ヨーロッパとは(2022−03−14)
ボクは旧ソ連が崩壊する前のヨーロッパに2回ほど仕事で行った経験がある。1回目は4ヶ月間ちょっと、もう1回は約2ヶ月間だった。
ベルギーからの出張で10カ国を飛行機と車で何度も訪れた。
当時は実質的にソ連に支配された東ヨーロッパのワルシャワ条約機構国と、NATO(北大西洋条約機構)国が鋭く対立していた冷戦時期であった。

ボクはベルギーに本部が置かれたある大きなプロジェクトの一担当メンバーであった。
ある日ボクを含む4人のメンバーはデンマーク、スエーデンに車で行く指示を受けた。

ボク:「車ですか、まだここでの運転はあまり慣れてないんですが。」
リーダー:「地図さえあれば大丈夫です。」
ボク:「そうですか、ところで地図は?」
リーダー:「地図は街で売ってます。」
ボク:「車はどれを使えばいいのですか?」
リーダー:「モーター・プールから自分で選んで下さい。タイヤとオイルの点検忘れないように。」

こんなやりとりがあったのを覚えている。そして長距離ドライブにふさわしそうな車2台を選んだ。

ボク以外の3名のメンバーはボクより先輩の方々であったが海外出張の経験は当時のボクと同じようなレベル、じゃ行ってみるか〜、そんな感じだったと記憶する。

メンバー4人は朝早くブラッセル郊外のホテルからオランダに向けて2台の車で出発。
ベルギーからオランダへの入国はそれまでと同じでパスポートをチラと見てスタンプをポーンでおしまい。
オランダではちょっと(イエ、かなり)遠回り、寄り道をして風車を見学
、そして西ドイツとの国境へ向かった。

国境のゲートに着くとドイツ側近郊にはNATOの航空基地があるらしく戦闘機が低空で何機も飛行していた。
西ドイツの入国管理官にパスポートを見せると彼はパスポートを取り上げて、「ちょっと待って下さい」と言って事務所の中に入ったまま出て来ない。

「何だろう、仕方ないな〜。」、とか皆ブツブツ言いながゲート横にあったレストランに入って食事をする事になった。
レストランでは我々から数メートル離れたテーブルでアメリカ人らしい夫婦が食事をしていた。

英語と服装でアメリカ人とすぐに分かった。一般的にアメリカ人の服装は良く言えばカジュアル、別な言い方をするとダラッとしているのが特徴だ。

奥さんがこちらをチラチラ見ながら小さな声で、「彼等はJapaneseかしら?」、とダンナらしき男性に聞くいているのが聞こえた。
するとダンナらしき男性はチラとボク達を見て、小声で「シー!彼等は間違いなくChaineseだよ。」、という返事をしていたのをボクは鮮明に覚えている。

食事を終えて再びゲート横の事務所に行くと、先程の入国管理官が全員のパスポートを返してくれた。
後で聞いた現地駐在社員からの話では、既に起きてから十数年も経っていたテルアビブ空港での銃乱射事件による日本人への警戒、それと日本人共産主義者の入国に対する警戒からこういう厳しい審査になっているとの事であった。

ヨーロッパでは服装が大事だと言われボク達は在欧中、休日を除きネクタイと上着を忘れなかった。

ドイツに無事入国したボク達はハンブルクを目指しアウトバーンをぶっ飛ばし、、、と言いたいのだがボク達の乗る車は130km/h以上を長時間、あまり緊張しないでゆったりと走るのはちょっとキツかったのである。

選んだ車はピカピカだったが確か2年くらい前のモデルで最新ではなかったのと、当時は一部のモデルを除き日本車はまだまだアウトバーンをデカイ顔してドーンと走れるだけの性能がなかったのである。

アウトバーンは走ってみて、噂どおりの素晴らしさを実感できた。道路は有事の際に”飛行機の離着陸”ができるように、直線で見晴らしのいいところを突き抜けているなどは見事であった。

左車線は最低150km以上のスピードで安定して長時間走れないと、すぐに後ろから追い付かれてパッシングされた。アウトバーンではパッシングされたらさっと右の車線に入って譲るのがルールであった。

3車線の場合、左のレーンは170km/hくらいで流れており、真ん中のレーンは120〜130km/h、右のレーンは100kmくらいで、80km/h以下はスピード違反(!)になると駐在社員から言われていた。

真ん中の車線を走っていると左側をサーッと走り抜けていく車・バイクは殆どがドイツ車であった。アメリカのフリーウエー、インターステーツも最初はアウトバーンに似ていると思ったが、最高速度制限が110〜125km/hというのは何ともトロトロ運転だと感じた。

ハンブルク近郊の立体交差するアウトバーンのダイナミックさには腰を抜かすほど驚いた。ハンブルク郊外を抜け、夕方になったので一旦アウトバーンを下りて夕食のためにレストランに入った。
レストランでは黒人のウエイターにデンマークへの道はこれでいいのか、方向は正しいか聞いてみた。

