丹東(安東)の思い出(2022−01−17)
年が明けて早々、千葉県に住むある先輩から素晴らしい写真が送られてきた。この先輩もボクと同じくマンションの10階に住んでおり、ここから撮った写真である。
地図で見るとスカイツリーまでは約20km、富士山までは約120kmくらいの距離だが天気が良い日にはこんな写真も撮れるんだ〜、と感心しきり。

こういう写真は一朝一夕に撮れるようにはならない。やはり研究というか工夫と努力、何よりもいい写真を撮ろうという熱意が重要だと思う。

写真と言えば今から15年くらい前からしばらくの間一眼レフの高級カメラがド〜ンと売れた時期がある。
これは写真撮影を退職後の趣味にしようと思った団塊の世代が一式20万円、30万円というカメラを買ったからであった。

ボクが11年前にアメリカから帰国した頃、ちょっとした所に行くとカメラとレンズなどを入れたバッグを肩にした退職オジサンと思われる人達をよく見掛けたものだ。

しかし最近はそういう人をあまり見掛けなくなった。
カメラオジサンが減った理由はいろいろあると思うが、年令と共に外に出るのが段々と面倒になってきた、というのが結局は大きいのか。

他には撮った写真を見せる誰かがそれほどいないので段々張り合いがなくなり、カメラは飾り物になってしまった、というのもありそうだ。

撮った写真は自分が楽しむ以外に、それを誰かに見てもらうというのも楽しみ(?)の一つに入るからね。

ボクも写真を撮るのは好きである。ボクの趣味のひとつは旅行で、旅先の感激とかちょっとした出来事をカメラに収めるのも旅行の楽しみである。

なのでカメラは機動性重視、ボクは数万円レベルの廉価なコンパクトデジカメを使っている。

そんな訳でボクは結構ラフにカメラを取り扱うので時々落としたりもするが、壊れたらまた買えばイイや、という感覚で使っている。
実際に何度も手許から落としたりしているが、一度も壊れたことはない。思ったより頑丈である。スマホのカメラも便利だがボクのスマホは少し古いので性能・機能でコンパクトデジカメにはかなわない。

ボクには先輩のような写真は撮れないがそれでも、「おお!ボクでもこんな写真が撮れるではないか!」、という鬼子、いや突然変異みたいな写真が100枚に1枚くらい混じっている。今度そういうのだけ集めてみますかね。

今日のYAHOOニュースの中に”韓国聯合ニュース”からの配信で、「北朝鮮の貨物列車、約1年半ぶりに中国入り、陸路貿易再開か」、というのがあった。

写真を見るとボクが2年半前に行った鴨緑江を隔てて北朝鮮と接する国境の丹東にある2つの鉄橋が写っている。橋は2つが隣接しており、今では使われていない川下側の"鴨緑江断橋(日本名:鴨緑江橋梁)"と使われている川上側の"中朝友誼橋(日本名:鴨緑江第二橋梁)"がある。いずれも日本が作ったものだ。

ボクはこの時9日間の"旧満州の旅"に参加していたのであるがこれは一生忘れることのない印象深い旅のひとつになった。

友人などに、「旧満州の旅に行ってきたよ。」、と言うとその反応は、「どうして満州なんかに行ったの?」、と半分以上の人に問い返される。

ボクの趣味のひとつ(今では一番かも知れない)は日本近代史の研究である。日本近代史を眺めるには要所が3つある。
"明治維新"、"満州国"、"大東亜戦争"である。

この3つについての知識と理解なしに"今の我々の立ち位置の座標”はどこにあるか、という認識は難しい、というより不可能に近い。

近代史を紐解くと厄介なのが、我々の目に入る書籍・資料の多くは”事実”を取捨選択して巧妙に編集、意図をもって加工されたものが多い点である。

加工は原形を止めないもの、ウソで固められたものも多く、西の大陸国家が言うように、また半島国がせっせとやっているように、「歴史は作るものである」、というのは実態として正しい。

ボクは自分で”素材”と判断したものを集めて、それを組み立ててストーリーを作る、というのをヒマにまかせてやっている。
とは言うものの実際は誰かの記録、見解を多角度からひねくり回す、という程度の事しか結局はできいていないのだけどね。

そんな中でボクは数年前から満州国について調べているうちに旧満州をこの目で見たいという気持が強くなり、とりあえず一回目として哈爾浜(ハルピン)から大連までの主要都市を巡る旅を申し込んだのであった。

その中で訪れたところのひとつが今回のニュースになっている国境の街、丹東である。

ボクは丹東で今も使われている"中朝友誼橋(日本名:鴨緑江第二橋梁)"を見て「ウ〜ン、、、」、と唸ってしまった。

夥しい、延々と続く大型トラックの列が北朝鮮に向かって流れていたのである。国連は北朝鮮に経済制裁措置を行う決議をこの時点で確か10回以上やっていたと記憶するが、そんなもの何の効果もないと言われていた時でもあった。

北朝鮮側(新義州市)側は鴨緑江断橋(日本名:鴨緑江橋梁)の先端まで行くと細かい部分まで見えた。しかし人影はなく、建物は殆どがダミーのようで、小さな観覧車まで見えるように作ってあるのが何だか痛々しかった。あの向こうでは一般市民はどんな生活をしているのだろうか、いろいろと考えを巡らせたのを覚えている。

"中朝友誼橋(日本名:鴨緑江第二橋梁)"は鉄道と道路があり1943(昭和18)年に完成し、先に建設され使われていた鴨緑江橋梁(朝鮮戦争で国連軍に空爆・破壊され、そのままにしてある)の複線化が目的であった。

韓国のニュースも日本のニュースも北朝鮮と中国の交易(中国の支援と呼ぶべきだろうが)は中国のコロナ蔓延を境に途絶えたと伝えている。

しかし世界中でコロナ感染が広がっている中で、コロナにより物流・貿易の制限を行っている国なんかどこにもない。なぜ"中朝友誼橋(鴨緑江第二橋梁)"の往き来は途絶えたのか。

コロナ蔓延で交易が途絶えたのであれば、コロナ感染が沈静化したから往来が始まった、という事か?しかしそんな事はないのは他の報道で明らかだ。

北朝鮮は現在餓死者発生寸前の飢餓状態にある。日本のマスコミはあまり報道しないが、ボクが読んでいるアメリカのWEBニュースは何度も詳しく伝えている。
今から6月までが米はおろか、農作物が全く獲れない端境期になる。大量の餓死者発生の可能性は高い。

ボクは中国と北朝鮮の往来再開のバックグランドは主として北朝鮮の食糧事情ではないかと思っている。そして今年に入ってから3回のミサイル発射実験は国連への経済制裁解除を要求するメッセージではないか。北朝鮮はもはや身動きのとれないギリギリの状態に来ていると見るべきだろう。

丹東に着いたその夜見た北朝鮮舞踊、出てきたのは蝋人形のような顔をしたやせ細った北朝鮮の女の子だった。北朝鮮国内にいる人達の食糧事情が想像できる姿だった。

■リンク:旧満州の旅(4)鞍山・丹東
■リンク:旧満州の旅(5)丹東・大連