市内散策(3):5日目
球市街を抜けてカテドラルの方に向かいます。
朝が早いので店などは全部閉まっており、かつ土曜日でもあるせいか、人影も疎らです。

このような一般の人が住む住宅街を歩いて気が付いたことに、エアコンの普及率が低いように思えましたので、あとで調べてみました。
いくつかのデーターがありましたが、普及率は約40%程度のようです。
なぜ普及しないのか、これも調べてみましたら納得できる理由が幾つかありました。

バレンシア市内散策(4):5日目
スペインの行政区分は国(1)、自治州(17)、県(50)、市町村(8100)の4段階で、自治州の政府、議会の権限は大きく、県の権限は限定的だそうです。

また県の議員は市町村議員の中から選ばれる、つまり県会議員は一部の市町村議員が兼務している、とガイドさんは言っておりました。

それにスペインはEU加盟国なので、何だか複雑、、、州と県は統合できそうな感じですが、どうなんですかね〜。
旗はEU旗、国旗、州旗、県旗、市町村旗があります。

バレンシア市内散策(5):5日目
カテドラル近くの”バージン広場”というところに男性が横たわる像があったのですが、誰の像で何の意味があるのか説明はありませんでした。(わかり次第更新)
像の周りには7人の女像があり、噴水になっているようでした。

先述のようにここはスペイン国(4800万人)、バレンシア州(500万人)、バレンシア県(260万人)にあるバレンシア市(80万人)です。

バレンシア市自体はマドリッド(330万人)、バルセロナ(160万人)に次ぐ3番目の都市だそうです。

バレンシア市内散策(6):5日目
バージン広場に面して”バレンシア大聖堂”があり、中に入る事ができました。
なかなか華麗な装飾で、土曜日の朝でしたが何人かの信者が熱心にお祈りをしていました。

バレンシア大聖堂は13世紀から15世紀の間に建てられ、天井にはイタリア人画家によって画かれた見事なフレスコ画がありました。

このほんの近くにカテドラルがあるのですが、ここは入る事ができませんでした。

バレンシア市内散策(7):5日目
大聖堂の方からレイナ広場を抜けて行くと右には5階建てで1回が店舗、2階が住居になった建物があり、広場横にはテーブルが幾つも出されて、憩いの場になっています。
我々は時間の決められた観光客なので急ぎ足で通り抜ける事になります。

中心部近くにはいくつものホテルがあるので、ツアーの中に1日だけ完全フリーという日があって、歩いて観光・ショッピングとかもいいんじゃない、そんな感じがしました。
ただ後で説明があったのですが、この付近にもやはり危険なエリアがいくつかあるそうです。

バレンシア市内散策(8):5日目
先の広場から5分程歩いたところに”バレンシア中央市場”があり、自由解散になりました。
建物は1914年に建築が始まり1928年に完成、このきれいな建築様式は”近代主義建築”というそうです。

広さは8000uで、ヨーロッパ最大の市場と案内には書かれていますが、私はハンガリー・ブダペストの中央市場に行った事がありますが、そちらの方が広い感じで、実際に数字上でも10000uです。
ただ建物の外観とと中の美しさはバレンシアに軍配があがるのは間違いありません。

バレンシア市内散策(9):5日目
ヨーロッパでは外でトイレを使う場合は有料が基本、と考えて間違いありません。

お店に入っても使えますが、何か買い物をするのがマナーですし、トイレには鍵が掛かっているので、店の人に鍵を借りる必要があるところも多いです。

この市場のトイレも有料で1ユーロ(160円相当)、現金は使えずクレジットカードのみの支払いでした。
以前はトイレの前にオバさんが座っていてお金を渡す、というやりかたが多かったのですが、時代の流れですね。

バレンシア市内散策(10):5日目
市場オープンは月曜〜土曜日の07:30〜14:00で、日曜はやっていません。

市場の中をブラブラ歩いて物価を見ると果物は安い感じで、野菜は日本と同じくらいの感じでした。

スペインの消費税は21%で食品関係は10%、一部はそれ以下、所得税は最低で19%、各種控除はあるものの、日本とは比較にならない高い税率です。

収入は円換算では日本と同等〜3/4くらい?。

バレンシア市内散策(11):5日目
スペイン人は魚介類をドイツ、イギリス人などより多く食べると言う事で、魚売り場にも行ってみました。
エビはやはり人気でタコもイカもありました。