するとウエイターの黒人は丸い大きな目を剥いて、「皆さん、これをまっすぐ行くと東ドイツですよ!」、と行ってはならない国に向かっている、という言い方で答えた。
ボクは車から地図を持って来てウエイターに再度道路を確認、デンマーク国境に向かったのであった。

当時、西ドイツから東ドイツは一旦入ってしまうと二度と戻って来れないと言われていた。東ドイツからは西ドイツに密入国してくる人が後を絶たず、それを取り締まる警備兵まで西ドイツに逃てきた時代であった。

東から正式に国境を踏み越えて来れるのは、東側の戦車だけ”、とか言われていたのを覚えている。

ドイツからデンマークに入り、目的地のコルディングという街に着いたのは夜中の10時頃だった。ベルギーからオランダ、ドイツを抜けてデンマークまで全部で700kmくらいのドライブだったと記憶するが、あちこち寄り道をしてブラブラ休憩をしたりしたので意外と時間がかかったのだった。

出張の間にベルギーからドイツにはベルギー人の社員と一緒に行った事もあった。この時は国境の通過も彼が入国管理官へ説明してくれたお陰でスムースで、パスポートを取り上げられた記憶はない。

オランダ/ドイツ国境以外でパスポートを取り上げられたその後の経験は、アメリカからカナダ入国時に1回(これは多分東洋人に対するイジワル)ある。

それとブラジル・サンパウロ空港のバリグ航空カウンターの女の子に、「キャ〜、この人アメリカのビザ持ってる!見て、見て!」とか他の女の子に見せて回わられた時の計2回である。

ベルギー人と一緒に行くとドライブ中にいろいろな話をしてくれるので、これが非常に興味深かった。

「日本人は"ヨーロッパ"って一括りに言いますが、国によって言葉も歴史も文化も経済も何もかも全く違うのです。Nさんは今回あちこち行ったからよくわかったでしょう。」、この言葉が印象に残っている。

ドイツは第2次大戦で国土が戦場になり、民間人の死者数は日本の軍人の戦死者数と同じ230万人である。ちょっとした街に入ると、橋とか大きな建物とかの横に戦闘の記録などが小さな看板に書かれていた。
こういうのは日本人だけで行った場合は100%わからない事で、説明を受けて初めて知った。

今では名前も場所も忘れたがボクとベルギー人が西ドイツのある田舎町のレストランに入った時の事であった。
そこでは年配女性が注文した料理を運んでくれ、その後ベルギー人といろいろと話をしていた。

会話はドイツ語だったのでボクには全くわからなかったが、あとで内容を教えてくれた。
ベルギー人は年配女性に一緒にいる東洋人は日本人だと説明、すると第2次大戦時の話になったそうだ。

「私が子どもの頃この街は戦場になり、多くのドイツ兵と一般人がなくなりました。ソ連兵は残虐でした。
今でも何かあればソ連は2000両の戦車を2日で私の国に送る事ができます。戦車はそこの街角に顔を出すかも知れないのです。」

と言っていたそうだ。

我々日本人は東西冷戦と言っても、ピンとくる人は少なかったと思う。しかし地続きで国境を挟んで軍隊が対峙する国とはそういう事だ、というのをボクはその時初めて知った。
あの年配の女性とは直接話した訳ではなかったが、話の内容は今でも忘れられない。

ボクは2年半前にオーストリア、ハンガリー、チェコを旅行した。これらの国々はソ連も含めて、冷戦時代は簡単に旅行できる国ではなかった。 
チェコはプラハの春(民主化の試み)をソ連軍の侵攻により踏みにじられた国である。

ソ連の戦車がチェコの民主化を踏みにじったのを象徴する、ヴァーツラフ広場
通りのホテルにボク達は宿泊した。

現在話題になっているウクライナと国境を接している、ハンガリーの首都ブダペストにも行った。
かつて東ヨーロッパと呼ばれていたこれらの国はどこも美しい風景の田舎と美しい街並みでドイツ、オランダ、ベルギー、スイスなどとは違う風景である。

ウクライナの古都キエフは写真で見ると、チェコのプラハと何となく似ているような感じがする。
今ウクライナにはロシア軍が侵略して建物・施設を破壊、人々を殺している。ボクの行ったブダペストにも難民となった人達が押し寄せている。

ボクはこれらのニュースを見聞きする度にボクがヨーロッパで経験をした事を思い出す。

たった”ひとりの狂人”によってウクライナの国民だけではなく、世界中の人間の命が危険に晒されている。狂人は核兵器発射のボタンを持っている。我々はこれに対して何をすべきなのか、いや何ができるというのだろうか、、、。

■ リンク: チェコ旅行
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