タコは茹でてオリーブオイルとパプリカで味付けして食べたり、生でオリーブオイル・レモン・塩でカルパッチョで食べるのが人気だそうです。

いずれもワインがグイグイ進みそうな、私に言わせると”ワインのつまみ”、ですね。

バレンシア市内散策(12):5日目
マグロもありました。1kg/10ユーロ(1600円相当)で売っており、どういう売り方をするのか、どうも捌いて売ってはくれない感じです。

現役の頃UAEのドバイの日本料理屋でマグロの刺身を頼んだら、「スペイン沖ですか、それともインド洋ですか?」と聞かれたのを思い出します。

鰯とかも大いに食べるようです。
鮮度は悪くはなさそうですが、僅かな氷の上に置いているだけなの急速に落ちるのは目に見えていました。

バレンシア市内散策(13):5日目
市場内のBARです。
喉が渇いたのでビールでも飲もうかな〜と、カウンターの後ろから見ていたら「並ぶのはあっちだよ」と、横から来た客のひとりが教えてくれました。

見ると、カウンター右手の奥で数人が列を作っており、その客も列の後ろに並びに行きました。

下関・唐戸の魚市場に行った時、2階の店で寿司をつまみながら一杯やったのを思い出したりしていました。

バレンシア市内散策(14):5日目
市場ではワインとかも売られており、5ユーロから10ユーロ(800円〜1600円相当)が中心でした。
ワインに生ハムとチーズ、それにパンがあれば私は立派な夕食になりますね〜。

市場は結構な人が来ていましたがごった返すという程ではなく、この程度で商売になるのかな〜、と思ったりしました。

一般家庭の主婦などの買い物の他に、レストランで使うのか、かなり大量の野菜とか肉を買い込んでいる中年の男性の姿なども見受けました。

バレンシアからバルセロナ(1):5日目
バレンシア中央駅からからバルセロナまで約3時間、2等車で行きます。開放的で天井の高い駅です。
ここもグローバルスタンダードで、出発・到着・遅れなどについてのアナウンスは一切ありません。

私はアメリカNY・ボストン間のAMTRAK、台湾の新幹線、スイス/パリのTGV、中国のハルピン/大連、大連、チェコ/ハンガリーの高速列車に乗った事があります。
全て駅でのアナウンスは皆無です。一切ありません。

日本は駅のアナウンスで耳が痛くなります。

バレンシアからバルセロナ(2):5日目
駅のホームには発車10分くらい前にしか入れないのも世界共通で、日本のようにホームが待合室と兼用(?)にはなっていません。
時間になるとホームに入るゲートが開いてホームに行き乗り込みます。また各国とも空港のようなX線による手荷物検査があるのが普通です。

乗った高速鉄道は”ユーロメッド”と呼ばれるもので、2等車は日本の新幹線の普通車と同じと思えばいいですが、各部の手入れは行き届いていませんでした。

日本出発から5日目の半分までのスペインの旅の様子です。
スペインは日本の面積の1.3倍あり、今回の旅も移動距離は全部で2400km以上ありました。
高速道路は他のヨーロッパ諸国と同じで、乗用車は140km/h前後、バスでも120km/hくらいのスピードでガンガン走ります。
またバスの中で飲み物はOKですが、何かを食べるのは禁止です。これも他の国と同じです。

バスの移動の間、私は行き交う車を見たり風景を眺めたり、これも重要な旅の一部だと思っています。
車はスペイン・メーカーもありますが確か既にドイツのフォルクスワーゲン・グループに入ったと記憶しています。走っている車を見るとフランス車、ドイツ車が圧倒的に多く日本車、アメリカ車は多くはありません。

街を出ると左右に広がるのは一面のオリーブ畑。オリーブ、オリーブ、オリーブです。
スペイン人の主食はオリーブか?と言いたくなるくらいです。
たまに葡萄畑が目に入りますが、道路沿いから離れたところには、もったもっとたくさんあるのでしょう。

旅は前半はまあ順調でしたが、後半はいろいろありました。それらは”スペインの旅(2)”以降に書きます。